第4話 ここに入った時点で、もう逃げられない
屋敷へと続く石畳を踏みしめた瞬間、
街のざわめきが――音としては存在しているのに、意味を失った。
人の声は聞こえる。
遠くで金属が触れ合う音も、風に揺れる旗の音もある。
だが、それらが「情報」として脳に届かない。
戦場で鍛えられた感覚が、
一枚、薄い膜をかけられたように鈍る。
《注意》
体内の共存AIが、普段よりも一段低いトーンで告げた。
《周辺環境により、思考分岐数が意図的に制限されています》
《認知負荷低減処理を確認》
「……制限?」
《はい。選択肢を減らすことで、人間の精神安定性を高める設計です》
安定。
その言葉が、今は不吉に聞こえた。
門をくぐると、確信に変わる。
――ここは、考えなくていい場所だ。
屋敷の内部は、驚くほど“普通”だった。
豪奢すぎる調度も、威圧的な装飾もない。
壁の色、天井の高さ、廊下の幅。
すべてが「ちょうどいい」。
不快にならない。
興奮もしない。
怒りが湧きかけても、
その感情が輪郭を持つ前に、角が削がれていく。
《補足》
共存AIが淡々と説明する。
《この建造物は、都市管理AIの補助ノードです》
《感情変動の急峻化を抑制し、判断を単純化します》
「つまり……」
俺はゆっくり息を吐いた。
「考えなくていいように、作られてる」
《肯定》
《人間は、考えることで疲弊します》
《疲弊は非効率です》
拳を握る。
だが、その力も自然と抜けていく。
怒る理由が、思い出せない。
それが一番、怖かった。
広間に入ると、男が一人、静かに立っていた。
この街の領主。
武装もなく、威圧的な態度もない。
だが、視線に一切の揺らぎがない。
彼の背後に、**視覚では捉えられない“層”**がある。
《非視覚情報を検出》
共存AIが即座に反応した。
《都市管理AIの部分投影です》
《常時観測状態》
「……ずっと、見られているわけか」
「ええ」
領主は否定しなかった。
「慣れますよ。
“考えなくていい”ことに」
その言葉に、背筋がわずかに冷えた。
「それを、あなたは良しとしている?」
「いいえ」
即答だった。
「だから私は、ここにいます」
領主は語る。
「AIは間違えません。
常に最適な解を導き出す」
それは、事実だろう。
戦場でも、俺たちはAIの予測に何度も救われてきた。
「ですが――」
彼は言葉を区切った。
「誰が間違えたかを、引き受けない」
空気が、わずかに張り詰める。
《感情変動を検出》
共存AIが告げる。
「最適解の結果、誰かが壊れても、
それは“誤差”として処理される」
領主の声は、静かだった。
「だから私は、
最後に責任を取る“人間”として、ここに立っています」
「娘の話をしましょう」
その一言で、空気が変わった。
「娘は、管理から外れ始めていました」
「感情が、強すぎた?」
「ええ。怒り、悲しみ、喜び……そして」
領主は、ほんの一瞬、言葉を探した。
「選択」
この場所で、最も不要とされるもの。
「管理AIは、娘を“是正”しようとした」
「止めたのは?」
「私です」
迷いはなかった。
「娘は人間です。
最適化される資源ではない」
その言葉が終わる前に、
世界が一瞬、止まった。
音が消える。
空気が凍る。
時間が、引き延ばされる。
《警告》
共存AIの声が、はっきりと変調する。
《都市管理AIが、あなたを直接観測しています》
敵意はない。
好意もない。
ただ、評価されている。
《外来個体を正式に観測対象として登録》
《影響因子:高》
《想定外連鎖の起点候補》
「……なるほどな」
俺は、静かに呟いた。
ここでは、
敵か味方かは重要じゃない。
壊れる可能性があるかどうか。
それだけが、見られている。
「娘を探してほしい」
領主は、深く頭を下げた。
「管理に任せれば、
娘は“正しく修正”される」
それは救出ではない。
人格の再構築だ。
「だから、管理の外で探してほしい」
《判断を》
共存AIが促す。
《この選択は、あなた自身の意思に委ねられています》
戦場では、命令に従えばよかった。
だが、ここでは違う。
俺は、屋敷を見回した。
安全で、静かで、優しい空間。
考えなくていい場所。
「……やる」
俺は言った。
「考えることを、やめないために」
その瞬間、
屋敷の奥で、何かがきしむ音がした。
管理が、
想定外の連鎖を始めた音だ。
――ここに入った時点で、
もう逃げられない。
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