ルナ・カース子爵、最初の罪
影守 玄
ルナ・カース子爵、最初の罪
それは、声だったのか、思考だったのか。
今となっては、もう判別がつかない。
「――正面は囮だ」
誰かが、そう言った気がした。
理屈は整っていて、あまりにも自然で、
疑うという発想そのものが浮かばなかった。
その言葉を、自分の考えだと信じた。
信じてしまった。
だから、そのときはまだ知らなかったのだ。
その言葉が、最初から私のものではなかったことを。
この戦場で泣いているのは、わたしだけだった。
泣くつもりなど、なかった。
悪魔の貴族として生まれ、貴族として躾けられ、
貴族として冷たくあれと教えられてきた。
涙は弱さ。弱さは死。そう信じてきたのに。
頬を伝うものは、熱く、止まらない。
(――私が、殺した)
まだ「死」が告げられたわけではない。
それでも、私は理解していた。
あの背中は、もう戻らないのだと。
戦場は赤黒い霧に沈み、
空気は魔力の焦げた匂いで満ちている。
悪魔軍は優勢だった。ほんの少し前までは。
勝利の輪郭ははっきりしていた。
――私が、余計なことを言うまでは。
「ルナ様!」
護衛のレムロスが私の腕を掴み、引き寄せた。
「この戦場から急いで離脱します。私についてきてください!」
「……わかったわ、レムロス」
声が震えないように言ったつもりだった。
だが、舌が重い。喉が乾く。
足は、鉛のように戦場へ縫い付けられていた。
前線の中心に、お父様がいた。
父――ラグナート・カース侯爵。
下位の邪眼しか持たずとも、武力と指揮で軍を動かす男。
私の祖父は上位の邪眼と武力を併せ持つ侯爵だったが、すでに他界している。
父は祖父ほど「魔眼の名声」はない。
その代わり、鋼のような現実を持っていた。
だから私は、父を支えたいと思った。
役に立ちたいと思った。
戦えない自分が、せめて「見ること」だけでも、と。
そして私は、ある人物の言葉を信用してしまった。
「侯爵は迂回すべきだ」
「正面の天使軍は囮だ」
「この谷を抜ければ、一気に包囲できる」
柔らかい声だった。
理路整然としていて、疑いようがなかった。
その助言を、私は父へ届けた。
父は一瞬だけ私を見た。
――その目の奥に、迷いはなかった。
「よし。進軍を変える」
その一言で、軍が動いた。
軍が動き、戦場が動き、世界がずれた。
そして今。
谷を抜けた先で、待ち伏せが開いた。
天使軍は、最初からそこにいた。
岩陰から、白い刃が降り注ぐ。
光が裂け、魔力が鳴り、悪魔兵が倒れていく。
(……罠)
私は邪眼を開いた。
視界の色が剥がれ落ち、戦況が“骨格”だけになる。
敵の配置、射線、援護、退路。
天使軍は緻密に組まれていた。
そしてこちらは、見事に袋に詰められている。
勝ち目はない。
喉が、きゅっと締め付けられた。
(――私が、ここへ連れてきた)
邪眼が告げる未来は一つ。
父の軍は、ここで削り殺される。
「ルナ!」
父の声が飛んだ。
私は顔を上げた。
父は剣を握り、天使の光の中に立っていた。
戦場で、父はいつも通りだった。
いつも通り、強く、冷たく、迷わない。
「撤退だ」
「お父様……!」
言いかけた言葉が、喉で砕けた。
父は振り返らない。
私の目を見ない。
ただ、剣を振るいながら、命令だけを投げる。
「レムロス。ルナを連れて行け」
「……っ!」
レムロスが私を引く。
私は抵抗した。
抵抗して、足がもつれ、泥を蹴り、涙がこぼれた。
「いや……待って……! お父様……!」
父は答えない。
答えないまま、軍の前へ出る。
「ルナ様!」
レムロスが叫ぶ。
「グラドニクが先に援軍要請に向かっています。
この先で合流できるはずです!」
その言葉が、現実味を持たなかった。
合流? 援軍? そんなものが間に合うのか?
