急に好感度が見えなくなった

@thourch

本篇

今日、大変なことが起きた。いや、大したことじゃないかもしれないけど。少なくとも、俺にとっては。

物心ついた頃から、俺は他人から俺への「好感度」が見えた。なぜそれが好感度だと確信できたのか、なぜ好感度なのかはわからない。とにかく、見えたのだ。

好感度っていうのは、大体1から100の数字で表される。数字が大きければ大きいほど好感度が高いってことだ。ええと、そうだな、20ならまあまあのクラスメイト、40ならまあまあの友達、60なら親しい友達、80ならかけがえのない親友、100なら愛する人ってところか。まあ、大体そんな感じ。

でも、今更こんな説明に意味なんてあるんだろうか?

確信したのは、たぶん今朝のことだ。突然、その好感度ってやつが見えなくなってしまった。

今朝起きた時には、特に違和感はなかった。いつも通りの寝起きの悪い朝。その後、食堂へ行くと、両親の顔に「何もない」ことに気づいた。最初は目が霞んでるか、まだ寝ぼけてるのかと思ったけど、結局、どこまでも綺麗な両親の顔を見つめたまま家を出て、学校へ向かった。

好感度ってやつは結構親切で、もし0なら表示されない仕組みになっている。だから最初は、ごく自然に、両親の俺に対する好感度が0になったんだと思った。でも、彼らの好感度が0になるようなことをした覚えが、どう考えてもない。もともとそこまで高くもなかったとはいえ、さすがにそれはないだろう、と思う。

理由を探しながら道を歩いていると、すぐに学校に着いた。

今日の当番は隣のクラスの国語教師か。あの年配の先生は挨拶されるのが好きで、挨拶するたびに顔の数字が1つ大きくなるのが見えたものだ。

いつも通り彼女に挨拶し、彼女もいつも通り満面の笑みで返してくれた。でも、いつもと全く違ったのは、彼女の綺麗な顔だった。

俺は綺麗好きな方だ。周りの人間と特に比べたことはないけど、自分では比較的綺麗好きな部類だと自認している。

清潔さが心地いいのは、それが「ちょうどいい」清潔さだからだ。これは誰にとってもそうだと思う。最初の頃は、好感度なんて全く意味がない、見えなければいいのにといつも思っていた。でも今となっては、それも必ずしも良いことばかりではないらしい。綺麗すぎると、かえって居心地が悪くなる。大抵のことはそうだろう。

教室に入り、自分の席の椅子を引いて座った。

前の席のクラスメイトが振り返って「おはよ」と言ってきたので、頷いて返した。

やっぱり、いくら低くても一夜にして0になるなんてありえないだろう。しかも、一人や二人じゃない。

授業開始のチャイムが鳴り、終了のチャイムが鳴る。昼休み、食堂へ行き、いつも通り食べ慣れた定食を注文した。

0なら表示されないとはいえ、顔を合わせれば、いや、顔を合わせなくても、人に対して多少の好感は生まれるものだ。

君がただ道を歩くときにきちんと右側を歩いているだけで、後ろの人は君に1点の好感を抱くかもしれない。君がただゴミを捨てる時に分別表示をちらっと見てから捨てるだけで、通りすがりの人の君への好感度は2点になるかもしれない。

だから、好感度が表示されない人間というのは、意外と少数派なのだ。

いつから見ていないんだろう。というか、本当に今まで見ていたのだろうか。人は大勢いて、みんなの吐く息が混じり合い、あちこちで話し声が聞こえる。源も周波数も大きさも音色も違う食器のぶつかる音。ここの環境は、俺の思う「綺麗」とは到底言えない。なのに、あまりにも「綺麗」すぎる。

