第2話 先手Gemini

一月二日の夜、東京のワンルームマンションを包んでいたのは、暴力的なまでの静寂だった。  テレビを消すと、冷蔵庫の低い唸りだけが耳に刺さる。外は正月特有の、生き物の気配が希薄な、真空のような空気だ。  「……独り酒、か」  佐伯は自嘲気味に呟き、安物のローテーブルに四合瓶を置いた。  幼い頃、田舎の祖母が口癖のように言っていた。「正月三が日、独りで酒を飲んじゃいけねえ。正月の神様はな、独りぼっちを見つけると、寂しがってると思って『客』を遣わしちまうんだ。杯を重ねるたびに、客が増える。決して独りで呑むんじゃねえぞ」  当時の佐伯は鼻で笑っていた。独身の会社員にとって、正月はただの長い休息であり、酒は孤独を紛らわせるためのガソリンに過ぎない。  瓶の口を開けると、妙に甘ったるい、花の枯れたような香りが鼻腔を突いた。覚えのない銘柄だ。ラベルにはただ『御神酒』とだけ毛筆で記されている。どこで手に入れたのか思い出せないが、不思議と「今、これを飲まなければならない」という義務感に駆られていた。



 トクトクと猪口に注ぎ、一気に煽る。  喉を焼くような熱さのあと、脳を痺れさせるような芳醇な甘みが広がった。  「……旨い」  その瞬間、玄関の呼び鈴が鳴った。ピンポーン、と無機質な音が静寂を切り裂く。  時計は夜の十時を回っている。新聞勧誘でもなければ、親戚もいない。佐伯は警戒しながらドアを開けた。  「……え?」  そこに立っていたのは、白いダウンコートを着た女だった。  「あけましておめでとう、健太くん」  三年前に事故で亡くなったはずの恋人、恵美だった。  彼女の肌は雪のように白く、街灯の下でもどこか輪郭が曖昧に見えた。だが、その微笑みは記憶にある彼女そのものだった。  「……どうしてここに」  「お正月に健太くんが独りで飲んでるから、神様が通してくれたの。いいお酒を持ってきたよ」  彼女の手には、佐伯が今開けたものと全く同じ、ラベルのない瓶があった。



 再会の喜びと、拭い去れない違和感が交互に押し寄せる。しかし、恵美が注いでくれる酒は、飲むほどに佐伯の判断力を奪っていった。  「ねえ、もっと飲んで。お正月だもん」  恵美の顔が、少しずつ、左右にブレるように見えた。いや、ブレているのではない。  彼女の背後から、もう一人の恵美が、音もなく這い出してきたのだ。  「あけましておめでとう」  「おめでとう」  二人の恵美が、同じ声、同じ角度で首をかしげる。  「な、なんだ、これ……」  佐伯は立ち上がろうとしたが、腰が抜けたように動かない。酒の旨みはいつの間にか、腐った土のような不快な味に変わっていた。  視線を落とすと、床に置かれた猪口の数は、いつの間にか十を超えている。その数だけ、部屋の隅に、クローゼットの影に、キッチンの暗がりに、「白いコートの女」が立っていた。  彼女たちの顔は一様に白く、目鼻立ちはすり潰されたように平坦になっていく。ただ口だけが、耳まで裂けたような笑みを湛えていた。



 「寂しくないね、健太くん。こんなにたくさん、お友達がいるんだもん」  部屋を埋め尽くした「女」たちが一斉に一歩踏み出した。畳が湿った音を立てて沈む。  彼女たちの手には、全てあのラベルのない瓶が握られていた。  「おめでとう。おめでとう。おめでとう」  重なり合う声は、もはや祝福ではなく、呪文のような響きで狭い部屋を震わせた。一人の女が、氷のように冷たい指で佐伯の顎を押し上げる。  「さあ、最後の一滴まで飲み干して。来年の正月も、きっと美味しいお酒を持って伺いますね」  無理やり口に注ぎ込まれる液体は、もはや酒ではなく、どろりとした黒い泥の味がした。佐伯の視界は、無数の白いコートの群れに飲み込まれ、真っ白に染まった。


 翌朝。  管理人が異変を感じてマスターキーで部屋に入った時、そこには誰もいなかった。  ただ、暖房の効いていない冷え切った部屋の中央に、空になった酒瓶が一本だけ転がっていた。  そして、入り口から部屋の奥へ向かって、びっしりと百人分もの「濡れた裸足の足跡」が刻まれていた。  その足跡は全て部屋の内側、押し入れや壁の方を向いており、外へ出た形跡は、どこにもなかった。


 ――ふたりで、お迎えに上がりますね。

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