不輪(ふわ)~みんな、一緒に。~
純友良幸
お題「みんなで」「ロープ」「アレルギー」
小学五年生のあの日、私は一度死にかけた。
私にはバラ科のアレルギーがある。特に林檎は一口でも食べれば全身のかゆみとともに呼吸器官が腫れあがり、息ができなくなる。担任も保健室の先生も、当然知っているはずのことだった。
けれど、その日に限って担任は出張で不在だった。代わりに教壇に立った年配の教諭は、私の震えるような拒絶を「ただの我儘」と切り捨てた。
「林檎アレルギーなんて聞いたことないよ。好き嫌いはよくないな」
誰かがクスクスと笑った。 「そうだよ、好き嫌いだよ」 「みんな食べてるよ」
「みんな」という言葉が、まるで呪文のように教室に満ちた。私はクラス全員から監視されているような錯覚に陥った。逃げ場はどこにもなかった。気がつくと、私は一切れの林檎を口に運んでいた。
その後のことは、断片的にしか覚えていない。
飲み込んでほどなくして、喉の奥が熱い鉄を流し込まれたように腫れ上がり、鼻からも口からも息が吸えなくなる。意識がはっきりしているのに窒息する恐怖。あまりの苦しさに気を失うこともできず、周囲の驚愕した顔が取り巻く中、バタバタともがきながら失禁した。
そうやって何分が過ぎたのだろう、遠くに救急車のサイレンを聞きながら私の意識は不意に落ちた。
気づいたときには、病院のベッドの上で酸素の匂いを嗅いでいた。 私は死ななかった。ただ、それだけのことだった。
学校に戻ってからしばらく、私の周囲には薄い壁が出来ていることに気づいた。同年代の子供たちにはなじみのない“死”を回避して戻ってきた私を、どう扱ったらいいのかわからない戸惑いが作る空気。
それに私が気づくのと同じくらいの時期から、視界の端に「それ」が映るようになった。 常に、視界のギリギリ外側に誰かが立っている。 振り向いても誰もいない。見ようと意識した瞬間に、煤(すす)のような影はスッと消えてしまう。
ある日、何かの雑談の時、隣の席の女子が、声を潜めて教えてくれた。 「あのあと他の子から聞いたんだけれど、この学校、昔アレルギーで亡くなった子がいるんだって。……みんな知ってるけど、誰も話さないんだよ」
そう語る彼女は三年生のときに授業中に失禁してしまったことがあった。それ以来、彼女の立ち位置はクラスの中で微妙にズレていた。成績も運動も普通なのに、彼女も目に見えない「境界線」の外側に立っていた。
「だから、気にしなくていいよ」
そう言われても、私はあれ以来「集団」が怖くてたまらなくなった。自分も今ではあの子のように、境界線に立っている。そしていつかは死んでしまった子のように、完全に世界の外へ押し出されるのではないか。影は、その隙間を狙っているのではないだろうか。
そんなうっすらとした恐怖は消えないままに、私は六年生になった。
五月の運動会、私たちはクラス対抗の大縄跳びをすることになった。 「団結」を象徴するその競技は、私にとって拷問に等しかった。
縄が回り始めると、砂埃とともに「いっせーのーで!」という掛け声が響き渡る。 揃った足音。揃ったリズム。 円の中が、一つの巨大な意志を持った生き物のように見えた。
私は列の最後尾に近い場所に立っていた。 回る縄の弧の内側。
自分の番が来た。思い切って輪の中に飛び込む。なんとか引っかからずに飛べたと安堵して顔を上げた瞬間、目の前にいつもよりはっきりと「影」が見えた。
それは、私と同じくらいの背丈の女の子だった。 顔は見えない。けれど、クラスの全員が前方の背中を見つめて跳んでいる中で、その影だけが真後ろを向き、私と視線を合わせるようにして一緒に跳んでいた。
「みんなでいくよ!」「あと少し!」
声に押され、円の深部で跳び続けた。飛び続けなければならなかった。
誰かが縄を引っ掛けて、この儀式が終わるまで。私は必死に、自分の心臓の音をカウントの代わりにして跳び続けた。
肺が焼けるように熱い。息が苦しい。 あの給食の日の感覚が蘇る。喉が塞がっていくような錯覚。 意識が朦朧とし、足がもつれそうになったそのとき。
バチン、と縄が止まった。
縄を引っ掛けたのは、縄の中央、私のずっと前の方にいた別の子だった。 その子は、かつて「漏らした」と言われていた、あの隣の席の女子だった。
彼女の顔が絶望に染まる。周囲からの「あーあ」という落胆の吐息。 そのとき、私は見た。 私の目の前にいた影が、静かに彼女の方へ移動するのを。
影は、泣き出しそうな彼女の頭に、そっと手を置いた。 彼女は影に寄り添われるようにして、クラスの待機列へと戻っていった。
その日を境に、私の視界から影は消えた。 そして、気づけば彼女も学校に来なくなっていた。 理由は誰も知らないし、誰も聞こうとしなかった。
私はときどき考える。 あの影は、集団から零れ落ちた者を迎えに来る「仲間」だったのだろうか。 それとも、あの時私を殺しかけた「みんな」という怪物そのものだったのだろうか。
数日後、また給食の時間。
配膳台の前で、一人の男子が箸を止めていた。
「俺、これ食べたら、ヤバいかも」
誰かが笑った。「またまた、好き嫌いでしょ?」
「みんな食べてるよ」「前は食べてたじゃん」
『みんな』
その言葉が、背中に冷たいものを這わせた。
私はスプーンを握りしめた。
何かを言おうとしたその瞬間、視界の端で、影がふっと動いた気がした。
……でも、たぶん、気のせいだと思う。
そう思わなければ、また「縄」が回り始める音が、怖くて仕方がないから。
(了)
不輪(ふわ)~みんな、一緒に。~ 純友良幸 @su_min55
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