4 田村康成
放課後の教室。当時八歳の康成少年は自分の席に座り、うつむいていた。廊下を歩く生徒が、康成を指さして笑っている。
机の上には食べ残した給食。茄子だけがどうしても食べられず、居残りをさせられているのだ。前の席には担任がいて、康成を監視しているので、こっそり捨てることもできない。
「早く食えよ」
担任が無精髭の生えた口元を歪ませながら、康成の頭を小突く。彼はなぜか康成のことを目の敵にしていた。みんなの前で片親だと馬鹿にするし、機嫌が悪い時には手を上げることもあった。
だから彼の前ではどうしても委縮してしまう。康成は小さく首を横に振った。
片親が、と担任が吐き捨てるように言った。
「水商売の女はガキの躾すらできないのか」
康成は自分の顔が、かっと熱くなるのを感じた。
水商売という言葉の意味はわからなかったが、母が馬鹿にされていることだけはわかった。
康成は茄子を口につめ込むと、教室を飛び出した。
「食器を片付けろ」と叫ぶ担任を無視して廊下を走る。
校門のあたりで気持ち悪くなった。枯れた花壇に胃の中の物をぶちまける。涙がにじんで、ひどく惨めな気分になった。
母は家の居間で化粧をしていた。母が働くスナックは夜に店を開くので、いつも夕方頃に準備をして出勤する。
「あら、今日は早いのね。友達とは遊ばなかったの?」
暢気に口紅を引いている母の姿を見ていると、無性に腹が立ってきた。ほかの生徒に笑われたのも、担任に馬鹿にされたのも、すべて母の責任のように思えてくる。母が離婚さえしなければ、こんな目に遭うこともなかったのに。
「どうしてウチには父親がいないの」
「なによ急に」
「どうしてウチは片親なの」
その途端、母の顔が険しくなった。片親なんて八歳の子供が使う言葉ではない。だから同級生ではなく、他の大人──教師から馬鹿にされたのだと察したらしい。
母は静かに口紅を置いて、電話の受話器を手に取った。口ぶりからして相手はスナックのママのようだ。今日は熱が出たので休む、という旨を伝えると、母は康成を振り返った。
「康成、キャッチボールしに行くよ」
「はあ? 意味わかんないし」
「いいから行くよ」
母は一度こうと決めたら絶対に曲げない人だった。康成は半ば引きずられるようにして公園に連れて行かれた。
日は傾いていたが、公園にはまだ子供たちの姿があった。野球をしたり、セミを捕まえたりして、楽しそうに遊んでいる。
けれど康成と母が公園に入ってくると、ぴたりと手を止めて好奇の視線を二人に注いだ。水商売風のドレスを着た女とその息子が、手にグローブミットをはめた状態で現れたのだから無理もない。
母がでたらめなフォームでボールを投げる。ボールは大きく弧を描いて康成の頭上を飛び越えていく。周囲から忍び笑いが漏れた。
康成は恥ずかしさを誤魔化すために「下手くそ」と毒づく。
「ごめんごめん」
康成は力任せにボールを投げる。ボールは母の脇を飛んでいった。
「あんたも下手くそじゃない」
母が笑う。クラスメイトもこちらを指さして笑っている。
康成はもうやけくそだった。機械のようにボールを投げては受けてを繰り返す。母の気が済むのを待ちながら。
周囲の子供たちは初めのうちこそ笑っていたが、次第に興味を失くし、一人また一人と帰っていった。康成も本当は帰りたかったが、彼らと一緒に帰路につくのは嫌だった。だからひたすら投げ続けた。
やがて日が暮れる頃には、公園には康成と母の二人だけが残された。ボールがミットに沈む音が、暗い公園に響く。
「ラスト一球。こい!」
母が手を上げる。
康成は大きく振りかぶった。この時にはもう、康成は素直にキャッチボールを楽しんでいた。嫌々始めたはずだったのに、いつの間にか本気になっていたのだ。
ボールが康成の手から放たれる。だが少し力み過ぎたらしい。
ボールは大きく左にそれて母の頭上を飛び越え、ドーム型滑り台の穴の中に転がっていった。
「ホームランね」
母が穴の中に入っていく。康成は恥ずかしくなって、足元の土を靴の先でほじくった。
少ししてから顔を上げると、母の姿がなかった。滑り台に目をやるが、誰もいない。ついさっき穴に入っていくのを見たのに。
「お母さん?」
返事はない。なんだか急に心細くなった。
康成は滑り台に近づいた。真っ黒い穴の中を覗き込む。
「ばあっ」
両手を広げた母が、暗闇から飛び出してきた。
驚いた康成は「わあっ」と悲鳴をあげて尻もちをついた。
「ふふ、びっくりした?」
母が康成の頬を両掌で包みこむ。カサカサしているけれど温かい手だった。母が目を細めて康成の顔を見つめる。
「ごめんね、康成。お父さんがいないせいで、苦労かけるね」
「…べつに。お父さんなんかいらないし」
「そうなの? これからはお母さんが、父親と母親を一人二役でやろうと思ってたのに」
「だからいきなりキャッチボールなんかしたの?」
「なによ、安直だって言いたいの? 父親と言えばキャッチボールでしょ。あんただって楽しんでたくせに」
母が康成の頭を両手で撫で回してくる。少しうっとうしいけれど心地いい。
「お母さん、のど乾いた」
「ジュース買って帰ろうか。お兄ちゃんたちには内緒よ」
ふたりは手をつないで公園を出た。
暗い闇の中で、自販機の光がぼんやりと光っていた。母が小銭を入れて微笑む。
「どれがいい?」
「ミカンジュース」
母がボタンを押すと、重たい音を立てて缶が落ちてきた。プルタブを開けて渡してくれる。
康成は半分ほどを一気に飲み干した。爽やかな甘さが口に広がる。冷たいのど越しが、火照った体に気持ちいい。いつもは、ジュースは高いから、と買ってくれないので余計においしく感じた。
ふたりはまた手を取って歩き出す。
母が夕焼け小焼けをハミングする。康成はミカンジュースを飲みながら家に帰った。
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