鴉になる日
ヤマノ
第1話
その年の五月、ぼくは運動会のことを考えるだけで、胸の奥が落ち着かなくなった。教室の窓辺には、だれが作ったのかわからないてるてる坊主が下がっていた。白い紙を丸めただけの、目も口もない顔。それなのに、晴れてほしいという願いだけは、はっきりと伝わってくる気がした。
てるてる坊主は、もともと中国の雨乞いの人形だったと聞いたことがある。雨を止めるために首を落とされた娘の話。そういう由来を思い出すたび、ぼくは少しだけ息がしづらくなる。
晴れればいい、とみんなは言う。運動会は晴れがいい。応援の声が響き、音楽が流れ、走る順番が回ってくる。でも、ぼくは晴れの日が、少しこわかった。雨の日の校庭は静かだ。水たまりに空が映り、時間がゆっくり流れる。けれど晴れの日の校庭では、みんなが同じ方向を向いて動き出す。立ち止まる場所が、どこにもなくなる。
窓の外を、黒い鳥が一羽、低く飛んでいった。
鴉だった。
ぼくは、なぜかその鴉から、目を離すことができなかった。その鴉は、校庭のはずれにあるフェンスの上に降りた。黒い体は、晴れた空の下では目立ちすぎて、どこか場違いに見えた。くちばしは太く、声は大きい。近くを通りかかった低学年の子が、石を拾って投げるまねをした。鴉は逃げなかった。ただ首をかしげて、こちらを見返した。その目は、思っていたよりも澄んでいた。ぼくは、その視線に、胸の奥を見られているような気がした。
しばらくすると、白い鳥が一羽、空から舞い降りてきた。鷗だった。鴉よりも少し小さく、羽は汚れひとつなく、風に乗るように軽やかに歩いた。近くにいた子どもたちは、さっきとは違って声を上げた。
「きれい」
「かわいい」
鷗は、投げられたパンくずを受け取り、何事もなかったように食べた。でも、その足元で、鴉は押しのけられるようにして後ずさった。同じ鳥なのに、色が違うだけで、こんなにも扱いが違うのかと思った。鴉は、ただ生きているだけだった。鳴き、食べ、空を飛ぶ。それだけなのに、嫌われる理由があるように見えた。ぼくは、なぜか、その黒い背中に、自分を重ねていた。前に出ることができず、でもいなくなることもできない。見ているだけで、何もできないまま、そこに立っている。
鴉が、低い声で鳴いた。
その声は、助けを求めているようにも、もう慣れてしまったようにも聞こえた。
放課後、校庭の端にある古い門の前で、ぼくは足を止めた。そこは、ふだんは誰も通らない場所だった。金属の柵は錆びて、半分だけ開いたままになっている。向こうに何があるのか、はっきりとは見えない。
ぼくは、そこを通っていいのか、しばらく迷った。向こう側に行けば、何かが変わるような気がした。でも、何も変わらないかもしれない、とも思った。そのとき、背後で羽音がした。振り向くと、さっきの鴉が、門の上にとまっていた。鴉は、鳴かなかった。ただ、こちらを見ていた。促しているようにも、見守っているようにも見えた。
ぼくは、ゆっくりと一歩、前に出た。門をくぐるとき、胸の奥が、きゅっと縮んだ。向こう側は、思っていたよりも静かだった。校庭の喧騒は遠く、風の音だけが残っていた。振り返ると、鴉の姿はもうなかった。それでも、ぼくは一人ではない気がした。
門の向こう側は、思っていたよりも何も変わっていなかった。同じ校庭、同じ空、同じフェンス。遠くで誰かの笑い声がして、風が砂を運んでいた。ぼくは立ち止まり、深く息を吸った。空気は冷たくも暖かくもなく、ただ、そこにあった。ふと、フェンスの向こうに、小さな草が一本だけ伸びているのが目に入った。踏まれずに残ったのか、誰にも気づかれなかったのか、それはわからない。でも、確かに生えていた。
気がつくと、足は地面についていた。立っているのか、しゃがんでいるのか、一瞬わからなかった。けれど、靴の裏に伝わる冷たさで、ここが地面だと知った。固くもなく、柔らかくもない。いつもの校庭の土だった。空は低く、雲が重なっていた。特別な色ではない。晴れでも、雨でもない。ただ、よくある昼間の空だった。
