『僕の生存率は、誰かに空売りされている』

@ikegamikov

1:生存確率68%

 二〇三五年六月、台北市松山。

 基隆河から吹き抜ける湿った風が、熱帯夜の空気を重く淀ませている。だが、大森のりと(二八)が滞在するコワーキングスペース「ノマド・ヘイヴン」の個室は、完璧な空調と防音によって外界から切り離されていた。

 大森はデスク上のトリプルモニターに映し出された無機質な数値の羅列を見つめた。

 中央のモニターには、彼が所属する「サクラス」の業務ダッシュボード。右側には自身が行っている個人運用のデイトレード画面。そして左側には、サクラス内部の「社内予測市場(インターナル・プレディクション・マーケット)」のチャートが、心電図のように青白い光を放っている。

 サクラス。

 それは従来の総合商社やコンサルティングファームが、ブロックチェーンとAIによって極限まで最適化された姿だ。オフィスを持たず、国境を持たず、雇用契約すら持たない。存在するのは厳格な「プロトコル」と、高度な審査を通過したメンバーシップのみ。

 そこに集うのは、従来の企業組織を後にしたテクノロジーや金融、ビジネスや法務のスペシャリストたちだ。Uberのようなギグ・ワークに見えるが、その実態は、個人の信用とスキルを証券化し、互いに取引し合う、巨大な「人材取引所」といってもいい。

 大森は、帝国銀行での法人営業、そしてベンチャー企業での挫折を経て、この三月にサクラスのゲートをくぐった。

 倍率五十倍の審査を突破したという自負はあった。しかし、入社から三ヶ月が経過した今、彼が感じていたのは、巨大なアルゴリズムという海に放り出されたような、底のない浮遊感だった。

 通知音が鳴る。業務の時間だ。

 大森はスマートグラスのテンプルを軽く叩き、フォーカスを業務画面に合わせた。

 現在の配属は第9事業部933プロジェクト。クライアントは新東京市荏原区。業務内容は「ソーシャル・クレジット・システム(SCS)」の教師データ生成における、ヒューマン・イン・ザ・ループ(人間による判断介入)だ。

 画面には、荏原区内のオフィスビルにあるエレベーター内の映像がストリーミングされている。

 時刻は一〇時一五分。一人の男が「開」ボタンを押し続けていた。

 AIの判断アルゴリズム「オーシャン」が、画面上に〈判定保留:利己的行動の可能性〉というタグをポップアップさせる。ログによると一分間の間、エレベーターを開いたまま待たせているようだ。

 大森はメガバンク勤務時代に上司のためにエレベータの「開」ボタンを押し続けたことを思い出す。

「……誰かのためにやっているのかもしれないが」

 大森は手元のコンソールで『減点対象:軽微』を選択し、エンターキーを叩いた。

 これは監視ではない。都市というハードウェアを最適化するためのチューニング作業だ。感情を挟む余地はない。

 『獲得:0.002 NST』 スマートグラスに表示された報酬通知が、大森の思考を現実へと引き戻す。これがサクラスの給与体系だ。 基本報酬に加え、タスク一つひとつに値がつく。ビデオ判定一件につき〇・〇〇二第9事業部トークン。まるでゲームのようだが、このトークンはリアルタイムで法定通貨や暗号資産と交換可能だ。自分の働きが、秒単位で資産に変わる。その即物的な快感が、サクラスのメンバーをワーカホリックへと駆り立てる。

 一息つき、左側のモニターへ視線を移す。

 そこに表示されているのは、大森自身の価値だ。

 銘柄コード:NO3603。

 「大森のりと・一年後期限」。

 サクラスでは、新入メンバーの一年後の在籍確率が先物として取引されている。例えば2035年3月1日入社の大森の場合、2036年3月1日深夜0時時点で大森がサクラスに所属してれば「YES」トークンの所有者に1ドルが支払われ、所属していなければ「NO」の所有者に1ドルが支払われるという仕組みだ。結果として、メンバーが成果を上げれば価格は一ドル(パリティ)に近づき、脱落の兆候が見えればゼロに向かって暴落する。

 現在値、〇・六八ドル。

 先週の始値〇・八二ドルから、二〇パーセント近い暴落。

「……誰かが売っているのか」

 大森は呟いた。それとも、NOが買われているのだろうか。例えば、何らかのインサイダー情報を持った大口(ホエール)が、じわじわ大森の「死」にベットしているのだろうか。 現在値が〇・六八ドルということは、市場(マーケット)は生存率を68%だと見ているということになる。自分が知らないだけの悪材料が、既に価格に織り込まれ始めているとしたら――大森は背筋が薄ら寒くなるのを感じた。

 ヘッドセットから、着信を知らせる電子音が響いた。

 発信元は第9事業部928プロジェクト、小山たけし。

 有栖川高校時代からの友人であり、東亜不動産という重厚長大企業の看板を背負いながら、副業としてサクラスで成功している「二刀流」だ。

「もしもし」

「もしもし、お疲れ様。予測市場を見てるか?」

 小山の声は、いつものように落ち着いていたが、微かに切迫した響きが含まれていた。

「ちょうどいま、見ていた。三分の一の確率で、来年の今頃俺はもうここにいない」

「冗談を言ってる場合じゃないぞ。俺のポートフォリオもお前のせいで毀損してる。YESに三〇〇〇ドルのポジションを持ってるんだ」

 小山は大森をサクラスに推薦した際、大森のトークンを大量に購入していた。それはサクラスのルールに従ったものだったが、大森ならサクラスの厳格なプロトコルに適応し、確実に生存できる(期待値プラス)と踏んだのだ。

「心当たりはあるのか?」小山が問うた。「業務上のミス、コンプライアンス違反、あるいは顧客とのトラブル。ショートを仕掛けられる材料だ」

「ないよ。SCSの運用はマニュアル通りだ。判断遅延(レイテンシー)も規定値以内。……ただ」

「ただ?」

「正直、この組織の『空気』がつかめない。顔も見えない、声も聞こえない。ただKPIだけがリアルタイムで変動する。俺はここで、本当に求められているのか?」

 大森の言葉に、小山は少し沈黙した後、溜息交じりに言った。

「センチメント(市場心理)が悪化してるな。……大森、今夜少し話せるか? 『シャングリラ』のいつもの場所で」

「分かった。二三時に」

 通信が切れる。

 大森は再びモニターに向き合った。

 画面の中では、まだ見ぬ誰かがエレベーターに乗り込み、どこかへ向かおうとしていた。

 人間は、なぜこうも不確実な動きをするのだろう。

 サクラスのシステムは美しい。すべてが数値化され、リスクはヘッジされ、未来は予測可能であるはずだ。

 それなのに、なぜ自分の生存確率は、自分の意思とは無関係に下がっていくのか。

 大森は淹れかけの冷めたコーヒーを一口啜った。

 その苦味だけが、台北の夜における唯一の確かな現実だった。

(続く)

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