第3章第1話

エルダの村を出てから、すでに幾月が経っていた。




ニキ、そしてトーレン――二つの村で働き、滞在しながら歩み




ついに最後の山道を越えたとき、クリスの目に飛び込んできたのは、これまで見たことの




ない光景だった。




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果てしなく広がる海――。




陽を受けてきらめく蒼い水面が、まるで大地の終わりを告げるかのように眼前に広がっ




ていた。




そして、その海を行き交う数えきれないほどの船。帆を風に張り、港へと吸い込まれてい




く。




「……これが海……」




クリスは思わず呟いた。心臓が高鳴り、初めて目にする壮大な景色に圧倒された。




やがて山道は石畳へと変わり、開けた道の先に大きな港町が姿を現した。オスティア――。




街の門を越えた途端、耳を打ったのは人々のざわめきだった。




商人たちが声を張り上げ、物を売り買いする喧騒。荷を積む者、運ぶ者、駆ける子ども。




熱気と混乱に満ちたその空気は、素朴な村で育ったクリスには重くのしかかり、心を乱す




ほどであった。




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トーレンを発つ際、ルーベンは「これを旅の足しに」といくらかの通貨を差し出した。




しかしクリスは静かに首を振り、受け取らなかった。




――「旅に出るとき、あなたは食べるものと寝る場所に困ることはない」




夢の中で聞いた言葉を、彼は強く信じていた。




そして事実、この旅路で一度も飢えや宿に困ったことはなかった。




神の導きに守られてきた歩み。だが今、クリスは初めて「人の欲望の渦」に足を踏み入れ




ようとしていた。




市場の賑わいに目を奪われていたその時、背後から悲鳴が上がった。振り返ると、牛の群れ




が土煙を上げながら突進してくる。その進路上に、小さな子どもの姿があった。




クリスは迷う間もなく駆け出し、子どもを抱きかかえて地面に転がり込んだ。直後、群れが




轟音とともに駆け抜け、土埃に包まれる。




「セバスチャン!」




泣きながら駆け寄る夫婦の姿。クリスの腕の中の子どもは無事で、怯えた顔ながらしっかり




と息をしていた。夫婦は安堵のあまり涙を浮かべ、クリスに幾度も感謝の言葉を述べた。




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幸い、クリスの怪我は擦り傷程度で済んだ。傷の手当てをするため、そのまま彼は夫婦に連




れられ、豪奢な馬車に乗せられて大きな門構えの邸宅へと案内される。




「ここは……」




エルダの村では想像もできないほどの広さと華やかさに、クリスは目を見張った。




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夫はアルベルト・モンテル、妻はカタリナ、そして助けた子の名はセバスチャンと名乗った。




アルベルトは改めて礼を述べながらも、鋭い眼差しで問いかける。




「君はどこから来たんだね?」




「……北の山里、エルダの村からです。」




「エルダ? 聞いたことがないな。何のためにこのオスティアへ?」




クリスが口ごもると、アルベルトは眉をひそめ、さらに問いを重ねた。




「どうして息子を助けた? 見ず知らずの者を命懸けで守るなど、考えられん。もしかして




──うちの子だと知っていたのか?」




クリスは意味がわからず首を振った。




「ただ……危ないと思って、とっさに体が動いただけです。」




アルベルトは何かを呑み込むようにして「まあいい」と言い残し、奥の部屋へ消えた。




残されたカタリナは小さくため息をつき、クリスに近づいて囁く。




「ごめんなさいね。あの人はいつもそうなの。誰でも彼でも、お金目当てだと思ってしまう




のよ。」




クリスはようやく理解した。──自分が、金欲しさでセバスチャンを助けたと疑われていた




のだ。胸の奥に、寂しさが広がった。




その夜、クリスは夕食に招かれた。だが、出されたのは見慣れぬ豪華な服。




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慣れない窮屈さ




に息苦しさを覚えつつも着替え、食堂へ向かう途中でカタリナに呼び止められた。




「あなた、お金を持っていないのね。メイドから聞いたわ。服を預かるとき、貴重品を尋ね




られて……何もなかったと。」




「はい。持っているのは少しのパンと水だけです。」




カタリナは訝しげに眉を寄せた。




「お金もなく旅を? まさか、この町で盗みを働こうとしているのではないでしょうね?」




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その言葉に、クリスは胸を刺される思いだった。アルベルトだけでなく、カタリナまで自分