記憶を探ってみると、たぶん初めてだ。こんなにはっきりと周りの人の顔を見つめてぼーっとするのは。

ご飯が冷めてしまう。急いで食べ終え、辺りを少し散策してから教室に戻った。そして、慣れ親しんだようでどこか見知らぬ感覚の中で、また一日の学校生活を終えた。

放課後。心は意外と軽かった。今日は早く帰ろう。

「あっ」

教室のドアを出て階段へ向かおうとした時、一人の女子とぶつかりそうになった。

「あ、ごめん」

「ん、平気。ね、一緒に帰らない?」

そこでようやく、その女子に注意を向けた。小野だった。

高1の時、小野は同じクラスで、確か二学期近く同じ班の隣の席だったはずだ。席がくっついていたわけではないが、まあ隣の席だった。

当時の関係は、まあまあ良かったはずだ。でも、席替えの後は特に接点もなくなり、クラス替えでさらに縁遠くなった。だから彼女の声を聞いても、すぐに誰だかわからなかった。最後に会ったのはいつだったか。

そういえば、彼女曰く、小学校も同じクラスだったらしいが、当時はほとんど話したことがなかったはずだ。俺も小学校のクラスメイトなんてあまり覚えていない。でも、彼女が話してくれた小学校の頃の出来事には、確かに思い当たる節があった。

彼女はその場で立ち止まり、俺の返事を待っているようだった。

社交辞令じゃないよな。まあ、どっちでもいいか。

「いいよ」

それから並んで下駄箱まで歩いた。その間、誰も口を開かなかった。別々に靴を履き替え、俺が昇降口で彼女を待つ。そして一緒に校門を出た。その道中でも、一言も話さなかった。

小野は小柄という形容詞とは無縁だが、それでも女性だし、俺の体格はどちらかというと大きい方なので、俺と彼女の身長差は頭四分の三つ分くらいはあるだろう。

「ねぇ、新しいクラス、どう?」

沈黙に耐えかねたのか、彼女が口を開いた。

習慣で数字の枠を探してしまうが、目に映ったのは彼女の瞳だった。

俺たちは二人とも帰宅部のエリート部員だから、放課後の時間は早い。でも、寒くなったせいか、太陽が沈むのは俺たちの下校時間よりもずっと早いみたいだ。

たぶんそのせいだろう。彼女の黒い瞳に映る俺の姿は、揺らめく陽の光を帯びていて、なんだか自分が太陽の騎士みたいで、とても直視できなかった。視線を逸らした。

「ん…まあ、どこも同じようなもんだよ。そっちは?」

正直言って、クラスとかグループとか、そういうものは俺にとって大差ない。結局、その中での生活の仕方に大した違いはないからだ。

確か彼女は最初、クラスに馴染めなくて俺に話しかけてきたんだったな、と思い出し、彼女の方の状況も聞いてみた。それに、こうして一緒に帰ろうと誘ってくるなんて。まあ、俺たちの関係がこの誘いを支える理由として十分であるとはいえ、ごく自然な誘いの支柱とまでは言えないだろう。

「私も相変わらずだよ…はぁ」

「お疲れ」

親しい関係。親しいと言えるのか?俺が一方的に相手をよく知っていて、俺にとって親しい、うん、この表現の方が正しい。相手が俺にとって親しい人間なら、付き合うのはずっと楽だ。好感度が見えなくなった今でも、大体汎用的な返答ができる。判断基準が大体わかっているからだ。

そういえば、一緒に帰るのは初めてだ。まだ分かれ道まで着いていないが、彼女の家はどっちの方向なんだろう。俺は徒歩通学だが、もし彼女が公共交通機関を使うとか、別の方向だというなら、先に聞いておくべきだろう。

彼女は俺の言葉に答えず、相変わらずまっすぐ前を向いて道を歩いている。

どう返事していいかわからないのか、それとも返事しなくてもいいと思っているのか。俺の知る限り、小野はいつも先に沈黙に入る側だ。そのことは彼女自身もわかっているのだろう。だから、いつも沈黙を破るのも彼女の方だ。つまり、彼女の話題に適当に相槌を打っていれば、楽に次の話題を振ってくれる。これが、彼女と付き合う上で俺が見つけ出した、楽なやり方だ。

