ずんいち小説化

@Emperor-kanda

第一話

第一章 カレーと朝


純一がすき家に入ったのは、腹が減ったからだった。

それ以上でも、それ以下でもない。


入口の自動ドアが開くと、独特の匂いが鼻を突く。

米と脂と、少し甘いカレーの匂い。

この匂いを「安心」と呼ぶ人間もいるが、

純一はそこまで上等な感情を持ち合わせていなかった。


ただ、考えなくていい匂いだった。


券売機の前に立つ。

背中を丸め、少しだけ画面から距離を取る。

近づきすぎると、選択肢が多く見えてしまうからだ。


並、特盛、メガ。


純一は一瞬、並に指を伸ばしかけた。

理由は分からない。

健康のことかもしれないし、

昨夜ジョージに言われた言葉が、まだ耳の奥に残っていたのかもしれない。


だが、結局メガを押した。


「いっぱい入ってるから」


声に出さず、心の中でそう言った。

言い訳は、だいたい心の中で済ませる。


六十歳。

その数字を意識する瞬間は、実はそう多くない。

鏡を見たとき、

階段を上ったとき、

若い店員に「お待たせしました」と妙に丁寧に言われたとき。


カウンター席に座ると、水が置かれる。

店員の手は若く、爪が短い。

純一はそれを見て、なぜか安心した。


カレーが来るまでの数分、

純一はぼんやりと天井を見た。


――今日、仕事あったかな


警備。

あったはずだ。

なかったら困る。

仕事がない日は、時間が牙をむいてくる。


カレーが来る。

メガ盛りは、やはり多い。


一口目を食べる。

辛くもなく、特別美味くもない。

でも、確実に「食ってる」という実感だけはある。


純一は、食べるスピードが遅い。

急ぐ理由がないからだ。


途中、隣の席に若い男が座った。

スマホを見ながら牛丼をかき込んでいる。

純一は、その速さを見て少しだけ羨ましくなった。


――あんなふうに急げたらな


でも、急いでどこへ行くのかは分からない。


食べ終わる頃には、額にうっすら汗がにじんでいた。

腹は重い。

だが、嫌な重さではない。


会計を済ませ、外に出る。


朝の大阪は、やたらと元気だ。

自転車、観光客、声の大きい若者。

みんな、どこかへ向かっているように見える。


純一は、向かう先があるかどうか分からないまま歩き出す。


そして、

マンホールに落ちた。


完全に落ちたわけではない。

片足がはまり、体勢を崩しただけだ。


「いてて……」


声は小さく、誰にも届かなかった。

それでよかった。


立ち上がり、ズボンの汚れを軽く払う。

怒りも恥も、少し遅れてやってくるが、

純一はその前に歩き出した。


――まあ、ええか


そう思えた日は、

一日の滑り出しとしては悪くなかった。

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