第11話 最後の実習
その朝、佐藤正治は、いつもより早く目を覚ました。
目覚ましが鳴る前だった。
布団の中で、しばらく天井を見つめる。
——また、学校に行く。
その事実が、胸の奥で静かに重さを持つ。
怖さがないわけじゃない。
だが、逃げたいとも思わなかった。
支度を始める。
クローゼットの前で、一度、手が止まった。
濃紺のスーツ。
かつての自分の「制服」。
それを、今日は選ばなかった。
代わりに、少し色の柔らかいジャケット。
ネクタイは締めない。
鏡の前で、首元を整えながら、佐藤は小さく息を吐いた。
——鎧は、いらない。
完璧な教師である必要もない。
強く見せる必要もない。
ただ、逃げずに立つ。
それだけでいい。
家を出ると、朝の空気は思ったより冷たかった。
駅までの道。
学生服の集団と、何度かすれ違う。
視線を向けられている気がして、
それでも、目を逸らさなかった。
——同じ場所に、戻るんだな。
電車の揺れの中で、教育委員会から渡された資料が頭をよぎる。
「補習クラス」
「問題行動あり」
「学習意欲低下」
「不登校傾向」
文字だけ見れば、分類できる。
ラベルを貼れる。
だが、もう、
それを「指導対象」として見る気にはなれなかった。
学校に着く。
校舎の匂いは、記憶と変わらない。
ワックスと、紙と、わずかな埃。
職員室で挨拶をすると、数人の教師が一瞬だけこちらを見た。
好奇心。
警戒。
距離。
誰も声をかけてこない。
それでいい、と佐藤は思った。
指定された教室は、校舎の端だった。
古く、静かで、少し隔離された場所。
——まるで、試験場だ。
ドアの前で立ち止まる。
深呼吸を一つ。
——何かを教えようとするな。
——何かを正そうとするな。
そう、自分に言い聞かせてから、ドアを開けた。
教室は、最初から期待されていなかった。
古い校舎の一番端。
掲示物は色あせ、机の落書きも消されていない。
「補習クラス」という名札だけが、やけに事務的にドアに貼られている。
掲示物は色あせ、
机の落書きも消されていない。
佐藤正治は、チャイムより少し早く教室に入った。
生徒は、まばらだった。
椅子にだらしなく座る者。
机に突っ伏して動かない者。
そもそも、来ていない席も多い。
問題行動。無気力。不登校予備軍。
書類に並んでいた言葉が、現実として目の前にある。
——昔の自分なら。
佐藤は、喉の奥で、その続きを胸の中で折りたたみ、飲み込んだ。
姿勢を正させ、
目を上げさせ、
「やる気がないなら帰れ」と言っていたかもしれない。
正しい声量で。
正しい言葉で。
正しいつもりで。
チャイムが鳴る。
誰も、前を向かない。
佐藤は、教壇に立ったまま、しばらく動かなかった。
教科書を開かない。
出欠も取らない。
注意もしない。
沈黙だけが、教室に落ちる。
——怖い。
教えないことが、
こんなにも不安だとは思わなかった。
言葉を使わないと、
自分が消えてしまいそうになる。
それでも、佐藤は口を開かなかった。
ここから先は、
もう、前に書いたあの授業へと、静かに続いていく。
生徒たちは、すぐに異変に気づいた。
「……あれ?」
「今日、何すんの?」
「この先生、しゃべらなくね?」
ざわつきが広がる。
だが、佐藤は止めない。
黒板の前に立ち、ただ、そこにいる。
——怖い。
胸の奥で、はっきりとした感覚があった。
教えないことが、こんなにも不安だとは知らなかった。
言葉を使わないと、存在が消えそうになる。
教師は、話さなければ、空白だ。
何も与えなければ、無能に見える。
それでも、佐藤は口を開かなかった。
一人の男子生徒が、苛立ったように椅子を蹴った。
「なあ、先生。
何もしないなら、帰っていい?」
佐藤は、すぐには答えなかった。
少し考えてから、静かに言った。
「……帰りたいなら、止めない」
教室が、一瞬、凍る。
想定外だったのだろう。
反論も、説教も来ない。
「マジで?」
「え、いいの?」
男子生徒は立ち上がり、ドアに向かった。
だが、途中で足を止める。
振り返って、言った。
「……なんなんだよ、このクラス」
佐藤は、目を逸らさなかった。
「それを、俺も知りたい」