を疑っている……。どうしたら誤解を解けるのか。




その時、夢の中で授かった言葉が脳裏に蘇った。




──「どんなときも正直でいなさい。真実な言葉はあなたの身を守る。」




クリスは深く息を吸い、エルダの村を出てからの道のりを包み隠さず語り始めた。村での出




来事、ニキやトーレンでの出会い、神の言葉を信じてここまで歩んできたこと。




カタリナは無言のまま耳を傾け、やがてその表情から険しさが消えていった。




「……わかりました。行きましょう。アルベルトが待っています。」




食堂の扉を開けると、そこは初めて目にするほど広大な空間だった。長いテーブルの奥にア




ルベルト、その斜めにカタリナとセバスチャンが座っている。クリスは反対側の端に座らさ




れた。




「クリス君、だっけ?」アルベルトが声をかけた。「案外似合ってるじゃないか、その服。




はははははっ」




笑い声はどこかぎこちなく響いた。




料理は見たこともないほど豪華で、香りも味も驚くほどだった。クリスは胸の内で静かに神




に感謝し、一口一口を味わった。




食事のあと、アルベルトは椅子を引き、冷ややかに言い放った。




「もう良いだろう、クリス君。息子を助けてもらった礼に、この食事をふるまった。さあ、




帰りなさい。」




その時、カタリナが笑みを浮かべて口を開いた。




「まあ、そう言わずに。今夜は泊めてあげましょう。クリスの旅の話、とても興味深いもの




ですわ。」




アルベルトは思わず言葉を詰まらせた。妻が、自分の言葉に異を唱えるなど滅多にないこと




だった。




「そっ、そうだな……はははははっ」




笑い声は先ほどよりもさらに硬く響いた。




しばらくして、クリスは広い居間へと通された。そこもまた豪奢な部屋で、壁には精緻な装




飾が施され、床には厚い絨毯が敷き詰められていた。低めのテーブルの周囲には、見るから




に柔らかそうな椅子が並べられている。




椅子に腰を下ろし、横を向いたままのアルベルトがそこにいた。




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テーブルの正面にはカタリ




ナが穏やかに座っている。セバスチャンはすでに寝室に下がり、静かな寝息を立てているよ




うだった。




「さて……面白い話を聞かせてもらおうか、ん? クリス君。」




アルベルトはにやにやと笑いながら言った。




どうせつまらない話だと思っているのだろう。クリスはそう感じつつも、かすかな緊張を胸




に話し始めた。これまでの旅路での出来事、出会い、エルダの村のこと。言葉を選ぶよりも、




思いのままに口が動いていた。




だが、アルベルトは決して目を合わせようとはせず、相変わらず横を向いたままだ。聞いて




いるのかどうかすら分からない態度に、クリスは心が揺れる。けれども、カタリナは最初か




ら最後まで穏やかな微笑みを崩さず、静かに耳を傾けていた。




やがて話し終えると、アルベルトは椅子を鳴らして立ち上がり、鼻で笑った。




「話はそれだけか。……ふん、つまらん話だ。だが、作り話にしては面白い。カタリナ、彼




をしばらく置いてやれ。」




そう言い残すと、背を向けて部屋を出ていった。




「作り話……?」




クリスは胸の奥に小さな痛みを覚えた。まるでヤハを否定されたような気がして、釈然とし




なかった。




その様子を見て、カタリナが静かに口を開いた。




「あの人はね、本当に興味がなければ途中で席を立つの。最後まで聞いていたんだから……クリスのこと、気にしているのよ。それに“しばらくいて良い”なんて言うなんて、珍しいこ




とだわ。」




クリスは意外そうに目を瞬いた。カタリナは少し視線を伏せ、柔らかな声で続けた。




「実はね、私とあの人は教会で知り合ったの。」




「えっ……?」




思わず声が漏れた。




「当時は二人とも神の言葉が好きでね。結婚してからも、神の名前こそ知らなかったけれど、




貧しくて困ったときはいつも一緒に祈っていたの。──もしかすると、あなたが言うヤハの




ことだったのかもしれないわね。」




カタリナは懐かしむように笑みを浮かべた。




「でも……彼は変わってしまった。事業が成功して、いろんな国の人と交わり、稼ぐために




は悪いこともしていたかもしれない。それでも私は、良い暮らしをさせてもらっているから、




何も言えなくなってしまったの。」




彼女の声には寂しさが滲んでいた。




「けれど、あなたの話を聞いて……昔を思い出したの。あの人も、思い出してくれればいい




のだけれど。」




「そうだったんですか……」




クリスは胸が温かくなるのを感じた。




「僕は、何事も正直に話すように教えられてきました。だから信じてもらえなくても、その




まま話そうと……」




カタリナは小さく頷き、柔らかく微笑んだ。




「そうね、私も昔はそう教わっていたわ。ふふっ……。」




その瞬間、部屋の空気がわずかに和らぎ、先ほどまでの緊張がほどけていくようだった。




モンテル家に滞在することになったクリスは、黙って過ごすのではなく、自ら進んで家の手




伝いを申し出た。掃除や荷物運び、庭の整えなど、どんな雑事でも笑顔でこなした。その素




朴な働きぶりは、屋敷の使用人たちの心を少しずつ和ませていった。




特に、セバスチャンの世話をよく見た。まだ六歳の幼子は、母のそばにいるときは笑顔を見




せるが、普段は窮屈そうにしていた。というのも、彼はほとんど一日中、ちょび髭を生やし、




黒い奇妙な帽子をかぶった家庭教師のもとで学ばされていたからだ。




その家庭教師は厳格で、セバスチャンに経済学や国際情勢、貿易の知識ばかりを叩き込んで




いた。クリスにとってはさっぱり理解できない難しい言葉の羅列で、セバスチャンにとって




もそれは退屈で重荷に違いなかった。カタリナによれば、外に出ることさえ許されていなか




ったという。身代金目当てに誘拐される危険があるからだと。あの日、市場で群れに巻き込




まれかけたのも、月に一度の社会見学の外出だったらしい。




クリスは、自分が育った村での暮らしを思い出しては、胸を痛めた。自然の中を駆け回り、




小さな動物を追いかけ、羊飼いの手伝いをして、夜は星空を眺めて眠る。そんな自由で豊かな日々を、セバスチャンは一度も知らないのだ。

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