葬儀
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葬儀
重い鉛色の雲から雨を滴らせる空は、まるで腐った果実のようだった。
石造りの荘厳な大聖堂が、百合の花の強烈な香りで満たされている。あちこちですすり泣く声が反響し、聖歌隊の少年の澄んだ高音が天井の梁へと吸い込まれる。
黒檀で設えられた豪奢な棺が祭壇の中央に鎮座していた。
火によって清められる時を粛々と待っているのは、この伯爵領の真の支配者。私の人生を三十数年に渡って強固に支配し続けてきた女帝。
――我が母上だった“もの”だ。
私は最前列に立ち、喪主として相応しいしめやかな気配を身に纏う。参列した貴族たちが私に向ける視線には同情と、これからの領地経営への不安が入り混じっている。
「お気の毒に、ヴァレット伯爵。偉大なるお母上を亡くされて……」
もう何度目かも分からない決まりきった悔やみの言葉に、私は目を伏せ、震える声で応えた。
笑いが止まらない。しかしこの場で求められているのは愛惜だ。彼女を悼む白々しい仮面こそが、正真正銘、最後の最初で最後の親孝行だった。
胸中に響く鼓動は祝福の喝采だ。全身の血液が泥に塗れる豚のように跳ね、「自由だ」と叫びながら駆け巡る。
地獄の日々が終わったのだ。私の存在を屈辱の底に沈め、私を押し殺すあの声は、二度と私の鼓膜を震わせることはない。
棺の中の母は生前と変わらず威厳に満ちていた。今にも起き出してきて私の手を操り、伯爵領の指揮を執りそうではないか。しかしあなたはもういないのだ。
「……どうか安らかに、母上」
あなたの死は至上の喜びだ。
長い消耗戦だった。戦場の泥水を啜り、敵のサーベルをかわし、領地に戻れば母という名の宿敵と対峙する。そんな日々が終わる。
今日、私こそが真にヴァレット伯爵となり、私自身の人生の王となったのだ。
夜になり、参列客を招いて領主館の大広間で会食が始まった。
死者を悼む黒い衣装に身を包んだ人々が、ワイングラスを片手に故人の思い出を穏やかに語り合っている。
彼らが語る我が母は「慈愛に満ちた淑女」であり「領民を愛した賢母」だった。
死は人の記憶を美化するというが、ここまでくると滑稽な喜劇を見ているようだ。
私は努めて消沈しきった顔を作り、彼らの相手をしながら頭では別のことを考えていた。
業突く張りの母が抱え込んでいた利権の整理に、古参の家臣どもの粛清と配置換え、新たな税制の導入。やるべきことは山ほどある。
早く希望の明日を迎えたかった。
不意に、目の前に影が差す。私よりもよほど沈痛な面持ちを浮かべて長身の男が立っていた。
ブライラス。私の幼馴染であり、戦場を共に駆け抜けた無二の親友だ。隣の領地を治める彼は誰からも愛される太陽のような男だった。
「ヴァレット、大丈夫か」
「ああ、ブライラス。すまないな、遠いところを」
彼の灰色の瞳は自分の親を亡くしたかのような悲しみに潤んでいた。人間というのはなぜこうも他者の死を嘆き悲しむのか、私には理解不能だ。
「少し外の空気を吸わないか。雨が……上がったようだ」
「そうしよう」
彼の誘いに頷き、私たちはバルコニーへと出た。ある種の熱気が立ち込めた大広間とは打って変わって、雨上がりの爽快な夜気が頬を撫でて心地よい。
眼下に広がる領都は蒼白い月明かりに照らされて、母の死などどこ吹く風で変わらぬ営みを続けている。
「……長い戦いだったな、ヴァレット」
ブライラスがぽつりと漏らした。それは、かつての戦争のことを指しているのか、それとも私の家庭内での戦争のことか。
バルコニーの手すりにもたれ、肺いっぱいに冷気を吸い込んだ。頭が冷えていく。寿ぎの鐘が鳴っているようだ。
「復興も軌道に乗った。母上が残した基盤は盤石だ。これからは、私のやり方でこの地を富ませてみせる」
まるで親想いの熱意に満ちた若者のような言葉に我ながら笑ってしまいそうになる。
私が死線をさまよっていた時、母は安全な城で地図を広げ、駒を動かすように私へ無謀な命令をくだし続けた。私の部下が何人死のうと母にとっては数字の増減でしかなかった。
そうして血と汚泥に塗れて帰ってきた私は母にとって最良の舞台演出だった。臣下や領民どもにとってあの母は、健気に伯爵家を支え、遠い土地から息子を守りさえした聖母だった。
「君は可哀想だ、ヴァレット」
「……何?」
その言葉は、予期せぬ方角から飛んできた矢のように私の胸に刺さった。
可哀想? 私がか? 私は今、人生で最高の気分だ。生まれて初めて満面の笑みを浮かべたいのを必死で抑えているというのに。
眼下の領地は広大だ。これらすべてが私の指先一つで動くのだ。
偉大なる母上殿の顔色を窺う必要も、理不尽な叱責に耐える必要もない。
私は勝利したのだ。
ブライラスは悲しげに首を振る。
「母親の死を悲しむことができないなんて、君は可哀想だ」
貴様に何が分かる、ブライラス。貴様のような、慈愛に満ちた両親に愛され、妻子に愛され、温かい家庭を築いている男に、私の何が分かるというんだ。
主の御許へ迎え入れられる。それが本当ならば、人の死は祝福であるはずだろう?
