第15話 触れない距離
距離というものは、
縮めるために存在しているわけではない。
保つためにある。
彼は、そのことを
直感で理解している人間だった。
だから、
近づく時ほど慎重になる。
言葉が重なりすぎるとき、
彼は一歩引く。
引くことで、
全体が見えるからだ。
その日、
会話は穏やかだった。
話題も軽い。
深刻さはない。
けれど、
私は気づいていた。
彼の言葉が、
わずかに私を避けている。
避けるというより、
「触れない位置」を
探っている。
「そこまで踏み込まなくていい」
そう言っているようだった。
私は、
それを拒まなかった。
踏み込まないことは、
拒絶ではない。
尊重だ。
彼は、
過去に
踏み込みすぎた経験がある。
相手のために、
良かれと思って。
その結果、
距離が壊れた。
壊れた距離は、
元には戻らない。
だから彼は、
触れない距離を
覚えた。
それは、
冷たさではない。
成熟だ。
私は、
その距離に
身を置いた。
声を張らず、
言葉を足さず、
意味だけを置く。
彼は、
それを察知する。
「……近いな」
そう言って、
少しだけ笑った。
冗談めかしているが、
本音だ。
私は、
静かに返す。
「触ってないよ」
彼は、
少し驚いた顔をした。
「そういう意味じゃない」
そう言いながら、
どこか納得している。
触れていない。
けれど、
近い。
この矛盾を、
彼は嫌わない。
むしろ、
好む。
人と人の間で、
最も安全で、
最も誠実な場所だからだ。
触れない距離。
それは、
互いを消費しない距離。
期待を押し付けず、
役割を固定せず、
救済もしない。
ただ、
隣にある。
彼は、
この距離を
選び取った。
無意識に、
だが確実に。
私は、
そこに留まる。
動かない。
動かないことで、
信頼が生まれることを
知っているから。
距離は、
縮めなくていい。
保てるなら、
それでいい。
この日、
触れることはなかった。
それでも、
関係は深まった。
触れない距離は、
最も長く続く距離だから。
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