「……」

よし、沈黙に入った。

「そういえば、こうして話すの、いつ以来だろ?」

「たぶん、二月あたりから話してないんじゃない?」

「結構経つね」

「だな」

話題を投げかけた時と、その後の五秒くらい、彼女の顔は俺の方を向いていた。正直言って、彼女の顔は本当に綺麗だ。数字がないのはもちろん、ニキビ一つない。色々な意味で綺麗なんだろうな。初めて気づいた。彼女の印象はもともと綺麗好きだったが、顔も本当に綺麗だったんだな。

「……」

よし、沈黙に入った。

「そうだ、君、カフェ・オ・レ好きだよね?」

自動販売機の前を通りかかった時、彼女が口を開いた。

「確かに」

「そっか。じゃあ、カフェ・オ・レでいい?」

「ああ、いいよ」

「じゃあ、はい」

彼女は硬貨を二枚投入した。いつの間に握りしめていたんだろう。

「どうぞ」

「サンキュ」

財布を取り出す間もなく、彼女は飲み物を取り出して俺に手渡した。

「いいよ、その代わり今度奢ってよ」

俺が何をしようとしているか気づいたのか、彼女は笑って言った。

今度、か。

「わかった。ありがとな」

「うん。あ、聞くの忘れてた。温かいのでよかった?君、冷たい方が好きだった気がするけど」

「温かいのも美味いよ」

「うん、ならよかった」

彼女はプルタブを開け、まず蓋のあたりをふーふーと吹いてから、缶を顔の横に寄せた。

「あったかーい」

小野という女の子は、他人の評価を借りるなら「ちょっと変わってる」。別に「すごく変」でも「奇妙」でもなく、ただ「ちょっと変わってる」だけ。

そのせいか、彼女の人間関係は、たぶん彼女が満足できるようなものではないのだろう。どうせなら、純度100%の変人の方が人気が出るものだ。彼女のような普通の、というか中途半端な変人は、かえって人を寄せ付けにくい。

彼女の変わっているところは、たまに常人から見て少し奇妙な行動をするところくらいだ。さっきみたいに、プルタブを開けてから缶を顔に寄せるとか、冬に温かい缶のゴーヤジュースを飲むとか、ただそんな微妙な奇妙さだけ。それ以外は、彼女と「変」という言葉はあまり関係ないと思う。というか、そもそも小さな変わったところがない人間の方がよっぽど変わっているだろう。

一口飲んだ。甘い。

実は無糖のブラックコーヒーの方が好きなんだが、缶コーヒーはたいてい質が良くない。あの時彼女が聞いたのは「缶飲料の中でどれが好きか」だったはずなので、カフェ・オ・レと答えた。工業的なミルクと過剰な砂糖は、質の悪いコーヒー豆の味を覆い隠してくれるから、他の飲み物よりはまだ飲みやすい。

歩くスピードを落とし、飲みながら歩く。三分の一くらい飲んだだろうか。分かれ道が見えてきて、ようやく彼女がどっちへ行くのかまだ聞いていなかったことを思い出した。

彼女の方を向き、口を開こうとした時、彼女がまだ缶を頬に当てているのが見えた。どっちを先に聞くべきか。

じゃんけんぽん、あいこでしょ。じゃんけんぽん、あいこでしょ。じゃんけんぽん、俺の勝ち。いや、俺の負け。もうやめよう。

自分相手にじゃんけんして、本当の勝敗なんてつくものだろうか?

