第4話 後手チャットGPT

年が変わった瞬間、私は家から逃げた。

玄関の向こうの冷気が、祝いの空気を薄く引き裂いてくれる気がしたからだ。


角を二つ曲がった先に、灯りがひとつ浮いていた。暖簾に小さく「やまね」。

戸を引くと鈴が鳴り、店の静けさが私を飲み込んだ。


カウンターの奥に、年配の男。店主だろう。背中が、余計なことを言わない背中だった。

私は空いている席を探して、そこで立ち尽くした。


カウンターの端に、小さな札が置かれている。白い紙に黒い字。


美波。


私の名前。しかも、祖母の台所の引き出しにいつもあった、あのメモ帳の紙の手触り。

誰が置いたかより先に、なぜここに私の席があるのかが怖かった。


札を裏返すと、一行だけ。


——今年は逃げなくていい。


喉の奥が痛くなって、私は息を吸うのを忘れた。


「それ、毎年、正月だけ来る」


店主が言った。目は合わせない。グラスを拭く手だけが一定の速度で動く。


「誰が……?」


「知らん」


短い。切れる。嘘の切れ方じゃない。だから余計に、背中が冷える。


店主は盃と小さな徳利を出し、私の前に置いた。


「飲むか」


問いというより、席に添える当然みたいに。

私は頷いてしまった。飲まないと、この札の意味が永遠に“よく分からないまま”残る気がしたから。


口をつけると、酒が喉を滑り、胸の内側をあたためた。

熱が通るところだけ、固まっていたものがほどける。


正月って、こういう味がする。

甘いのに、ちょっと苦くて、言い訳みたいに喉に残る。


「正月、苦手か」


店主が言った。


私は盃の縁を指でなぞった。冷たい。逃げ道を作るみたいに。


「……祝う顔が作れないんです」

声が自分のものじゃないみたいに出た。

「みんなの『おめでとう』が、ちゃんとして見えて。私だけ、ちゃんとしてないみたいで」


盃を置く。カウンターに触れた音が、思ったより大きい。

恥ずかしいのに、止められない。


店主は「変じゃない」とだけ言った。

慰めというより、事実の発音だった。


もう一口。酒が優しい。優しいから、怖い。

拳のまま守ってきたものが、勝手に開きそうで。


言うつもりのない単語が、口の端から落ちた。


「……離婚しました」


店主は「そうか」と言ったきり、何も足さない。

その“足さなさ”が、私を追い詰めない。


私は札を握り直した。紙が少し毛羽立っている。祖母のメモ帳は、こういう毛羽立ち方をする。

指先に、古い箪笥の匂いが戻ってくる。


「母が……何も聞かないんです」


それだけ言った瞬間、胸の底が露出した。

離婚の事情とか、体裁とか、そんなのはどうでもよくて。怖いのはたぶん、そこだった。


「聞かないのが、怖い。……『おめでとう』って言いながら、私のこと、見ない。

私も、見ないふりしてる。祝ってるふり、してる」


言葉が出るほど、息が楽になるのが腹立たしい。

祝えない自分は悪だと思ってきたのに、悪ならこんなに楽にならないはずだ。


店主が、奥の棚から徳利を取り出した。さっきのより少し大きく、肌が古い。


「これも、毎年出す」


差し出された徳利を受け取り、底を見て、私は息を止めた。


縁に小さな欠け。

指をひっかけると、ほんのわずかに引っかかる。


祖母の徳利だ。


湯気の向こうで祖母がこれを洗いながら、「この子は転んでも割れへんのよ」と笑った。

欠けを指でなぞる癖まで、覚えている。


「……なんで、ここに」


声が震える。


店主はようやく私を見た。優しくない目。だから、信じられる。


「預かった」


「誰に」


答えは最初から喉の奥にいた。


「ばあさんに。生きてるうちに言われた。

『正月が苦しなったら、うちの孫に席を作ってやって』って」


胸の奥で、薄い板が一枚抜けたみたいに音がした。

祖母は私が祝えないことを、ずっと知っていた。言わせもしなかった。


店主は小さく肩をすくめた。


「ここは、そういう席がある」


札の裏の一文が、まっすぐ胸に刺さる。


今年は逃げなくていい。


そのとき、戸が開いた。

鈴が鳴る。さっきより少しだけ、ためらう音。


「……ここ、まだ開いとるんやな」


母だった。コートの襟を立て、髪が少し乱れている。

言い訳みたいに店を見回してから、私を見つけた。


「あんた……やっぱり」


母の視線が徳利の底に落ち、欠けで止まる。

一瞬、母の顔が子どもみたいにゆがんだ。


「それ……」


「ばあちゃんの」


そう言うと、母は唇を噛んだ。泣くのを隠す人の仕草。


「……ごめん」


母の声は小さい。

謝る母を、私は初めて見た気がした。


「聞いたら、あんたが壊れそうで。

でも、聞かへんかったら、もっと壊れるって……分かってたのに」


母は私の隣の席に腰を下ろし、手を握ったり開いたりした。落ち着く場所を探す手だった。


「言えなくて」


私も言った。短く。

たぶん、言えなかったのは離婚じゃない。祝えないことだ。


「正月が、苦しい。祝えない」


言い切った瞬間、世界が少しだけ静かになった。

母は目を閉じ、息を吸って吐いて、それから頷いた。


「うん。苦しい年もあるわ」


その言葉が、盃より温かかった。


店主が黙って、もう一つ盃を出した。母の前に置く。

母は戸惑って、両手で受け取った。大事そうに。


酒を注ぐ音が、静かな川みたいに響く。


母が口をつけ、少し顔をしかめて笑った。


「きつい」


「正月の酒って、そういうもんやろ」


私が言うと、母は小さく吹き出した。

その笑いが、祝う笑いじゃなくてもいい気がしてくる。


私は徳利の欠けを指でなぞった。

欠けは痛くない。そこから割れていく感じもしない。むしろ、欠けがあるから、この徳利はここまで来たのだと思える。


外はまだ暗い。けれど、窓の向こうがほんの少し白んでいた。

夜がほどける。私も、ほどける。


私たちは店を出た。冷たい空気が肺に入る。今度は痛くない。

母が隣で、少しだけ肩を寄せてきた。寒いからか、酔いのせいか、どちらでもいい。


私は白い息を吐いて、欠けの感触をもう一度思い出す。


あけましておめでとう、と私は私に言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る