部室の掃除機(1)
アメリカ最古の主要な炭酸飲料、ドクターペッパーは磔にされた気のいいおじさんの誕生からひどく大雑把に数えて一八八五年ほど経った頃、テキサス州ウェイコのドラッグストアでFizzzzle! と産声をあげた。独自配合の二十三種類のフレーバーを随伴して宙にほどけた炭酸は、またたく間に太陽系第三惑星を跳ねまわり、ひと味違う刺激を希求する知的生産者たちの好奇の拠り所となり、アジフライをこよなく愛する東アジアのちょこざいな島国にも知られるようになる。精神論的な虚飾を排する実際主義と、フルーツ・フレーバーの華やぎを精緻に生活哲学化した、パースの記号論・プラグマティズムの流れを汲むドクターペッパー道は、岡倉天心が『茶の本』を著した一九〇六年に先んじて高度に理論化されつつ市民に膾炙しており、もちろん二十一世紀の人類にも親しまれていた。その一端を紹介してみよう。
「大したものは御座いませんよ、ええ――」
死んだ目をしたギャルの先輩、黒崎が暖簾をかきわける。春原女子校の新入生である八禍本透は、ドクターペッパー道部の部室に踏み入った。畳座敷に鎮座する炬燵には、クローバーリーフ襟のブレザーの上から半纏で着ぶくれた別の先輩がいる。炬燵にはドクターペッパーの缶が乗っていた。
「この方は〝先生〟の綽名で呼ばれています」
「三上でいい」
「部員は三上先生と、あたしで全員です。他にも幽霊がうろついてますがね。真面目な人からやめていきます。青写真に艶を出したい人はこんなところに来やしませんや」
八禍本は座敷を見廻した。部室の塵箱に堆積する缶には、ゼロカロリーやダイエットという小洒落た字面は見出だせない。そのわりに先輩ふたりは細身に見える。八禍本は朝食は抜いていたし、昼食もなかよしパン・ハーフサイズしか食べていなかった。
「どういう活動をなさっているんですか?」
「才能だけの厳しい世界さ」三上先生がいった。「適当に飲んで、くっちゃべって、帰るんだ。あまり炬燵も出ないな」
「塵箱まで歩く必要もありませんぜ」黒崎先輩がいった。「そこに掃除機がおりますんでね」
「本当に掃除機ですか?」八禍本は、それが詰め込まれた段ボール箱をのぞき込んだ。「一風変わった形貌ですが」
「先生、この掃除機の話をしてくださいよ」
「僕は面倒はきらいだ」と三上先生。
「では僕から説明します」掃除機がいった。「機械的な叙述でしょうが、どうかご勘弁願います。列島は五月の晴れた頃合でした。温順に街を染める潮風、信号機は高架橋底の色調を明滅させ、暗がりを抜けたスニーカーに舞う木漏れ日は八分前の太陽の姿に粒立ち、長楕円の厚い葉が鳴る福木並木のふもとを、そちらの黒崎さんが歩いて参ります。通学路沿いの海浜公園に向かう目算でした」
早旦をさざめく波浪のユーフォリア。変哲もない休日ながら、ただ天ばかりが奇観であった。青雲には黒ずんだ円い陥穽が十七キロメートルに渡り展開している。報道初期には突発性電離圏擾乱による計器ノイズだと説明されたが、夜が明けてもその《穴》は、どこ吹く恒星風とばかりにカーマン・ライン周辺空域に留まった。既知の天球とは異なる星辰が、その空隙から覗けることは確かだ。周章狼狽の伝言ゲームの果てに、ベスター&ラファティ理論が定常虚数解を与えるワームホールだと報知されたが、幾多もの光芒が織りなす十字架が黒闇闇たる輪郭を押し留めるさまは自然現象とは信じがたい。ラグナロク、ハルマゲドン、あまねく陰謀論のカタログは、断片的事実と空想を星座のように繋ぎつつ、その彼方から訪れる何かを切望している。《穴》の向こうに見える惑星の一つ――発見者の元恋人(構造地質学者と不倫していた)を由来に命名された、ウルフシュレーゲルスタインハウゼンベルガードルフに拡がる燐酸塩を散りばめた溟海には、生命の痕跡が看取できた。
公園の東屋に腰かけた黒崎が、ドクターペッパーの缶を置いたところ、アーガイル柄の靴下とデッキシューズが芝生を踏む足音が識閾を破った。リボンタイにチルデンニット、ネイビーのワイドレッグ・ショーツの少年が、やがて黒崎を見上げる。
「お姉さん、暇? ゲームをしよう」
城塞や絡繰兵士、古の呪骸書、魔術戦争を記したイラストの下に、象形文字めいた呪文が記されている。カード内の説明文は読めないが、少年が解説した抽象的なルールブックの記号の意味を理解すれば、攻防のメカニズムはさほど複雑ではない。ただ黒崎が気になったのは、会社名や著作権表示、ゲーム名を記した意匠の類がどこにもないことだった。どこが開発している、何というゲームなのだろう?