風が吹いた。さっきまでの、生暖かい風とは違う。少しだけ冷たくて、頬をなぞるように通り過ぎていった。耳をすますと、遠くで車の音がした。誰かの笑い声も、聞こえた気がした。何かが変わった感じはしなかった。世界は、何事もなかったように、そこにあった。フェンスの向こうに、道路が見えた。白い線。アスファルト。信号機。全部、前から知っているものばかりだ。それでも、目が勝手に一つ一つを確かめていた。
ここにある。
あれも、ある。
なくなっていない。
胸の奥が、少しだけざわついた。怖さとも、安心とも、違う。ただ、息をしている感じがした。校庭の隅に、小さな水たまりが残っていた。近づくと、自分の影が揺れて映った。顔は、はっきりとは見えない。でも、確かに、誰かがそこに立っていた。ぼくは、その場から動かなかった。走り出したいとも、逃げたいとも、思わなかった。世界は、まだ続いている。それだけで、十分だった。
校庭の隅に残っていた水たまりを、ぼくは覗き込んだ。空が映っているだけだと思ったのに、目を凝らすと、違うものが見えた。
水の中で、運動会が始まっていた。白いラインは、ゆらゆらと揺れていた。まっすぐ引かれているはずなのに、ところどころで曲がり、途切れて見えた。走っている子どもたちの足は、水の底に沈み、上半身だけが引き伸ばされたみたいだった。
笛の音が鳴った。
遅れて、聞こえた。
音は水を通るせいか、丸くなって、どこか遠かった。
ぼくも、そこにいた。いつもの体操服を着ているのに、色が薄く、名前もはっきりしない。誰かに呼ばれている気はしたが、声は、ぼくに届く前にほどけてしまった。
走らなければいけない気がした。でも、どこへ向かえばいいのか、わからなかった。
転ぶかもしれない。
遅れるかもしれない。
うまくできないかもしれない。
そう思ったはずなのに、水の中では、そのどれもが、少しずつ形を失っていた。速い子と遅い子の差は、水に溶けて、見分けがつかない。ゴールテープは、風に揺れる草の影と重なって、境目が曖昧だった。
応援の声が聞こえた。
大きいのに、強くなかった。
背中を押される感じは、しなかった。
ぼくは走っていたのか、立ち止まっていたのか、わからない。ただ、水の中で、呼吸をしていた。そのとき、水面に小さな波紋が広がった。誰かが近くを通ったのかもしれない。風が吹いたのかもしれない。ぼくが、息を吐いたのかもしれない。景色は、すぐに崩れた。運動会は、音も形も残さず、消えていった。水たまりには、雲だけが映っていた。低く、動きの遅い雲だった。
胸の奥にあったものを、確かめようとした。でも、それがどこにあったのか、思い出せなかった。ぼくは、しばらくその場に立っていた。校庭のざらついた土の感触が、靴の裏に戻ってきた。それで、十分だと思った。
水たまりから顔を上げたとき、門が視界の端にあった。さっき通ったはずなのに、距離がつかめなかった。近いようでもあり、ずっと向こうにあるようでもあった。鉄の枠は、動いていない。けれど、空気だけが、わずかに違って見えた。一歩、近づいた。足音は、思ったよりも大きく響いた。戻るつもりなのか、確かめに行くだけなのか、自分でもわからなかった。門の前に立つと、向こう側の景色が、少しだけ平たく見えた。色が薄く、輪郭がはっきりしすぎている。絵の中を見ているようだった。
ぼくは、立ち止まった。さっきの水たまりのことを、思い出そうとした。でも、運動会の音も、走る感触も、もう手の届かないところにあった。
門をくぐった。
何かが、体の表面をなぞった気がした。
風かもしれないし、気のせいかもしれない。
次の瞬間、世界は、いつもの大きさに戻っていた。校舎の壁は高く、フェンスは長い遠くの声は、遠いままだった。さっきよりも、少しだけ現実だった。振り返ると、門は、ただの出入り口に戻っていた。特別な印は、どこにもなかった。
ぼくは、その場で深く息を吸った。胸の奥に、冷たい空気が入ってくるのがわかった。それを吐き出してから、初めて、足が動いた。