「まだ飲まないのか?冷めるだろ」

「…?もう飲み終わったよ」

「はっや」

「へへ」

「この後どっち行くの?」

「君はどっち?」

「まず左に曲がる」

「それから?」

「二つ目の角をまた左。で、ずっとまっすぐ」

「偶然だね」

「道で見かけたことない気がするけど」

「私も」

「偶然だな」

「でしょ」

彼女の反応からして、たぶん2点くらいだろうか。

さっきから今までで、合計で(-1,+5]って感じか。

ああ、今気づいたが、彼女の笑い方も少し変わっている。もともと笑うのが似合わない顔立ちなのか?目は比較的大きい方だが、完全に開かないと小さく見える。顔の脂肪が薄いから、笑うと筋肉の動きがはっきりわかる。でもシワがないからまあいいのか?笑わないと、まあまあ物静かに見えるけど、笑うとどこか人をからかうような、いたずらっぽい感じがするのはどうしてだろう。

左に曲がると、彼女も自然についてきた。いや、並んで歩いているんだから、先も後もないか。それに、俺の歩幅は彼女より大きいけど、彼女の歩くペースは俺より速い。だから、もし先後があるとしても、それは常に変化している。

「え、さっき『同じようなもん』って言ってたけど、新しいクラスでいい友達できた?」

「いい友達…は、まだいないかな」

「それじゃ同じじゃないじゃん」

「そうか?」

「うん。あ、前の席の子とは仲悪いの?」

42±1.5、いや、42±2さんか。まあ、42±2だからな。

「仲いいかどうか…普通のクラスメイトだよ。良いとも悪いとも言えない」

「最近君のクラスの前通ると、いつもその子と話してるの見るから、仲いいのかと思ってた」

「席替えしたばっかで、周りに知ってる子がいないから俺に話しかけてくるだけだろ。前も同じクラスだったし」

「ふーん、そうなんだ」

「うん」

見た目と違って、というか見た目通り、小野は型にはまったものが好きじゃない。だから彼女に何かを説明する時は、感性的というか、もっと気軽な方法で話す方がいいんだろう。でも俺は、考えられる原因を全部並べて相手に判断を委ねるのが癖になっている。それに、わざとらしく彼女に合わせようとすると、かえって不快にさせるだろう。だから、彼女が堅苦しい、つまらないと思うかもしれない言葉で説明することにした。

「……」

また沈黙に戻った。小野は手の中のゴーヤジュースを一口飲む。喉がかすかに上下する時、彼女の眉も一緒にぴくぴくと動いた。

「うまい?」

「飲む?」

「俺はいいや」

「……」

彼女はぺろっと舌を出し、それからゴクゴクと飲み始めた。速い。

「はぁー、まずっ」

「お疲れ」

そういえば、普段歩きながら物を食べたり飲んだりしないから気づかなかったが、この道、ゴミ箱が案外少ないな。少なくとも、ここまで一つも見かけていない。綺麗すぎる。

彼女の顔ももう元に戻っただろう。少なくとも、頬が変に膨らんでひくひくしているような、人に見せられない顔じゃなくなったはずだ。再び彼女に視線を向けた。

視線がまたぶつかった。さっきまでゴーヤジュースの余韻に浸っていたような表情が一気にほころぶ。視線をゴーヤの実から隣のゴーヤの花に移したような感じ、だろうか。

ああ、ゴーヤの花が爛漫と咲いている。なんて綺麗な黄色なんだろう。でも太陽のせいじゃなければ、透き通るような肌色かもしれない。そういえば、ゴーヤの花は普通5〜7つに深く裂けている。彼女もちょうどそんな感じだ。これが所謂、花のような乙女というやつか。ロマンチックな表現だな。

「ねえ、あのさ」

彼女は笑って口を開いたが、その後は長い沈黙が続いた。

「…どうした?」

「いや、別に?ただ、なんか今日、やけに私のこと見てるなあって」

「…?」

「うん」

「人と話す時は相手を見るべきだろ。前もそうしてたはずだけど」

「それはそうだけど、なんて言うか、今日はもっと私を見てるっていうか、もっと私に集中してるっていうか?まあ、とにかくいいことだと思うけど。うん、いい感じ」

「…ああ、たぶんちょっと新鮮だからかな」

「新鮮?」

「うん、そう、新鮮」

「新鮮?君、変なの」

変なのはそっちだろ、と喉まで出かかったが、彼女が他人の評価を結構気にすることを思い出した。特に、以前誰かに「変わってる」と思われていると知った時の、あの姿はもう見たくない。だから口を閉ざした。