黒崎は苦戦を強いられたが、7ターン目に呪文カード同士がシナジーを発揮した。防衛網を突破して、少年のライフがゼロになる。「こんなもんじゃないぞ」少年はカード裏に敷いていたマットを裏返し、現れた格子枠に兵士たちの駒を置きはじめた。「ここから難しくなるんだ」星をまるごと覆う城塞を模したボードゲームの攻防に、先程までプレイしたカードの効果が滑らかに接続されて、可能性の領野が冪乗スケールで増大する。たしかに、今までの話はルール説明にすぎなかった。「どうにも――詰みましたなあ」二時間後、黒崎はついに音を上げた。「降参でさ。でも、こつを掴んできましたよ」
「もう一勝負やらないか?」と少年。
「望むところでさ」そのとき通知音が鳴り、黒崎はスマホ画面を見た。「いや相済みません、急用が入りました。また来週の日曜に、ここに来るのでどうです」
「いいだろう。次の勝負では何かを賭けよう」
「悪い子がおりますな」
「金じゃ味気ない。命はどうだ?」
「およしなさいよ。まだお若いんですから」
「僕ひとりの命じゃないぜ。地球人の命だ」
「するってえと、おかしなことになりませんかね?」
「何がだ? 君が人類を代表すればいいじゃないか」
「では、そちら様は誰を代表するんです?」
「クローヴィスだ」
「なんです、それ」
「ラニアケア超銀河団の賑やかなところさ」少年の言葉を理解するにつれ、黒崎からは笑いがこみ上げた。「何がおかしい? 僕はクローヴィス星人の命をすべて賭ける。君はどうなんだ、地球人?」
「へへへへ。あたしが人類代表ですか、こいつはいいや。ようがすとも。地球人の命、すべて賭けましょう。あたしが負けた暁には、どっさり持ってってください。でも、そちら様は、クローヴィス星を勝手に代表していいんですかい」
「もとより覚悟の上さ。つい先日も、別の星で勝利を収めてきたのだ」少年は黒崎の手をひいて、東屋を連れだした。その手を、大空の《穴》めがけて持ち上げる。「あそこをしっかり見ていてくれ。一度きりだから、目を離すんじゃないぞ」
「何をするおつもりで?」
少年はポケットから通信機を出した。
「アドラー、爆破しろ」
しばらく間があった。
黒崎がいった。「なにも起きませんぜ」
「あと十四秒後だ。光速はじれったいな」
十四秒後。《穴》の中で、ひときわ目立つ美しい惑星が瞬刻、爆発した。六二〇〇万年かけて熟成した文明の総体が、重力の底で暮らしてきた生命体ごと蒸発する。ウルフシュレーゲルスタインハウゼンベルガードルフは十七億年前の幼い塵屑と同じ姿になった。「あの星の連中は、二百年研究してから勝負を挑んだぞ」少年がいった。「本当に君が人類代表でいいのか? もっと強いやつを捜したらどうだ。残り一週間しかないんだからな」
「へえっ、助けを呼んでも?」
「地球人ならね」
黒崎はスマホをとりだした。「先生、いま時間ありますか。空間しかない? 馬鹿いっちゃいけません。ええ、ええ。ちいっとばかし面倒なことになりましてね」
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