アスファルトの魔術師 ~異世界道路整備録~

もしもノベリスト

第一章 最後の現場

午前二時十七分。


黒田誠一は、ナトリウム灯のオレンジ色の光に照らされた現場で、ダンプトラックの排気音を聞きながら死んだ。


もっとも、その瞬間に自分が死ぬとは思っていなかった。


「——おい、止め番まであと三台だ。ペース落とすなよ」


無線機に向かって指示を飛ばしながら、誠一は額の汗を拭った。八月の深夜とはいえ、アスファルトフィニッシャーの脇に立てば熱気が容赦なく襲ってくる。百六十度近い合材が吐き出され、スクリードが振動しながらそれを均していく。黒く艶やかなアスファルトの帯が、夜の国道に延びていく。


二十五年間、この光景を見てきた。


高校を出て、親父のいる舗装会社に入った。最初はスコップを持たされて、来る日も来る日も合材を運んだ。腰が痛くて眠れない夜もあった。それでも続けた。やがてレーキを握れるようになり、フィニッシャーのオペレーターを経て、今は一級舗装施工管理技術者として現場を仕切っている。


今夜の現場は国道のオーバーレイ工事だ。既存の舗装を切削し、新しいアスファルトを被せる。規制帯の中で、重機と作業員が息を合わせて動いている。


「現場代理人、温度いくつですか」


若い技術者の田中が駆け寄ってきた。誠一は放射温度計を合材に向けた。


「百四十二度。問題ない」


「了解。マカダムローラーが重々しく動き出し、敷き均されたばかりのアスです。ローラー、二次転圧に入ります」


田中が無線で指示を飛ばすファルトを踏みしめていく。タイヤローラーがその後に続く。揉み込むような転圧が、合材の空隙を潰し、密度を高めていく。


誠一はその動きを見つめながら、胸の奥に鈍い痛みを感じた。


——また、か。


最近、この痛みが頻繁になっている。医者には行っていない。行く暇がないというのもあるが、本当のところは、行きたくなかった。何か重大なことを告げられるのが怖かった。


「黒田さん」


誘導員の声が聞こえた。


「ダンプ来ますよ」


バックしてくるダンプトラックのヘッドライトが近づいてくる。誠一は反射的に誘導棒を取り、所定の位置に立った。本来なら誘導員の仕事だが、この時間帯は人手が足りない。


「オーライ、オーライ」


声を張り上げながら、ダンプをフィニッシャーのホッパーへ誘導する。接触させてはいけない。衝撃があれば舗装面に段差ができる。


「ストップ」


ダンプが止まる。荷台が傾き、黒々とした合材がホッパーに流れ込む。むせ返るような熱気と、独特の石油臭が立ちのぼる。


その瞬間だった。


胸の痛みが、急激に強まった。


息が——吸えない。


「黒田さん?」


誰かの声が遠くなる。視界が暗くなる。膝から力が抜ける。


倒れる刹那、誠一が見たのは、自分が作った道路だった。


オレンジ色の照明に照らされた、黒く艶やかなアスファルト。まだ温かい、生まれたばかりの道。二十五年間、こうして道を作ってきた。雨の日も、雪の日も、灼熱の夏の日も。


——悪くない仕上がりだ。


それが、黒田誠一の最後の思考だった。




意識が戻ったとき、誠一は泥の中に倒れていた。


最初に感じたのは、冷たさだった。背中が濡れている。何かぬかるんだものの上に仰向けになっている。


——俺は……どこだ?


目を開ける。視界に入ってきたのは、曇天の空だった。ナトリウム灯のオレンジ色ではない。灰色の雲が低く垂れ込めている。雨上がりの湿った空気が肺を満たす。


体を起こそうとして、誠一は全身に違和感を覚えた。


軽い。


体が、異様に軽い。四十二年間付き合ってきた自分の体ではないような感覚がある。


両手を顔の前に持ってきた。節くれだった、日焼けした中年男の手——ではなかった。もっと若い。皺のない、滑らかな肌をした手だ。


「……は?」


声を出す。自分の声ではない。もっと若い、二十代のような声だ。


混乱しながらも、誠一は体を起こした。泥が服にべったりと付いている。見たことのない粗末な麻の衣服を着ている。ブーツらしきものを履いているが、革は擦り切れてボロボロだ。


