Project:スムータ
北極鳥ユキ
第一章/石油危機
一発の弾丸/1974
1974年の夏、エジプト・アラブ共和国
この日、うだるような暑さがカイロ大学を包んでいた。
熱気は何も砂漠のもたらす気温由来のものだけではなく、大学の広場に集まった群衆たちから発せられるものだった。
「我々には融和が必要だ! 革命の矯正が求められている!」
エジプト共和国大統領アンワル・サダトが叫ぶ。
堂々として人々を導く指導者に相応しいであろう声音に反して、実のところ彼自身はこの演説にさして熱心なものではなかった。この演説は必要に迫られて行われたものなのだ。
彼は就任以来、反イスラエル強硬路線を取り、来たるべき戦争に備えていた。
目的はただ一つ、第三次中東戦争で占領されたシナイ半島の奪還だ。
強靭なイスラエルに立ち向かうには十分な装備がいる。奴らの戦車に立ち向かえるだけのミサイルを、奴らの戦闘機に立ち向かえるだけの戦闘機を!
既にソ連からは大量の武器の輸入を受けている。しかし、まだ足りない。
イスラエルへの総攻撃は一年間延期することにした。それが最善であると彼は信じていた。 しかし、国内の強硬派から強い反発を招いてしまうことになった。
国内の有力者の多くはサダトのことを繋ぎの大統領としか思っていなかった。そんな男が既に三年も権力の座についているのだ。しかも、日和見としか思えない開戦の延期。強硬派は声高らかに大統領を非難し始めていた。
サダトは事態を収拾する必要があった。この難局を乗り越えるには国民の支持が必要だ。大学での演説は支持を受けるために行った政策の一環であった。
「若き力を結集し、シナイ半島を不法に占領するユダヤ人に立ち向かう必要がある!」
彼は目を閉じた先に浮かび上がる世界を、群衆に伝えようとしていた。
戦争は完全な奇襲攻撃によって始まる。
ツポレフ爆撃機が無防備な基地に襲来し、自慢の戦闘機を地上で木っ端みじんに破壊する。対戦車ミサイルが吸い込まれるようにM60戦車にぶつかり轟々と火を上げながら撃破する。
エジプトの勇敢な兵士たちが砂漠を超えて進んで行く。スエズ運河を超え、シナイ半島を超え、どこまでも、どこまでも……。
そんな、演説を行っている大統領を見つめる青年がいた。
彼は社会主義者を標榜する活動家であり、過激なナセル主義者でもあった。
革命の英雄ナセルの後任であるアンワル・サダトは、70年に大統領に就任すると、前政権での社会主義政策を改め、経済の自由化や、イスラム運動の解禁など、国内で融和路線を取っていた。
青年からすれば、サダト政権の国内におけるイスラム融和政策は革命への『裏切り』であり、許し難いものであった。彼はエジプトをあるべき姿に戻すことを夢想し、そのためにサダトの排除が必要だと思い込むようになっていた。
そして彼と、この世界にとって最も運が悪かった点があるとするならば、サダト政権を警戒していたイスラエルの諜報機関に所属していた一人の工作員が開戦の機運を察知し、独断でサダト暗殺を計画していたことであった。
『ナセル主義者正統革命細胞』を名乗る謎の組織からトカレフ拳銃を手に入れた青年は今まさに行動を起こすべく狙いを定めていたのだった。
もちろん、そんな組織は存在しない。モサドによる工作であった。
イスラエルへの攻撃準備は既に整っている。
ツポレフ爆撃機はソ連国内で既に訓練を終え、エジプトに向かっている。スカッド・ミサイルはテルアビブに照準を合わせている。
開戦日は来たる10月6日。
ユダヤ教における祝祭日「ヨム・キプール」の日である。
あとは命令を下すだけ。戦争が始まれば強硬派の支持を回復できる。
アラブは勝利する。
演説が終わり、サダトは熱狂する学生たちに手を振りながら演台を降りる。大統領を一目見ようと群衆が押しかけ、警備員たちを押し合いへし合いとなっている。
「ありがとう! ありが──」
大学内にパンと破裂音が響き、その直後にサダトの体が崩れ落ちた。胸元からは、じわり、じわりと朱色が広がっていき、彼の白いシャツを染めていった。
悲鳴が響き、群衆が逃げ惑う。
世界を変えたその銃声は残酷なまでに軽いものであった。
"一発の弾丸、一年の過ち。"
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