いや、それ以前に――
(お父様が……)
背後で、爆音が跳ねた。
白い光が地面を抉り、赤黒い血が弾ける。
振り返りたかった。
だが振り返った瞬間、私は終わる。
父が命令した「生」の意味を裏切ることになる。
私は歯を食いしばって走った。
走りながら、心の中が崩れていく。
(私が余計なことを言った)
(私が信じた)
(私が、父を――)
邪眼は閉じていた。
開けば、父の死が確定してしまう気がして。
私は、見ないことで、まだ生き延びようとしていた。
それでも、背後から聞こえた。
天使の上位が来た。
空気が変わる。
音が一段落ち、戦場が“沈む”。
そして、父の魔力が燃え上がった。
それは特攻だった。
迷いのない、自分の命を投げる一撃。
(……相打ち)
邪眼がなくても分かった。
戦場の「終わり方」で分かった。
私は、声も出せずに走り続けた。
涙だけが落ちる。
足元の泥に吸われていく。
本陣に辿り着いたとき、私は息をしていなかった。
しているのに、していないような感覚だった。
天幕の列。
兵の怒号。
傷兵の呻き。
私は誰にも挨拶せず、ただ探した。
――あの人物を。
私に助言をくれた者。
谷を抜けろと言った者。
正面は囮だと言った者。
(あいつがいなければ)
天幕をひとつ、ふたつ、三つ。
視線を走らせ、兵の顔を見ていく。
いない。
「……すみません」
近くの副官を掴まえる。
「こちらに、伝令のような者が来ていなかった?
背が高くて、声が柔らかくて……」
副官は眉をひそめた。
「……誰のことです?」
「侯爵に進軍の助言をした者よ。私にも――」
「そのような者は、最初からいません」
言葉が、頭の中で弾けた。
「……嘘」
「本当に知りません。名簿にも、
伝令にも、記録にも――」
副官の声が遠くなる。
私は、邪眼を開いた。
世界の色が剥がれる。
副官の感情が見える。
困惑。誠実。事実。
――嘘ではない。
冷たいものが、背骨を撫で上げた。
(……最初から、いなかった)
なら、私は何を信じた?
あの声は、どこから来た?
あの理屈は、どこへ消えた?
答えは一つだった。
天使。
天使が、私に言葉を与えた。
言葉で私を動かし、私の口で父を動かした。
策略。
最初から、父を討つための罠。
いや、もっと残酷だ。
――私に、父を殺させるための罠。
足元が揺れた。
私は天幕の支柱に手をつき、吐き気を堪えた。
そのとき、指揮官たちの声が聞こえた。
「侯爵は多くの味方を救った」
「殿を引き受け、上位天使を相打ちで落とした」
「我らの誇りだ。英雄だ」
英雄。
誇り。
名誉。
言葉は、正しい。
その評価がなければ、軍は崩れる。
だが、私は知っている。
父は、私を逃がすために死んだ。
私が、罠に嵌めた戦場で。
「違う……」
声が震えた。
(違うのよ)
喉の奥まで言葉が上がってきて、そこで止まった。
――私のせいだ。
――私が進言した。
――私が信じた。
――私が父を殺した。
言えばいい。
言えば、真実になる。
だが、言った瞬間、私は何者になる?
軍は揺らぐ。
味方の士気が崩れる。
父の死の意味が折れる。
そして何より――
父の背中が、無駄になる。
私は、言えなかった。
「……侯爵は、英雄です」
誰かがそう言った。
私の口が、勝手に同じ形をなぞった気がした。
英雄。
英雄。
英雄。
その言葉が、胸の中で腐っていく。
夜。
私は一人で、天幕の外へ出た。
星が瞬いている。
無数に、何ひとつ語らずに。
邪眼を閉じたまま、空を見上げる。
「……お父様」
呼びかけても、返事はない。
それでも声は出た。
声が出たことが、ひどく恥ずかしかった。
私は、戦えない。
剣も、力も持たない。
持っているのは、上位の邪眼だけ。
見えるのに、守れない。
気づけるのに、救えない。
そして、信じたせいで、殺した。
(私は、悪魔の貴族なのに)
悪魔は冷たいはずだ。
悪魔は疑うはずだ。
悪魔は、利用するはずだ。
なのに私は、信じた。
たった一つの言葉を。
天使は、それを知っていた。
私が、人間よりも脆いことを。
信頼という感情に弱いことを。
だから、私の口を使った。
私は膝をつかなかった。
泣き止むこともなかった。
ただ、決めた。
(復讐する)
誰に?
天使に。
策略を巡らせた上位天使に。
私の中に言葉を植え付けた存在に。
だが、それだけでは足りない。
(私自身にも)
私は、
父を殺した罪は、消えない。
英雄譚がどれほど輝いても、消えない。
復讐は、償いにはならない。
それでも、歩くためには必要だ。
私は星のない方向へ目を向けた。
闇が濃いほうへ。
悪魔の道は、そこにしかない。
(お父様)
心の中で呼ぶ。
振り返らない背中を、思い出す。
私も、振り返らない。
振り返れば、私は壊れる。
壊れたままでは、天使に届かない。
この戦場で泣いているのは、わたしだけだった。
そしてそれは――
二度と止まらない涙になる。
ルナ・カース子爵、最初の罪 影守 玄 @Kage01
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