ディオゲネス・ラエルティオスに典拠する分散投資哲学拳法(3)
速水傾城と黒崎先輩は、ジャージの袖をまくり、牛糞の山に手をさしいれた。
「一、二の、三!」
だが、ひっぱりだしたのは、牛糞の中で午睡を楽しんでいた一匹のシマヘビだった。すかさずピュモリが尻尾をつかまえ、砲丸投げの要領で野菜畑の奥にはじき飛ばす。
ようやく、牛糞の山から八禍本がほじり出された。
「キュニコス派と区別がつかんね」と三上先生。
「さっきの糞山でついにわかったぞ――視覚とは温かい蒸気なのだ!」八禍本の尻にまとわりつく牛糞を、その辺に落ちていた枝でピュモリがはたき落とすと、またもや八禍本が叫んだ。「その枝は松じゃないだろうな? 松の小枝でお尻を拭いてはならんのだ」
「エジプト仕込みの神秘主義者め!」三上先生がいった。「豆畑なら飛び込まずに済んだものを」
「これはあたしにもわかりましたよ。ピュタゴラスですな」黒崎先輩がいった。「それより先生、短歌のほうはどうします?」
「やぐらを担ぎたまえ。とっくに思いついている」
『まだ誰ひとり、春原競技場に辿りついておりません――おそるべき第二関門! おっと、先頭集団にだいぶ遅れて、ここでドクターペッパー道部が第二チェック・ポイントに到着しました。やぐらを降ろします。実行委員の審査員は、謹厳をもって知られる生徒会書記、文月綴。さて、太陽系にゲリ野糞を組合せた短歌は、はたして完成したのでしょうか?』
「吟行――」実行委員たちが太鼓を叩く。「ヨーーッォウッ!」
三上先生が筆ペンをおき、短冊を提出した。
その言葉が、読み上げられる。
幻月に梨花嗅ぐごとくノアキスの紅蓮の野辺に聳える無音
「幻月とは、氷晶による光暈が見せる月の幻燈のことですね」文月綴がいった。「そのたまゆらの位相に、梨花の香りを嗅ぐように……ノアキスとは?」
「太陽系の題詠なのだ」三上先生がいった。「火星のノアキス代に決まっているさ」
「なるほど――」文月が、百科事典の頁を指でなぞった。「液体の水の存在を示唆する谷地や、数多くのクレーターが残される。生命存在すらありえたかもしれない。だが、そこには、いまや絶対の寂寥が聳えている。現代の火星の静けさから、はるかノアキス代を追想することで、〝無音〟のスケールが永い時の量感とともに立ち上がります。生命あふれる地球の、梨の花のかそけき潤いと対比されて、より鮮やかに。傑作といえるでしょう」
「エンペドクレスの如く、措辞に富んでいる!」八禍本も絶賛する。
「ですが、失格です」文月がいった。「ゲリ野糞がどこにも詠み込まれていません」
「失格なのは、審査員のほうだな」三上先生がいった。「折句をあらためたまえ!」
体育館のステージには、第二チェック・ポイントのカメラ映像が届いていた。実行委員が、ホワイトボードに転写された三上先生の短歌の行頭に、文字を付け加える。
げ:幻月に
り:梨花嗅ぐごとく
の:ノアキスの
ぐ:紅蓮の野辺に
そ:聳える無音
「たしかに詠み込まれている!」音無するめがいった。「判定は――?」
体育館で歓声が上がった。
歓呼の声は、しだいに一つの言葉に収斂する――、
『ゲリ野糞! ゲリ野糞! ゲリ野糞! ゲリ野糞!』
その声が、マイク越しに文月に届いた。
ついに書記が、数字入りの旗をあげる。
『最大点――五点がついに登場です! ここでドクターペッパー道部の五人に、タンデム自転車が支給されます。一点は匍匐前進、二点はホッピング、三点はベビーカーと櫂、四点は縄跳び、五点はタンデム自転車です。ろくな乗り物がない中、はるか春原競技場を目指して、ドクターペッパー道部が猛烈な追い上げ――茶道部を、手品クラブを、無重力神学部を抜いた! 勝負はまだわからない!』
「折句とは考えましたね」黒崎先輩が漕ぎながらいった。
「僕ではなくて、八禍本くんとすり替わった蛇が教えてくれたのだ」三上先生がいった。「自分の遺骸と蛇をすり替えさせて、神々のもとへ立ち去ったように偽装したのは?」
「恰幅のいいヘラクレイデス!」八禍本がいった。
「そのヘラクレイデスには贋作疑惑があるが、ヘラクレイデス自身も贋作に騙された。眼病のためキュレネ派に転向したディオニュシオスが、自作をソポクレスの著書だと偽ったのだ。だが、騙されたヘラクレイデスが信用しないので、ディオニュシオスはその偽書に、愛人の名前が折句として隠されていることを示してやったのだよ。まったくの美しさを意味する――」
「美しさの定義はなんだ?」八禍本がわめいた。「短期間の独裁制! 生まれつきの特権! 無言のうちに人を騙すもの! 象牙色をした害をなすもの! 護衛兵なしの王制!」
「どれが誰にあたるんです?」ピュモリがいった。
「僕もそろそろ追いつかんな」三上先生がいった。
春原競技場の入口手前を、ホッピングで跳ねまわる総合格闘部の姿があった。
