その期待には応えられない

Yukl.ta

前編

「他者の期待に応える」

それは崇高な行為なのだろう。

仕事関係でも。

友人関係でも。

家族関係でも。

人は他者の期待に応えながら生きている。


しかし。

本当にその期待に応えるかどうかの判断も決断も、その責任も、最終的には自分次第なのだと思う。

それが誠に『真摯』というものだろう。



今朝も自宅のアパートから出て仕事に向かう。

3階自室のベランダを見上げると、洗濯物を干す二つの人影が見えた。

陽の光の中で、小さな影と小柄な女性の影が二つ、俺に向かって手を振っている。

『いってらっしゃい』

『また帰ってきてね』

そう言っているようだった。



今夜も仕事が終わり帰路に着く。

自宅に戻り玄関ドアを開ける。

しかし「ただいま」は言わない。

だから「おかえりなさい」の返事もない。

室内から見えるベランダには、何もない。


当然だ。



翌朝。

家の玄関を閉める時。

『…いってらっしゃい』

『…また帰ってきてね』

そう聞こえた気がした。

しかし俺は返事をしない。


…俺はその期待には応えられない。


以前、このアパートで不幸な事件があったという。

男に捨てられた母娘が失踪した、といった類のものだ。

…亡くなったという噂も耳にした。


先日、このアパートに住み始めたばかりの俺は、引っ越してきて暫くしてから、その事件の噂を知った。



家族…そして家庭。

暖かな喧騒に包まれた住居。

共に食事を囲む団欒の光景。

駆け回る子供を見守る両親

旅行先で撮った沢山の写真。


そんなものは今の俺の周りには無い。

過去に縁もあった。その機会もあった。

もしかしたらそれを取り戻せるかもしれない。

そう思える時期もあった。

だが結局、俺は独りで生きる道を選んだ。


後悔はしていない。

寂しくないわけではない。

人の温かさに甘えたくなる時もある。

しかし、俺には家庭を持ち続けられるような器量は、ない。


だから、また引っ越すことにした。

その母娘の魂の期待に俺は応えられない。



引っ越しの支度が終わり、玄関ドアを閉めるその時。

『行かないで…』

そう聞こえた気がした。

「すまない。」

そう小さく呟き、俺はその部屋を後にした。


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