でも、新鮮というのは本当だ。頭の中で必死に言葉を探して、ようやくこの答えにたどり着いた。たぶん、これが一番しっくりくる答えだろう。

彼女の顔が、俺にとって新鮮だ。こうして人と話すことが、俺にとって新鮮だ。今のこの感覚も、俺にとって新鮮だ。でも、この顔に新鮮さを感じるべきじゃない。こういうコミュニケーションの仕方に新鮮さを感じるべきじゃない。こんな感覚に新鮮さを感じるべきじゃないんだ。矛盾を感じる。でも、その矛盾さえも新鮮だった。

だから、無意識に彼女の顔をもう二、三度見たくなる。だから、歩くペースを少し落として、この会話をもう少し続けさせようとする。だから、この新鮮な感覚に心を奪われないようにしたいと思う。

「確かに。でも、確かに新鮮なんだ。久しぶりに会ったからかな」

「んー…よくわかんない」

「だよな」

もし今、彼女に「綺麗だのなんだの」と言ったところで、きっと余計にわからなくなるだろう。でも、こういう答え方の方が彼女は好きなのか?まあ、どうでもいいか。

「あ」彼女は突然、驚いたように立ち止まった。

振り返って、彼女がどうしたのか確かめようとした。

「へへ、よく気づいたね」

彼女はまた急に俺に近づき、顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。

「…そうだな」

「うちのパパもママも気づかなかったのに。なーんだ、君、結構やるじゃん」

「……どうも」

俺たちが考えていることは、きっと違うだろう。でも、彼女が楽しそうならそれでいい。

「……」

左に足を向けると、彼女も自然についてきた。

「あ、そういえば、この辺にショッピングセンターあるよね。でもうちょっと行くとグルメストリートも」

「らしいな」

「君の方が詳しいはずでしょ」

「実は、この辺りも俺にとっては結構新鮮なんだ」

「うわ、最新型のブーメランかよ」

「カーブもするぞ」

「そこまでリアルなのにカーブしなかったら、君のパパとママを訴えてやる」

でも、ブーメランって形容詞はなかなかいい。よく考えれば、俺の外出は基本的に学校への往復に限られている。放課後は来た道をそのまま帰るだけ。前に一度、彼女が言っていたショッピングセンターにお使いで行ったことはあったか。でも、その時もただ任務を遂行しただけだ。グルメストリートなんて全く知らなかった。この辺りの住民なのに、情けない。