彼は微笑んでいた。私が抑え込む笑みとは違う、聖人が罪人に向けるものにも似た、許しと諦めを孕んだ笑みだった。
「悲しむほどの母ではなかった。それこそが悲劇だ。君は彼女に抗うために剣を取り、彼女を見返すために学び、彼女を乗り越えるために生きてきた。君という人間の輪郭は、彼女という鋳型によって作られたものだった」
その鋳型が壊れた今、私は何を縁に生きるのか? ブライラスはそんな陳腐な問いかけを私に投げかけたいのだった。
勝利。そうだ、私は勝った。我が人生の最も憎むべき敵はいなくなった。だが、それはつまり、もう戦う相手がいないということだ。
私の情熱、私の機知、私の戦略。母という強大な壁を破壊するために磨き上げられた武器は。
……私の人生そのものに向けられる。それだけの話だ。
貴様には分かるまい、ブライラス。お前は母の死によって私に空虚が生まれたと思っているのだろう。
私の中には、最初からそれがあったのだ。
私を悲劇の枠に嵌めて安堵し、その脇に立ってブライラスは穏やかにこちらを見つめている。
「私の父上が亡くなった時、私は泣いた。悲しかったからではない。父との対話が、永遠に未完のまま終わったことが悔しかったからだ。愛も憎しみも、すべての繋がりが断たれたことが恐ろしかった」
「そうか。お気の毒に」
「君は泣いていない。君が強いからではない。君の心の中に、喪失を埋めるだけの『何か』が育っていなかったからだ。……親の死に際して、一滴の涙も流せないほど、君の心は乾ききってしまった」
体の芯が震えるのを止められなかった。寒さのせいではない。感傷に身を浸し悦に入る愚者への嘲笑だった。
「酔っているのではないか。そろそろお帰り願うよ、親友殿」
ブライラスは長く息を吐き、私の肩を“慰める”ように叩いた。
「邪魔をした。……達者でやれ、ヴァレット。君の治世が、君自身にとって救いとなることを祈っているよ」
足音が遠ざかり、重い扉が閉まる音がした。バルコニーに心地よい静寂が戻ってくる。
私は一人残された。
目の前にはどこまでも闇夜が広がっている。
私はこの広大な領地で、誰にも邪魔されることなく、誰にも理解されることなく、ただひたすらに正しい統治を行うことができる。
私自身の裁量で。
「上等だ」
涙など出るものか。生温い感情は憎悪の刃を鈍らせる。
母の死は至上の喜びだ。そしていずれは私の死も隠された喜びによって祝われることとなるだろう。
私の身体を流れているのは、あの女と同じ、価値のない血脈なのだ。
グラスに残っていたワインを飲み干した。舌が痺れるほどに渋く、重い味だった。これこそが人生の味だ。
これほどの苦難に満ちた祝福が他にあるだろうか。
空になったグラスを闇夜に放り投げた。砕ける音は聞こえない。
ただどこまでも深い静寂が、新しい領主である私を祝福していた。
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