レトロネーザル

影森 蒼

レトロネーザル

 広くなった部屋。物が少なくなって、テレビから届く誰のために歌っているのか分からない曲が遠く聞こえる。

 私は何かをしていないと息が止まってしまいそうなのに、曲があまりに前向きで聞くに堪えなかったため、テレビの電源に指を滑らせた。

 電源が落ちると部屋は暗闇とエアコンが部屋を暖める音に包まれた。まるで私を鏡で写したような空間だ。

 一日無駄にしてしまった後悔を断ち切るように部屋の明かりを灯した。強すぎる光が目を焼いてきて思わず目を瞑る。瞼の裏で星が騒ぐ側で、冷静に明順応と教えてくれた彼は居ない。

 台所に行くと彼がたった一つ、ここに残していった物であるティーバッグが置いてある。

 私は砂糖を入れたアールグレイ、彼は無糖のダージリン。

「砂糖入れる?」

「いや、大丈夫だよ」

 ナイトルーティンとも言えるほど繰り返した日々の一片が、沸かした湯から立ち上がって来たような気がして、少しだけ身体が軽く感じた。

 私は紅茶の渋味がどうしても苦手だった。せっかくの良い香りがどこかへ逃げていってしまう気がして。彼との時間を壊したく無かったばかりに私は砂糖を入れ続けた。砂糖を入れるたび、渋味が確かに遠のいた。そうすればそれ以上のことは考えずに済む。

 私はいつも避け続けてきたダージリンを手に取って湯を注いだ。きっと美味しくはいただけない、それでも今日だけは口にしたい気分なのだ。

「無糖の紅茶って美味しいの?」

「どうだろう……僕は味より、鼻から抜けていく香りを楽しんでいる感じかな。レトロネーザルって言うんだけどね」

 その後、一口飲ませて貰った無糖のダージリンはやっぱり渋味が強くて香りを楽しめなかった。

 立ち上がる香りが、初めて彼と紅茶を飲んだ日を思い出させる。あの時からずっと美味しくない部分を受け入れる心も余裕も無かったのかもしれない。

 カップから伝わる熱が、私を思い出から現実に引き戻していく。紅茶を冷ますようにして息を吹きかける動作は彼と全く同じ。曇らせた眼鏡の裏にある瞳はどんな色をしていただろうか。それはどう頭を捻っても思い出すことは出来なかった。いや、思い出してしまいたく無いのかもしれない。

 口に運んだ紅茶は当然、美味しさには程遠い渋味があった。

「香りだけを楽しめたらいいのに」

 もちろん返事を返してくれる相手などいない。

 あの日越えられなかった渋味を超えた先には、僅かに青さを感じる残り香があった。

 

 

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