その言葉は、教師としては失格だったかもしれない。
だが、嘘ではなかった。
男子生徒は舌打ちして、席に戻った。
それ以降、誰も立ち上がらなかった。
授業は、そのまま終わった。
何も進まなかった。
何も解決しなかった。
評価できる成果も、当然ない。
チャイムが鳴ると、生徒たちは戸惑いながら教室を出ていく。
「時間、無駄じゃね?」
「でも、怒られなかったな」
「逆に気持ち悪い」
そんな声が、背中に刺さる。
佐藤は、一人になった教室で、椅子に座った。
手が、わずかに震えていた。
——これでいいのか。
答えは、ない。
だが、確かなことが一つだけあった。
教えることをやめた瞬間、
自分が、どれほど「言葉」に依存していたかが、はっきりと分かった。
沈黙は、優しさではない。
逃げでもある。
それでも今日は、
言葉で押し潰さなかった。
それだけで、十分だと、思いたかった。
教壇に残る影が、やけに長く伸びていた。
佐藤正治は、まだ知らない。
この「何もしなかった時間」が、
後になって、生徒たちの中で、静かに意味を持ち始めることを。
恐怖の中で選んだ沈黙が、
初めて、誰かの逃げ場になるかもしれないということを。
その日の授業は、結局、何も起きなかった。
チャイムが鳴るまで、
佐藤は一度も声を荒げず、
生徒たちも、一度も前を向かなかった。
ただ、空気だけが、じわじわと変質していった。
椅子を蹴る音。
あからさまなため息。
スマホを机の下で操作する指。
誰も、佐藤を恐れていない。
そして——誰も、敬ってもいなかった。
授業の終わり際、
一人の生徒が、わざとらしく言った。
「先生さ、
なにもしないなら、ここ来る意味なくね?」
笑い声が起きる。
乾いた、軽い笑いだ。
佐藤は、その声を受け止めた。
胸の奥が、わずかに痛んだが、
顔には出さなかった。
「……そう思うなら、そう思っていい」
それだけ言って、黒板を消した。
生徒たちは拍子抜けしたような顔で、
チャイムと同時に、教室を出ていった。
背中に、尊敬も、期待も、残っていない。
——舐められている。
それを、佐藤は否定しなかった。
むしろ、
それが「自然な反応」だと、理解してしまった。
強さを示さない大人は、
この教室では、価値がない。
かつて、自分が教えてきた世界だ。
その日の午後、
佐藤は教育委員会に呼ばれた。
会議室の空気は、相変わらず乾いている。
机の向こうに座る担当者は、資料から目を離さずに言った。
「本日の実習、報告を受けています」
淡々とした声だった。
「生徒が、あなたに対して
かなり軽率な態度を取っている、と」
紙をめくる音。
「授業中の私語、挑発的な発言。
統制は取れていないようですね」
佐藤は、黙って頷いた。
「このままで、本当にいいのですか?」
顔が上がる。
評価者の目だ。
「あなたは“指導しない”方針だと聞いていますが、それは、放任とどう違うのです?」
一瞬、
昔の自分が、胸の奥で騒いだ。
——それは指導だ
——統制が必要だ
——教師として失格だ
だが、佐藤は、それを口にしなかった。
「……舐められています」
自分から、そう言った。
委員の一人が、わずかに眉を動かす。
「ええ。
生徒は、私を軽んじています」
佐藤は、言葉を選びながら続けた。
「以前の私なら、
それを“許されない態度”として、叱っていたでしょう」
会議室が、静まる。
「でも今は、
あれが、彼らの正直な反応だと思っています」
「正直、とは?」
「力を示さない大人は、信用しない。
何も押し付けてこない人間は、価値がない。
——そう教えてきたのは、私たちです」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
「このままでは、
授業は崩壊しますよ」
別の委員が言う。
佐藤は、静かに頷いた。
「はい。
だからこれは、“成功”ではありません」
少しだけ、間を置いて。
「でも、
“以前の私に戻らない”ことだけは、
今のところ、守れています」
自信はない。
胸を張れる成果もない。
ただ、
戻らなかった。
それだけだった。
委員たちは、互いに視線を交わす。
「……もう少し、様子を見ましょう」
保留。
またしても、結論は出ない。
