第2話

   ◇


 ミドリがクレープを食べ終えるのを待ち、駐車場に戻ると、その男は既にダイヤたちの車の前で待っていた。赤ん坊から愛らしさを取り除いて代わりに脂ぎった傲慢を詰め込んだような、小柄で小太りで薄毛の中年男だ。しかしこんなのでも意外に人望はあるらしく、次期市長選で四期目の当選を確実視されている人物でもあった。

 ミドリは市長に気づくと、「やあ」と片手を上げて彼の元へ駆け寄る。「ごめんね、待った?」などという恋人じみた台詞を添えてだ。

 虚ろな目でぼうっと突っ立っていた市長は、ミドリの姿を認めた途端に顔を輝かせ、頬を染める。が、ちらりとダイヤの方へ視線を向けて、瞬時にその輝きを曇らせた。

「あの、そちらの方は?」

「ああ。彼女はただの運転手だから、大丈夫」

 一体何が大丈夫なのか、ダイヤにはさっぱり分からなかったが、市長はそれを聞くと安堵の表情で満足そうに頷き、ミドリに促されるまま後部座席に乗り込んだ。

「ほんと、何度見ても信じ難い光景ね」

 依頼を受けて標的を誘拐し、報酬を受け取る。それがダイヤたちが所属する企業、株式会社玉虫たまむし商会しょうかいの主たる事業だった。しかし、こうも従順に自ら護送車に乗り込む標的の姿を見ていると、自分たちがしているのは果たして本当に誘拐なのだろうかと疑問が湧いてくる。暴力も拘束も脅迫も、強引な手段は今までに一度も必要としたことがなかった。

「信じてくれなくてもいいけど、ゴキブリちゃんみたいにはならないでよね」

「エメラルドゴキブリバチの話? 心配しなくても、あなたに卵を産ませてあげるつもりはないわ」

 言いながらダイヤが運転席に乗り込むと、ミドリも続いて助手席に座る。彼がシートベルトを締めたのを確かめて、車を発進させた。

「まあ、結論は合ってるんだけどさ。そうじゃなくて、俺の元相棒の五木いつき武利たけとしの話だよ」

 ダイヤの前に組んでいた男だとミドリは説明する。

「彼も俺のことずっと信用してなかったみたいでね。仕事のやり方で揉めることなんてしょっちゅうだったんだけど。ある日『俺と勝負しろ』とか言ってきてさ」

「ああ」

 勝負の内容なんて聞きたくもないが、事の顛末は想像がつく。その五木とかいう男がミドリに抱かれて、廃人と化してしまったのだろう。

「俺ってばいつもそんな調子でさ。結局みんなすぐにそうなっちゃって、相棒と長続きした試しがないんだよね。今度こそは仲良くやりたいから、間違っても俺に抱かれてみようなんて思わないでほしい」

「言われなくても」

 まったく愚かな人もいるものだな、とダイヤは呆れる。確かにミドリのやり方はまどろっこしく、毎度性行為の間待たされるのも気分の良いものではないので、手っ取り早く殴って縛って連れ去ってしまいたいと思うこともなくはなかった。しかしこちらの手を汚さずに済んでいるのはこの上なくありがたいことだと理解もしているので、彼に対して文句は言っても、やり方に反対しようなどとは思わない。

 ショッピングモールの地下駐車場を抜け、流れる車の波に乗った。繁華街に立ち並ぶ店もそろそろ閉まり始める時間だが、交通量はまだ多い。

「でも、どうしてその男がゴキブリなのよ」

「ほら」と言いながら、ミドリは空中に文字を書いた。「『五木武利』って、『ほんの『』に『の『えきで」

「ああ、音読みで」ゴキブリだ。

「赤茶色のテカテカ頭がトレードマークの男でね。それがゴキブリみたいだったからそんな名前がつけられたらいしよ」

「宝石の名前じゃないのね」

「兄貴は双子の兄弟なんだよ。さっぱり見分けはつかないけど、兄の兄治けいじは宝石好きで、弟の弟智だいちは昆虫好き。ゴキちゃんの名前をつけたのは多分、弟の方だ」

「あら、見分けならつくわよ」

 副社長が双子だというのは有名な話だった。紛らわしいことに肩書きは二人とも同じ副社長で、馬鹿らしいことに兄治と弟智というのは本名らしい。

「シュッとしてる方がお兄さんで、スンとしてる方が弟さんよ」

「全然分かんないよ」

 交差点を右折すると、直後の赤信号に引っかかり、ブレーキを踏んだ。後続車の黒いクラウンがやけに距離を詰めてくるのに苛立ちそうになるが、すぐに信号が変わり、また距離を空ける。

「そうすると、あなたの名前をつけたのはどっちなのよ」

 見分けがつかないということは、どちらの可能性もあるということだ。

「そりゃあ、宝石の名前だから兄の方だよ」

「昆虫好きの弟の方かも。やっぱりあなたの名前はエメラルドゴキブリバチから取ったのよ」

「嫌だよ、そんなの」

 直線の道をしばらく進み、再び交差点でハンドルを右に切る。すると、何かに気づいたようにミドリが後ろを振り返った。

「ねえダイヤちゃん」

 後部座席に身を乗り出しながら、ミドリが言う。

「俺たち、追われてるかも」

 進行方向の信号は黄色、先頭はダイヤの車だ。ブレーキを踏み、停止する寸前まで速度を落とす。慎重にタイミングを見計らい、赤に変わる直前、思い切りアクセルを踏んだ。

「知ってる!」

 ぐん、と背中がシートに吸いつく。

 後続車のクラウンは左右から押し寄せる車の波に進路を絶たれ、信号前に取り残された。その隙を見て今度は左へハンドルを切り、高速の下を走る太い道路へ車を乗せる。

「飛ばすわよ。掴まって!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る