その隣を横切りながら、三上先生は魑魅獄に投げキッスを送った。
『ついにドクターペッパー道部、最前線におどり出た! ホッピング移動の総合格闘部はスロープに悪戦苦闘……転倒、転倒! バリアフリーが牙をむく! 自転車をおりたドクターペッパー道部の五人が、現在、第一位で、春原競技場に踏み入ります。第二種目は――人間カーリングお料理対決!』
ピュモリが対岸のハウスを見つめる。
『春原競技場では、氷上の知的格闘技が進行中。美術部のトロンプ・ルイユ料理に対し、手品クラブの消えるミートボールは審査員に意外な好評。無重力神学部はサーロイン牛肉を電気鞭で痛めつけています。第一シートでは、ドクターペッパー道部・総合格闘部の試合が佳境にさしかかる。ドローゲーム気味の展開です。フリーガードゾーンにストーンが溜まり、難解な局面!』
遠方で、三上先生がデリバリーラインを示した。ハックに低く足を掛けたピュモリが、円盤座面のミニマル・スツール付きストーンを構える。「愛するピュトクレス」手紙魔エピクロスのつもりの八禍本が、座面に体育座りしている。「この世には、貴方の逃れるべき教養が多すぎるのです」
『ピュモリ選手、いま精密にストーンを押し出した――』
氷上を回転移動しつつ、八禍本がしゃべり続ける。「無学くらげのナウシパネス! 金めっきのプラトン! 浪費家アリストテレス! 荷物運びのプロタゴラス! 搔きまぜ屋のヘラクレイトス! たわごと上手のデモクリトス! 阿諛追従のアンティドロス!」
速水傾城と黒崎先輩が、ブラシで高速スイープ。ガードの間際をすり抜け、曲がりだす。激突した相手側のストーンの進路にもブラシをかけて、正確にハウス外へとはみ出させた。
『ダブルテイクアウト――神業の制御! 反動も大きいが……バイターメジャーが持ち出されます……入っている! ここで五点の大量得点です! 各エンドの点数カードに応じた食材を選びに、両チームが氷上キッチンに移動します。頭脳を休める暇もありません!』
「そろそろメインディッシュを出したいですね」速水傾城がいった。
「わが妹よ、このデモクリトスはテスモポリア祭のうちに死ぬつもりはないぞ」八禍本は、自分の鼻に温かいパンをあてがっている。「ほかほかパンで回復だ……」
「野菜はどう使います?」黒崎先輩がいった。
「野菜とは、いま目の前にあるものではないのだ」八禍本がいった。「なぜなら、一万年前にも野菜はあったのだからな。だから、これは野菜ではない!」
「そういう不親切な詭弁屋だったから」三上先生がいった。「クラテスの冷笑の詩が後世まで残っているんだよ、スティルポン――どこに行く?」
「きみの議論は待ってくれるが」総合格闘部の和爾が狙っていた金目鯛を、八禍本はわきから素早く奪いとった。「魚は売り切れてしまうよ」
『総合格闘部、食材を冷やしている敷き氷を引き抜いて……なにを始めるつもりでしょう?』
和爾が氷を瓦のように叩き割り、メッシュザルに入れて掲げた。
魑魅獄安斎が拳を構え、目にも止まらぬ速さでザルを殴打する。
『連撃、連撃! またたく間にフレーク状に――器に盛られた、これは、かき氷です! 練乳も添えられました。コーヒー粉末で、アフォガート風にアレンジ! 筋肉は調理器具を兼ねるといわんばかりに、食材を節約してデザートを錬成しました!』
それぞれの料理が、審査員・生徒会会計の金森算哲に提出される。
金森が、かき氷をすくって噛みしめた。
「魚臭いです」
手元のボタンを押した。電光表示にバツが追加される。
『裏目に出た! ここで、ドクターペッパー道部の勝利が決定。春原競技場を後にします。第二種目は勝ち抜け式です。敗者はもうひと勝負するか、ペナルティを選ばなければいけません』
「ペナルティ!」魑魅獄がいった。
氷上に、巨大なスロットマシンが運ばれてきた。
和爾に肩車された魑魅獄がレバーをつかみ、魑魅獄の身体に部員全員でぶら下がる。レバーが勢いよく降下した。部員たちは、正拳突きでボタンを押し込んだ。鉢植えの絵柄が連なる。
『トップを独走中のドクターペッパー道部、ここで疲労が見えてきました。立ちはだかるのは、峻厳な心臓破りの坂! 三上部長がふり返り、後方に追手の姿を捉えました。総合格闘部、アモルフォファルス・ティタヌムの巨大鉢植えを抱えながらも、軽快に坂に突撃する! 命が燃えている! 茹だる血潮が喘いでいる! 乳酸が悲鳴をあげている! われわれだって鍛えてきた! 牙を研いできた! 一生懸命に生きてきた! 戦って勝つために生まれた! 総合格闘部、ついに宿敵を追い抜いた――お尻をふって挑発している! 再び一位に返り咲き、われわれの待つ春原女子校、体育館に戻ってまいります!』
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