「行く?」

彼女は手を挙げ、ショッピングセンターの方を指さした。いや、そっちの方角か?俺の記憶では違う場所だった気がするが。

「ショッピングセンターか」

「うん」

飲み干した空き缶は、二人ともまだ手に持ったまま捨てていない。ショッピングセンターならきっとゴミ箱があるだろう。

「いいよ」

「うん」

彼女は手を下ろし、数歩前に進んでから、その場に立ち尽くした。

「案内して」

お互い様だな。

ショッピングセンターの立地は結構いい。この辺りの家の隙間を縫って、何度かそれを繰り返せば大体着く。利便主義の美学を貫いていて、まさに現代の宝だ。

ゴミ箱発見。正面入口のすぐ隣にあった。

一緒に捨てよう、と小野に手を差し出した。

彼女はすぐに俺の意図を察し、柔らかくなった空き缶を俺の手に置いた。温かい。

「缶のことだけど」

「あ、君も飲みたかった?でももう全部飲んじゃったよ」

「また買えばいいだろ」

「そんなに私が口をつけた缶が欲しいの〜?へぇ〜」

「ああ、うちで飼ってるゴミ箱が好きなんだ」

「ここのゴミ箱が食べないなら、帰ろう」

「うん」

「ねぇ、せっかく来たんだし、見ていかない?」

「いいよ」

小野は俺の手を握り、並んでショッピングセンターに入った。

俺の印象では、小野はあまり買い物好きではない。

いや、そうとも言えないか。「ショッピング」という行為が好きではない、と言った方が正しいだろうか。彼女がカバンに何か飾りをつけているのを見たことがないし、ヘアゴムもいつも似たようなデザインのものを使っているようだ。新作やコラボの文房具を使っているのも見たことがない。

それに加えて、今の彼女の、退屈そうな表情。感情の起伏が小さい、というかあまり表に出ないタイプに見えるのに、表情の振り幅は微妙に大きい。大きくも小さくもなく、かえって妙な違和感を与える。

「あ、クレーンゲームだ」

彼女が突然口を開いた。彼女の視線の先を見ると、ここにはクレーンゲームが何列も並んでいた。前に来た時は気づかなかったな。

「今どき、まだこんなのあるんだ」

「面白いからだろ」

「全然面白くないじゃん」

「それもそうか」

「ぬいぐるみを一つ取るのにかかるお金から、ぬいぐるみ本体の値段を引いた残りが、機械のボタンをポチポチ押す時間に払ったお金ってことでしょ。なんなの、意味わかんない」

「やってみるか?」

「やだ。それより、お腹すいた?」

まだ食事時まで少し時間があるが、昼をそこまでたくさん食べないから、何か食べるのも悪くない。家では外で食べてこいと言われているし、その点も心配ない。

「そっちは?」

「お腹すいてない。さっきの飲んだから、まだちょっと胃がむかむかする」

そう言って彼女はぺろっと舌を出したが、相変わらず「退屈」と顔に書いてあるような表情で、それが絶妙なバランス感覚を生んでいた。

「あそこにデザートとミルクティーの店がある。胃を洗いに行くか」

「気が利くね」

平日だからか、放課後のこの時間は店内にあまり人がおらず、贅沢にもボックス席に座ることができた。

そういえば、上座とか下座とか、未だによくわかっていない。どっちに座るか少し迷ったが、見た感じ心地よさそうなソファ席は彼女に譲ることにした。

小野は少し躊躇してから、俺の隣に座った。

以前、俺は窓際の席で、小野は俺の左側に座っていた。今は窓際でもないし、小野は俺の右側に座っている。なのに、不思議と慣れ親しんだような、それでいて見知らぬような感覚があった。

「新鮮でしょ?」小野は俺を見て、いたずらっぽく笑った。

新鮮。新鮮か。また少し違う気もする。でも具体的にどこが違うのかは、今すぐには思いつきそうにない。だから頷いた。

小野は立ち上がってメニューをテーブルに広げ、品定めを始めた。

「わ、二人用のスフレがある」

「今日、財布持ってきてない」

「昼飯はどうしたんだ?」

「愛妻弁当」

「タイムスリップしてきた私?」

「異世界の」

「聖女様を娶るとは、なかなかやるじゃない」

「ゴーヤの花の変人だ」

「なによそれ」

「綺麗だって褒めてるんだよ。病気を浄化できるくらいに綺麗だって」

「それならゴーヤの花の聖女様って言うべきでしょ。変人はひどい」

「変人にとっての聖女様も、たいして聞こえは良くない」

「わー、もう君にはあげない」

「ん、俺はエスプレッソと、ココアムースひとつ」

「あ、私はこのイチゴパール抹茶ラテと、このバニラスフレで。お願いします」

注文した品がテーブルに運ばれてくるまでの間、小野はずっと、まだ繋がれたままの俺たちの手を見つめていた。

そういえば、なんでまだ繋いでるんだ。

「俺、左手あんまり器用じゃないんだ」

「偶然だね」

「食べさせてほしいってこと?」

「照れなくていいのに」

「かかかか、間接キス」

「口移しじゃないの?」

「きたなっ、やだ。あ、どうも」

「どうも」

まず氷水を一口飲み、それからコーヒーをかき混ぜた。小野は頬杖をつきながら、興味深そうにそれを見ている。

大げさに一口飲んだ。

「からっ」

小野は自分が頼んだ、ええと、イチゴ抹茶大福ジュースみたいなものを俺の口元に持ってきた。俺が動かないでいると、彼女はストローを差し込み、そのまま俺の口に突っ込んできた。