門をくぐってから、しばらく、足が止まっていた。校庭は、前と同じ形をしているのに、距離の取り方だけが違って見えた。校庭に集まると、空気が少し変わった。人が増えたからというより、同じ方向を向く人が増えたからだと思った。先生の声が響くたびに、体が揃う。前を向く。止まる。動く。合図は、ぼくのところに来る前に、もう校庭を走り抜けていた。笛が鳴ると、校庭全体が、一度に動いた。足音も、声も、影も、同じ方向に流れていく。その中で、ぼくは、自分の動きが少し遅れていることに気づいた。走り出すのが遅いのではない。合図を受け取る場所が、少しだけ後ろにある。音が、少し遅れて届く。人の動きが、まとめてではなく、一つずつ目に入る。ぼくは、競技の列には戻らなかった。端のほうに立ち、ロープの影が地面に落ちているのを見ていた。影は、風に揺れていた。それを見ていると、走る速さが、あまり関係ないような気がした。
ふと、視線を上げた。鉄棒の上に、鴉がいた。黒い体は動かず、首だけを少し傾けている。鴉は、校庭を見下ろしていた。走る人も、止まっている人も、同じ高さで。ぼくも、同じように見ていた。速さや順番ではなく、動きそのものを。
鴉が、羽を広げた。その瞬間、風が、こちらにも届いた。黒い影が校庭を横切る。それを追わずに、ぼくは、地面に残った影を見ていた。
運動会のあと、校庭はしばらく、そのままだった。白い線はすぐには消えず、ところどころが踏みならされて、薄く残っていた。ロープも片づけられ、テントもなくなったが、何かが終わった感じは、まだ地面に残っているようだった。昼休みになると、子どもたちは校庭に出てきた。走る子もいれば、座り込む子もいる。ボールを蹴る音がして、笑い声が上がる。けれど、それらは運動会のときの動きとは、少し違って見えた。誰も、同じ方向を向いていなかった。
ぼくは、校庭の端に立っていた。鉄棒の影が、地面に細く伸びている。その影は、太くなったり、短くなったりしながら、ゆっくりと動いていた。影の動きは、速さを競っていない。順番もない。
ただ、時間に合わせて、少しずつ場所を変えていくだけだった。
ぼくは、何度か校庭を横切った。用もなく、目的地も決めずに歩いた。靴の裏で、土の感触が変わるのがわかった。乾いたところ、少し湿ったところ、小石が多いところ。水たまりは、もうなかった。あのとき覗いた場所も、乾いて、他と変わらない色になっていた。それでも、ときどき、足が止まった。何かを探しているわけではない。ただ、立ち止まることができる場所が、ここにはあると思った。空を見上げると、雲が流れていた。速くもなく、遅くもない。見ているあいだに、形が少しずつ変わっていく。
校舎の窓から、声が聞こえた。
名前を呼ぶ声。
叱る声。
笑う声。
どれも、前から知っている音だった。ぼくは、影を踏まないように歩いた。意味はなかった。気づいたら、そうしていただけだった。
鉄棒の影が、ぼくの足元に重なった。その影の中に入ると、自分の輪郭が、少しだけわからなくなった。それで、いいと思った。日が傾くにつれて、影は長くなった。校庭にいる人の数は、少しずつ減っていった。気がつくと、周りには、走る音も、笛の音もなかった。ただ、地面があり、空があり、影が動いていた。
それを見ている時間は、短かったのかもしれない。でも、長く残った。
その年の冬、校庭に雪が積もった。
運動会のときとは違って、誰も急いでいなかった。足あとが重なり、白い地面に、いくつもの道ができていた。
昼休みの終わり、校庭のすみに、小さな雪だるまが置かれているのを見つけた。形は歪で、目も片方しかなく、誰かに自慢するような出来ではなかった。でも、そこにあることだけは、はっきりしていた。
ぼくは、少し離れたところから、それを見ていた。触れようとは思わなかった。壊してしまいそうな気がしたからだ。雪だるまの向こうで、空を横切る影があった。
黒い鳥だった。
すぐに見えなくなったが、確かに、そこを通った。そのとき、うれしいとも、安心したとも、言えない気持ちが胸に残った。
それでも、悪くはないと思った。
雪は、静かに降り続いていた。
鴉になる日 ヤマノ @yama_noh
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