会議室を出た廊下で、
佐藤は、一人、立ち止まった。
手のひらが、少しだけ震えている。
——教えないことは、
こんなにも、孤独なのか。
それでも、
あの教室に戻る足取りは、
昨日より、わずかに前を向いていた。
次に問われるのは、
「沈黙の先に、何を置くのか」。
その問いが、廊下の白い床に落ちて、跳ね返ってきた。
佐藤は、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ下に沈む。
——怖い。
それを、はっきりと認めた。
怒鳴れば、反応は返ってくる。
叱れば、表情は動く。
力を使えば、教室は「形」になる。
それを、彼は知っている。
三十年以上、身体に染み込ませてきた。
だが今は、その方法を選ばないと決めている。
選ばない、というより——
もう、選べない。
言葉が、人を壊すことを知ってしまったから。
正しさが、逃げ場を奪う瞬間を見てしまったから。
沈黙は、無責任だろうか。
待つことは、放棄だろうか。
佐藤は、答えを持っていなかった。
それでも、ひとつだけ、分かっていることがある。
——沈黙の中にいる間だけ、
自分は、誰の人生も押し潰していない。
それは、
教師として誇れることではないかもしれない。
だが、
これ以上、壊さないための、最低限の誠実さだ。
ポケットの中で、スマホがわずかに振動した。
補習クラスの名簿が、頭に浮かぶ。
舐めた目。
試すような態度。
何も期待していない顔。
——それでいい。
最初から、信じられなくていい。
尊敬なんて、なくていい。
ただ、
ここにいても、傷つかないと知ってもらえたら。
沈黙の先に置くものは、
言葉じゃなくていい。
正しさでも、指導でもない。
佐藤正治は、歩き出した。
ゆっくりと。
確かめるように。
次に教室で起きることを、
自分が“起こさない”覚悟を抱えたまま。
歩き出して、数歩。
ポケットの中で、今度ははっきりと振動があった。
反射的に立ち止まり、
佐藤はスマホを取り出す。
画面に表示された名前を見て、
ほんの一瞬、指が止まった。
――ユウ。
旅の途中で出会った、
学校に行かない選択をした少年。
通知は、短かった。
『先生、元気?』
それだけだった。
句点も、絵文字もない。
佐藤は、しばらく画面を見つめたまま、動かなかった。
——元気。
その言葉を、胸の中で転がす。
怒鳴っていない。
壊していない。
逃げてもいない。
だが、胸を張って「元気だ」と言えるほど、
強くもなかった。
親指が、ゆっくりと動く。
『正直に言うと、
少し、しんどい』
送信。
すぐに返事が来ると思っていなかった。
だが、数秒後、画面がまた光る。
『そっか』
『でも、生きてる感じする?』
佐藤は、思わず息を呑んだ。
——生きている感じ。
——成績でも、評価でも、
正解か不正解でもない言葉。
——ああ。
彼は、ようやく理解した。
ユウが、あのとき、
何を恐れていたのか。
壊されることじゃない。
否定されることでもない。
「生きている感じ」を、
奪われることだったのだ。
佐藤は、短く打った。
『……してる』
『怖いけど』
少し間があって、
次のメッセージ。
『それなら、たぶん大丈夫』
『先生、前より先生っぽくないし』
思わず、口元が緩んだ。
先生っぽくない。
昔なら、
否定された気がして、苛立っただろう。
だが今は、
それが、ひどく救いに思えた。
『ありがとう』
『今日は、教えなかった』
しばらくして。
『それ、
ちゃんと一番むずかしいやつじゃん』
画面を閉じて、
佐藤は、廊下の先を見る。
沈黙の先に置くもの。
それは、
立派な言葉でも、正しい答えでもなくていい。
こうして、
誰かと繋がり続けること。
そして、
繋がりながら、迷い続けること。
『ありがとうな』
と打つとすぐに
『別に大丈夫』
と返信がきた。
佐藤正治は、
もう一度、歩き出した。
今度は、
ほんの少しだけ、背中が軽かった。
そして静かに、続いていく。
教頭先生、答え合わせの旅に出る 涼風琉生 @Rui_Suzukaze
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