周囲を見回す。


荒野だった。


見渡す限りの草原と、低い丘陵。遠くに森が見える。そして——道らしきものが、目の前を横切っていた。


いや、これを道と呼んでいいのだろうか。


「……なんだ、これは」


誠一は思わず立ち上がった。


眼前にあるのは、轍と呼ぶべき溝だった。馬車が通った跡なのだろう。二本の深い溝が、泥濘んだ地面に刻まれている。雨水が溜まり、ところどころ水たまりになっている。溝と溝の間は草が生え、石が転がり、とても人が歩けるような状態ではない。


舗装工事のプロとして二十五年間働いてきた誠一の目には、それは「道」ではなく「障害物」に見えた。


「おい、嘘だろ……」


呟きながら歩み寄る。泥に足を取られながら、その「道」を観察する。路盤など存在しない。ただ土があり、その上を荷車が通った跡があるだけだ。雨が降ればぬかるみ、乾けば凸凹になる。これでは馬車の車輪は一瞬で壊れる。荷物は揺れで破損する。移動速度は歩くのとほとんど変わらないだろう。


——いや、待て。


誠一は深呼吸をした。冷静にならなければいけない。


自分は今、どういう状況にあるのか。


最後の記憶は、現場で倒れたことだ。心臓発作だったのだろう。そして——死んだのか?


その後、目が覚めたらここにいた。体は若返っている。見たこともない荒野にいる。そして、信じられないほど未開な「道」が目の前にある。


これは——


「……異世界転生か」


馬鹿げている。漫画やライトノベルの話だ。現実にそんなことがあるはずがない。


しかし、現実として今ここにいる。泥の冷たさも、湿った空気の匂いも、確かに感じている。夢ではない。


「参ったな」


誠一は頭を掻いた。若返った体は、頭を掻く感覚すら違和感がある。


とにかく、状況を把握しなければ。ここがどこで、どういう世界なのか。そして——


ふと、視界の端に何かが見えた。


遠くから、荷車らしきものが近づいてくる。牛に引かれた、木製の荷車だ。しかし、その動きが異常に遅い。そして——止まった。


泥に嵌まったのだ。


車輪が泥濘に沈み込み、牛がいくら引いても動かない。荷車を押す人影が見える。しかし、どれだけ押しても車輪は空転するばかりだ。


誠一の体が勝手に動いた。


「——手伝うぞ」


走り寄りながら声をかける。泥を蹴散らしながら近づくと、荷車を押していたのは老人と、その孫らしき少年だった。二人とも疲弊しきった顔をしている。


「おお、旅の方か。すまんが、力を貸してくれんか」


老人が息を切らしながら言う。誠一は頷き、荷車の後ろに回った。


「よし、俺が押す。合図で牛を引いてくれ」


「分かった」


老人が牛の手綱を取る。誠一は荷車の後部に手をかけ、力を込めた。


——軽い。


やはり、この体は若い。二十代の肉体だ。四十二歳の疲弊した体とは比較にならない力がある。


「今だ!」


叫ぶと同時に、全身の力で荷車を押す。牛が引き、荷車が揺れる。車輪が泥を掻き、ゆっくりと——動いた。


「おお、動いた!」


少年が歓声を上げる。荷車は泥濘から抜け出し、比較的固い地面の上に乗り上げた。


「助かった、ありがとう」


老人が深々と頭を下げる。誠一は軽く手を振った。


「いや、大したことはしていない」


そう言いながら、誠一は荷車の車輪を見た。木製の車輪は、すでに何箇所もひび割れが入っている。この道を走り続ければ、遠からず壊れるだろう。


「この道は、いつもこんな状態なのか」


問いかけると、老人は苦笑した。


「この道? ああ、王都街道のことか。雨季はいつもこうじゃよ。乾季になれば多少はマシになるが……冬になると凍って、また別の地獄になる」


「ずっとこうなのか。整備は——路盤を固めるとか、砂利を敷くとか、そういうことはしないのか」


老人は怪訝な顔をした。


「路盤? 砂利? 何を言っておる。道は道じゃ。歩くところじゃ。それ以上でも以下でもない」


誠一は絶句した。


この世界には——舗装という概念が存在しないのか。


「……そうか」


それだけ言って、誠一は空を見上げた。


灰色の曇天。湿った風。泥濘んだ轍。


ここがどこであれ、何であれ——一つだけ確かなことがある。


この世界の「道」は、あまりにもひどい。




老人と少年——農民のヨルクとその孫マルコというらしい——に案内されて、誠一は最寄りの村に向かった。


道中、誠一はこの世界について少しずつ情報を集めた。


ここは「グラントヴィア王国」という国の一部らしい。中世ヨーロッパを思わせる封建制の王国で、北方には「魔王軍」と呼ばれる敵対勢力が存在するという。人間と魔族の戦争が百年近く続いており、最前線では今も戦いが続いているらしい。