「懐かしいな」

彼女は飲み物を離さないので、少し喋りづらい。ずっと俺の口と喉の動きを見つめている。仕方なく一口吸った。甘い。タピオカも大きい。

こういう飲み物に入っているタピオカを食べるのは初めてだったが、なぜ飲み物に入れるのかは理解できた。確かに飲み物に風味を添えている。でも、これは結構お腹にたまりそうだ。タピオカ入りの飲み物を飲んだ後で、本当にデザートや食事が食べられるのだろうか?

「おいしい?」

頷くと、彼女も頷き、飲み物を離して自分も一口飲んだ。

「変な味かと思ったけど、意外と悪くないね」

彼女はタピオカを噛みながら、少し悔しそうに言った。なるほど、毒味をさせたのか。

「それ、どんな味なんだ?君のやつ」

「海辺ですき焼きを食べてる味、かな」

「悪くなさそう」

「でも、ちょっと苦いかも。君が受け入れられるかわからないけど」

「試せばわかる」

彼女は手を伸ばし、まだ三分の一ほど残っていたコーヒーを直接手に取った。そして、氷水を取ろうとしたのか一度手を上げたが、また引っ込めてイチゴパール抹茶ラテを一口飲み、それから一気にコーヒーを飲み干した。

「うぇ、よく飲めるね、こんなの」彼女は大げさに眉をひそめ、顔全体が、脱水した雑巾みたいにぐちゃぐちゃに歪んでいる。俺の思った通りだったらしい。

「辛いだろ」

「なんでこんなに苦くて辛いの?どうやったらコーヒーがこうなるわけ?」

「水で薄めてないから」

彼女は言い返さず、スフレを一口すくって口に入れ、それから一人で何度か頷いた。

コーヒーと一緒にムースを食べようと思っていたのに、飲み干されてしまった。自分で追加注文するのも気が引けるし、彼女の分まで頼んだら俺の財布が大変なことになる。仕方ない。氷水を元々コーヒーが入っていた小さなカップに注いだ。かなり薄まってしまったが、まだ少しコーヒーの香りがする。それからムースを一口。さっき冷蔵庫から出してきたばかりのようだが、食感は悪くない。

「なんで最初から、その…コーヒーの原液みたいなのを薄めないの」

いつの間にか、小野は手を止め、半笑いで俺を見ていた。

「水を入れたら美味しくないだろ」

「あれは絶対、水を入れてから飲むやつでしょ。なんなの、その飲み方」

「水を入れたらアメリカーノになっちゃうだろ」

「名前だけでしょ。美味しければいいじゃん」

「それはそうだけど」

でも、俺が飲みたいのはエスプレッソなんだよ、小野。君にはきっとわからないだろうな。

こんな放課後を、クラスメイトと一緒に街をぶらつくなんて、以前の俺には想像もつかなかった。俺たちの会話はほとんど意味のないものばかりだったけど、こういう意味のない会話は結構好きだ。相手が小野だから。昔もこんな感じだったな。

