その期待には応えられない
Yukl.ta
前編
「他者の期待に応える」
それは崇高な行為なのだろう。
仕事関係でも。
友人関係でも。
家族関係でも。
人は他者の期待に応えながら生きている。
しかし。
本当にその期待に応えるかどうかの判断も決断も、その責任も、最終的には自分次第なのだと思う。
それが誠に『真摯』というものだろう。
◆
今朝も自宅のアパートから出て仕事に向かう。
3階自室のベランダを見上げると、洗濯物を干す二つの人影が見えた。
陽の光の中で、小さな影と小柄な女性の影が二つ、俺に向かって手を振っている。
『いってらっしゃい』
『また帰ってきてね』
そう言っているようだった。
◆
今夜も仕事が終わり帰路に着く。
自宅に戻り玄関ドアを開ける。
しかし「ただいま」は言わない。
だから「おかえりなさい」の返事もない。
室内から見えるベランダには、何もない。
当然だ。
俺は一人暮らしなのだから。
◆
翌朝。
家の玄関を閉める時。
『…いってらっしゃい』
『…また帰ってきてね』
そう聞こえた気がした。
しかし俺は返事をしない。
…俺はその期待には応えられない。
以前、このアパートで不幸な事件があったという。
男に捨てられた母娘が失踪した、といった類のものだ。
…亡くなったという噂も耳にした。
先日、このアパートに住み始めたばかりの俺は、引っ越してきて暫くしてから、その事件の噂を知った。
◆
家族…そして家庭。
暖かな喧騒に包まれた住居。
共に食事を囲む団欒の光景。
駆け回る子供を見守る両親
旅行先で撮った沢山の写真。
そんなものは今の俺の周りには無い。
過去に縁もあった。その機会もあった。
もしかしたらそれを取り戻せるかもしれない。
そう思える時期もあった。
だが結局、俺は独りで生きる道を選んだ。
後悔はしていない。
寂しくないわけではない。
人の温かさに甘えたくなる時もある。
しかし、俺には家庭を持ち続けられるような器量は、ない。
だから、また引っ越すことにした。
その母娘の魂の期待に俺は応えられない。
引っ越しの支度が終わり、玄関ドアを閉めるその時。
『行かないで…』
そう聞こえた気がした。
「すまない。」
そう小さく呟き、俺はその部屋を後にした。
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