第6話

第4話:狂える薔薇の帰還

 休日の喧騒が嘘のように静まり返った月曜日の朝。王立リリウム学園の門をくぐるシフォンの足取りは、心なしか軽やかだった。

 昨日の休日、アリアと共に巡った甘味処の記憶が、彼女の脳裏に焼き付いている。口の中でとろけた極上のフォンダンショコラ。あれを再び口にするためならば、多少の退屈な講義も、忍び寄る暗殺者の影も、耐え難い苦痛ではない。

 しかし、教室の扉を開けた瞬間、シフォンの鼻腔を突いたのは、平和な学園にはあるまじき「不浄な魔力」の残滓ざんしであった。

 

「……シフォンさん、おはようございます」

 

 席に着くと、アリアが少しやつれた、けれど安堵の混じった笑顔で迎えてくれた。週末の暗殺未遂事件。シフォンが鮮やかに退けたものの、アリアの心に刻まれた恐怖は完全には拭えていない。

 

「……おはよう、アリア。顔色が悪い。……糖分が、足りてないんじゃないか?」

「ふふ、そうかもしれませんわね。放課後、また一緒に――」

 

 アリアが言葉を紡ぎ切る前に、教室の重厚な扉が、乱暴に跳ね開けられた。

 静まり返る教室。

 入り口に立っていたのは、数日前までその美貌と槍術で羨望を集めていたはずの少女、グレイス・バイオレットであった。

 だが、その姿はあまりに変貌していた。

 整えられていたはずの金髪は乱れ、制服の襟元は崩れている。何より、その瞳だ。血走った眼球は定まらず、瞳孔は異常に散大している。彼女の周囲には、物理的な重圧を伴うほどに禍々しい、紫色の魔力が霧のように漂っていた。

 

「……アリア様。ああ、アリア様……」

 

 グレイスは周囲の生徒たちを、あるいは教壇に立つ教師さえも、視界に入れていない。ふらつくような足取りで、一直線にアリアの元へと歩み寄る。

 

「グレイス……さん? そのお姿、一体どうされたのですか……?」

 

 アリアが困惑と恐怖を湛えて声をかける。するとグレイスは、突然その場に跪き、アリアの手を強引に掴み取った。

 

「アリア様、ようやく気付きましたわ。わたくしが、わたくしこそが、貴女の隣に立つ唯一の存在であるべきだと! あの日、あのエルフに負けてから、わたくしは地獄を見ました……。けれど、神はわたくしを見捨てなかった。この力を授けてくださったのですわ!」

 

 グレイスの告白は、愛の言葉というにはあまりに鋭利で、毒々しい執着に満ちていた。

 

「わたくしは貴女を愛しております。他の誰も、貴女に触れることは許さない。貴女を守るのは、高貴な血を引くこのわたくしだけでいい。……わたくしの愛を、受け入れてくださいますわね?」

 

 その歪んだ告白に、教室中の生徒たちが息を呑む。アリアはあまりの狂気に言葉を失い、掴まれた手を震わせることしかできなかった。

 

「……不快だ」

 

 静寂を破ったのは、低く、冷徹な少女の声だった。

 シフォンが椅子から立ち上がり、アリアを背後に隠すように一歩前へ出る。

 

「グレイス。……あんたのその魔力。それは自分の力じゃない。……安っぽい、呪いの道具の匂いがする」

 

 シフォンの言葉に、グレイスの顔が劇的に歪んだ。先ほどまでの恍惚とした表情は消え失せ、獣のような憎悪がその相そうを支配する。

 

「黙りなさい、どこの馬の骨とも知れぬ卑しいエルフ! 貴様さえいなければ、アリア様がわたくし以外に目を向けることなどなかった! ……貴様が誇るその槍術も、この『力』の前では無力であると思い知らせてあげますわ!」

 

 グレイスが叫ぶと同時に、彼女の右手に紫色の光が集束した。光が形を成し、実体化していく。それは、無数の棘が生えたような、見るからに不吉な紫黒の魔槍であった。

 

「見て、この溢れ出す力を! 今のわたくしなら、城壁さえも一突きで粉砕できる! 貴様が昨日殺したという暗殺者共など、比較にもならない!」

 

 グレイスから放たれるプレッシャーに、周囲の生徒たちは悲鳴を上げて逃げ惑う。だが、シフォンだけは眉一つ動かさなかった。彼女の瑠璃色の瞳は、グレイスではなく、彼女の胸元で怪しく脈打つ「魔石」の鼓動を冷ややかに見定めている。

 

「……戦線布告、ということでいいのか?」

「ええ、そうですわ! 明日の放課後、演習場に来なさい! そこで貴様を惨殺し、わたくしの愛が真実であることをアリア様に証明して差し上げますわ!」

 

 グレイスは狂ったような高笑いを残し、紫の霧を撒き散らしながら教室を去っていった。

 嵐が去った後のような静寂の中で、アリアがシフォンの服の裾をぎゅっと握りしめる。

 

「シフォンさん……行かないで。あのグレイスさんは、もう普通ではありませんわ……」

 

 シフォンはアリアの手の上に、自分の小さな手をそっと重ねた。その肌は驚くほど冷たく、けれど岩のように揺るぎない。

 

「……心配ない。あんな二流の道具に頼った連中に、私が負けることはない」

 

 シフォンは、窓の外で渦巻く不穏な雲を見つめた。

 彼女の脳裏には、先ほどグレイスが放った「力」の残滓があった。あれは確かに強力だが、代償として使い手の魂を食い潰す類のものだ。あの黒幕――ローブの男の意図が、シフォンには透けて見えていた。

 

(……私を誘い出すための、捨て駒か。……癪だな)

 

 かつてのシフォンなら、このような面倒な事態には関わらず、即座に姿を消していただろう。だが、今の彼女には、守るべき「契約」がある。

 

「アリア。……明日の決闘に勝ったら、報酬を上乗せしてほしい」

「え……? 報酬、ですか?」

 

 アリアが呆気にとられた顔で問い返す。シフォンは真面目な顔で、指を一本立てた。

 

「……昨日のお店にあった、特大のパフェ。……あれを、三つ。……いや、五つ。……どうしても、一度一人で食べ切ってみたい」

 

 そのあまりに場違いで、食いしん坊な要求に、アリアは思わず吹き出した。目元に溜まっていた涙が、笑いと共にこぼれ落ちる。

 

「……ふふっ、あははは! ええ、ええ、もちろんですわ。五つでも十でも、私が用意させます。……ですから、必ず、無事に帰ってきてくださいね」

「……約束だ。……私の槍は、アイス五つのために、世界を敵に回せる」

 

 シフォンの瞳に、伝説の『銀髪の死神』の鋭い光が宿る。

 狂気に狂った貴族の令嬢、その裏で糸を引く影。それら全てを、彼女はただ一振りの槍で――そして甘美なる報酬のために――粉砕することを誓うのであった。

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