小野は飲み物を一口、スフレを一口と、口がずっと止まらない。頬もずっと動き続けているから、噛んでいるのは主に飲み物の中のタピオカだろう。

小野だからな。理由を探す時にこの一言を思い浮かべると、なんだか全てが納得できてしまう。どうしてだろう。

「お腹いっぱい。今夜はもうご飯いらないや」

ティッシュを一枚引き抜いて小野に渡した。彼女はそれを広げて手に握りしめている。たぶん俺が食べ終わるのを待ってから口を拭くつもりなんだろう。

俺がフォークを置き、ティッシュを手に取るのを見て、彼女もようやく口の周りを拭き始めた。お互いに口を綺麗に拭き終えてから、ティッシュを折りたたんで置いた。

俺と彼女には、実は共通点が結構ある。というか、お互いを理解できる部分があるんだろう。でなければ、二学期近くもだらだらと話が続くわけがない。

スマホに目をやると、体感ではそれほど経っていないが、実はもう結構遅い時間だった。

「帰るか」

「うん」

立ち上がり、レジに向かった。

「出口で待ってて。俺が払うから」

小野は目をぱちくりさせ、ポケットから千円札を二枚取り出した。実は、飲み物の方がスフレより高かったのは、ちょっと意外だった。

会計を済ませ、柱に寄りかかって腕を組んでいる小野の元へ向かう。なぜか『ガチョウを抱く少年』みたいに見えた。

彼女がこちらを向いたので、彼女からもらった二枚の千円札を返した。

「うわ、かっこいい」

彼女は少し呆れたように言った。

「お返しだよ」

「また今度にしておけばいいのに」

「先延ばしは良くない」

「どうせそう言うと思った」と答えながら、彼女は紙幣を受け取り、制服のポケットに突っ込んだ。お金を全部ポケットに入れるなんて、防犯とか大丈夫なんだろうか。

「まだ見てく?」

「時間、大丈夫か?」

「大丈夫じゃない」

「じゃあ、行こ」

来た道を戻る。さっき彼女がショッピングセンターに行こうと言い出した通りまで来ると、彼女は大きくな伸びをした。

「そういえば今日、なんでまっすぐ帰ったの?いつもは残って本とか読んでるじゃん」

「今日は気分が良かったから」

「そっか。じゃあ、今はもっと気分がいいでしょ」

「否定はしない」

「よかったじゃん」

ああ、よかった。

彼女の顔を見た。

確認しようと思った。もう見えないとわかっているのに、それでもそこを見てしまった。

空白。いや、完全な空白ではないけれど、俺が見たいと願っていた空白が、確かにそこにあった。

少し、安心した。

まっすぐ歩き、もうすぐ俺の家に着く。この間、話さなかった。気まずさというのは結局、慣れていないから生じるものだ。もうこの沈黙に慣れていたし、彼女もそうだろう。

沈黙の中、家に着いた。

「あの前の家が、俺の家」

「うん」

「君の家はもっと先?」

「夜這いでもする気?」

「数日後にでも」

「おじさんとおばさんによろしく」

「そっちもな」

「じゃあね」

彼女はくるりと背を向けると、一度も振り返らずに歩き去った。彼女の背中がオレンジ色の夕日の中に完全に溶け込むまで見送ってから、鍵を探し始めた。

手を洗い、自分の部屋に戻って、医療用アルコールで全身とカバンを簡単に消毒してから、机の前に座った。

ピロン。

スマホのロックを解除すると、小野からメッセージが来ていた。

「実は方向、全然逆だったんだ。偶然だよね。」

ああ、すごい偶然だな。

これまで画面越しのやりとりがあまり好きではなかったし、これからも好きになることはないだろう。でも、必要なら、好き嫌いの問題じゃない。

「じゃあ明日、校門前で。今度は君が私を送ってくれる番ね(⁠。⁠•̀⁠ᴗ⁠-⁠)⁠✧」

送ったメッセージはすぐに既読になり、そんな前向きな感じの返信が来た。

風呂に入ろうとした時、帰宅した両親が俺を見て、今日学校でどうだったかと何気なく聞いてきた。

いつもより綺麗な両親の顔を見ながら、少し考えて、「別に大したことはなかったよ」と、そう答えた。

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