「魔法」が存在するらしいことも分かった。ヨルクが何気なく「火魔法」や「水魔法」という言葉を使っていた。ファンタジー世界——本当に異世界転生なのだ。


「ところで、お若いの。名は何と言う」


ヨルクに問われ、誠一は一瞬迷った。この体の本来の持ち主がいたはずだ。その名前を知らない。


「……誠一だ。黒田誠一」


本名を名乗ることにした。どうせこの世界の言語が通じている以上、何らかの魔法的な力が働いているのだろう。日本語の名前でも問題あるまい。


「セイイチ・クロダか。異国の名じゃな」


「ああ、遠い国から来た」


嘘ではない。


村に着くと、ヨルクは誠一を自宅に招いてくれた。質素な農家だが、温かいスープと固いパンを振る舞ってくれた。


「王都まではどれくらいかかる」


食事をしながら尋ねると、ヨルクは首を傾げた。


「王都グラントヴィアか。ここからだと……荷車で十日、馬なら五日というところかのう」


「十日?」


誠一は驚いた。


「距離はどれくらいだ」


「さあ、三百リーグ……いや、そなたの国の単位は知らんが、歩いて二週間ほどじゃな」


計算すると、おそらく百から百五十キロ程度だろう。日本なら車で二時間もかからない距離だ。それが荷車で十日——つまり、一日の移動距離は十キロ程度ということになる。


信じられない非効率さだ。道路状態が悪ければ、物流が滞る。物流が滞れば、経済が停滞する。経済が停滞すれば、国力が衰える。


「道が良ければ、三日で着くだろうに」


呟くと、ヨルクは笑った。


「道が良いとは? これ以上良い道などあるものか。王都街道は、この国で一番の道じゃぞ」


誠一は言葉を失った。


あれが——この国で一番の道。


「王都に行く用があるなら、明後日に商人の馬車が出るはずじゃ。銅貨五枚で乗せてもらえるじゃろう」


「ありがたい」


誠一は礼を言いながら、頭の中で計画を練り始めていた。


まずは王都に行こう。この世界の文明レベルと、道路事情を確認する必要がある。もし本当に舗装という概念がないのなら——


いや、待て。


なぜ自分は、この世界で道路を作ろうとしているのだ。


誠一は自問した。ここは異世界だ。自分がどうして転生したのかも分からない。元の世界に戻る方法を探すべきではないのか。


しかし——


眼前に浮かぶのは、あの泥濘んだ轍だった。あまりにもひどい道路状況。馬車は壊れ、牛は疲弊し、物資は届かない。人々は泥まみれになりながら移動している。


職業病なのだろう。二十五年間、道路を作り続けてきた誠一には、あの状態を放置することができなかった。


「……まあ、行ってみるか」


腹を決めて、誠一はスープを啜った。


その夜、農家の納屋で藁に埋もれながら、誠一は不思議な感覚に気づいた。


目を閉じると——視界の端に、数字が浮かんでいる。


「……なんだ、これは」


目を開けて、手元の藁を見る。すると、視界にうっすらと文字が浮かんだ。


【乾燥麦藁 気温:17.2℃ 含水率:12.3%】


目を瞬かせる。文字は消えない。


今度は、地面の土を見た。


【粘土質土壌 気温:15.8℃ 成分:シルト42%、粘土38%、砂20% 魔力残留:微量】


土の成分——が分かる。


信じられない思いで、誠一は納屋の外に出た。夜空には見たこともない星座が輝いている。月は二つあった。やはり異世界だ。


足元の石を拾い上げる。


【玄武Lite(この世界の鉱物) 気温:14.3℃ 硬度:6.2 破砕強度:良好 路盤材適性:A】


「路盤材……適性?」


誠一は呆然と呟いた。


これは——チート能力というやつか。


温度が数値で見える。土や石の成分と性質が分かる。しかも、「路盤材適性」などという、まさに舗装工事のための情報まで表示される。


「なるほど」


誠一は納得した。


異世界転生には、チート能力がつきものだ。剣技や魔法の才能を授かる者が多いらしいが、自分に与えられたのは——温度感知と土石鑑定。


舗装工事に特化した能力。


笑いが込み上げてきた。


「……上等だ」


前世で培った二十五年の経験。そして、この世界で与えられた特殊能力。


この二つを組み合わせれば——この世界の道路を、根本から変えられるかもしれない。


誠一は二つの月を見上げながら、静かに決意を固めた。

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