第1話:コードMOMO(電脳の産声)

西暦2325年12月28日。 空は、降り止まない酸性雨と、氾濫するネオンサインの残光によって、淀んだ紫色の層を成していた。


摩天楼の隙間を這うように張り巡らされた高架道路には、無数の自動運転車両が音もなく流れ、街の最下層である「スラム・セクター」には、違法なサイバーウェアの火花と、安価な合成燃料の匂いが充満している。


この街の名は、ネオ・オカヤマ。 かつての伝説が電子の海に沈み、欲望と情報の濁流が全てを飲み込む、極彩色の地獄だ。


街の喧騒から隔絶された地下20階。 古びたスクラップ工場の奥に隠された私設研究室の中で、一人の男がモニターの光に照らされていた。


キビツ。 かつて政府直属の防衛軍でメインプログラマーを務めていた、この街の伝説的なハッカーだ。 無精髭を蓄え、使い古されたトレンチコートの襟を立てたその姿は、一見するとただの浮浪者のようにも見える。しかし、その鋭い眼光と、端末を叩く義手の指先の精密さは、彼が未だ現役の「魔術師」であることを物語っていた。


「……見つけたぞ。これが、連中の正体か」


キビツの低い声が、静寂に包まれた部屋に響く。 彼の瞳が映し出すホログラム・モニターには、真っ赤な警告色が点滅していた。


解析データが示すのは、既存のどのセキュリティプロトコルも認識できない、特異な自己増殖型サイバーウイルス。その構造体は、巨大な角を持つ「鬼」の顔を模した幾何学模様を形成している。


通称、大罪ウイルス『ONI』。


それはネットワークの深淵で静かに力を蓄え、来るべき時を待っていた。 解析によれば、このウイルスが世界中の基幹システムを一斉に掌握し、文明のすべてを瓦解させる「ゼロ・デイ」は、2326年1月1日午前0時。 あと、3日と数時間しかない。


「間に合うかしら、キビツ」


背後から、冷ややかな、それでいて艶のある声が届く。 振り返るまでもない。キビツの長年のパートナーであり、この隠れ家のオーナーでもある女性、クシロだ。


彼女は、およそこの薄汚れた地下室には似つかわしくない美貌の持ち主だった。 実年齢はキビツと同じか、あるいはそれ以上かもしれないが、最高級のバイオ手術とナノマシンによる細胞メンテナンスにより、その見た目は20代の全盛期のままで止まっている。 タイトなブラックのライダーススーツに身を包み、腰には電子工作用のツールベルトを巻いている彼女は、世界屈指のハードウェア・エンジニアでもあった。


「クシロか。……厳しいな。ウイルスの侵食速度は、俺の予測を遥かに上回っている」


「でも、やるんでしょ? そのために『桃』を育ててきたんだから」


クシロは部屋の隅にある、巨大な円筒形の培養槽を見上げた。 そこには、ピンク色の液体の中に、巨大なハードドライブのような心臓部を持った、一つの「核」が浮いていた。 それは、キビツが人生のすべてを賭けて開発した対ウイルス用究極プログラム。


その名を、MOMO。


「ああ、やるしかない。……人類の文明が電子の錆になる前に、この『桃』を割る」


キビツは震える指先で、コンソールの最終キーを叩いた。 部屋中のサーバーが唸りを上げ、電力の供給を要求する。街の地下から違法にバイパスした高電圧が、ケーブルを通じて培養槽へと流れ込んだ。


「準備はいいか、クシロ。ハードウェア側のリンクを」


「いつでも。神経接続プロトコル、オールグリーン。……さあ、目覚めさせてあげて。私たちの『息子』を」


クシロがレバーを引き下げると、培養槽内の液体が激しく泡立ち始めた。 電子の奔流が空間を歪め、空中に無数のコードがホログラムとして結像される。 それは、古の英雄譚をデジタルで再構築する儀式。


キビツは、喉の奥から絞り出すように叫んだ。


「――コード、MOMO。構築(ビルド)開始!」


爆発的な光が、地下室を白く染めた。 0と1の嵐が渦を巻き、培養槽の中の「核」が激しく脈動する。 幾層にも重なる防壁が弾け飛び、プログラムが現実世界へと干渉を始めた。


その光景は、まさに伝説の「桃が割れる」瞬間そのものだった。


光の中から、一つのシルエットが形作られていく。 それは、少年の姿をしていた。 肌は陶器のように白く、髪は淡いピンク色。 その体には、神経回路を模したラインが走り、呼吸に合わせて桃色の光を放っている。


やがて光が収まり、装置から液体が排出される。 少年は、ゆっくりとその目を開いた。 その瞳は、深淵のような黒の中に、金色の回路図を宿していた。


「……マスター、キビツ。および、マザー、クシロ。認識を完了」


少年の声は、無機質でありながら、どこか温かみを帯びていた。 彼はゆっくりと立ち上がり、自分の手を見つめる。 プログラムとしての自我が、現実の肉体(アンドロイド・フレーム)と同期していく感覚。


「状況を確認します。大罪ウイルス『ONI』の活性化まで、残り72時間。……排除プログラム、MOMO。これより任務を開始します」


キビツは、安堵したように深く息を吐き、タバコに火をつけた。 紫煙が漂う中、彼はMOMOの肩に手を置いた。


「いいか、MOMO。お前はただのプログラムじゃない。俺たちの希望だ。この汚れた街のネットワークを、あの『鬼』から守り抜いてくれ」


「了解。……ですが、マスター。現状の私の演算能力だけでは、鬼ヶ島ラボの最深部、コア・サーバーへの到達確率は4.2%です」


MOMOの冷徹な分析に、クシロが苦笑する。


「やっぱりね。一人じゃ足りないわ。……MOMO、あなたには仲間が必要よ。この街には、あなたと同じくらいはみ出し者で、でも腕のいい『力』が眠っている」


「仲間……ですか」


MOMOが首を傾げる。 プログラムである彼にとって、「仲間」という概念は未定義の変数だった。


「ああ。まずは、その『力』を集める。……2326年へのカウントダウンは、もう始まっているからな」


キビツは、モニターに映し出されたネオ・オカヤマの地図を指差した。 そこには、三つの輝くポイントが示されていた。


一つは、クシロの元で静かに最期を待っている老犬のバイタルデータ。 一つは、電脳街の裏路地で暗躍する、正体不明のハッカー。 そして最後の一つは、鬼ヶ島ラボの空を舞う、政府軍の廃棄ドローンの信号。


「さあ、行こうぜ。最高の桃太郎リメイクの始まりだ」


キビツの不敵な笑みとともに、地下室のシャッターが開いた。 外は依然として、冷たい酸性雨が降り注いでいる。


しかし、その中へと踏み出すMOMOの背中には、ネオンの光が反射し、確かな闘志の輝きが宿っていた。


2324年12月末。 電子の英雄と、時代に取り残された大人たちの、最後にして最大の反逆が、今、幕を開けたのである。


ネオンの海に沈む街、ネオ・オカヤマ。 その最深部で、大鬼の嘲笑が響き始めていた。


第1話「コードMOMO」 完

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