船の行く先

明深 昊

第1話

 低く、静かなエンジンの音。夜明け前の港に、処女航海を控えた船が霧の中に佇んでいた。


 しばらく家を空けることになる。航海前最後の妻との語らい。もちろん寄港先で手紙を欠かすことはしないが、直接言葉を交わすことは手紙の何倍も価値を持つ。


 ああ、愛しい……。





 カンカンという、物語に不要な音で演奏は中断された。指揮者である顧問の寄田先生が譜面台をドラムスティックで叩いた音。フルートが入ってくる直前のいいところだったのに。キリがいいところで止めるのだから仕方ないのだけど。


「メロディ以外で初めからもう一度。あ、最初のハーモニーだけちょうだい。一人ずつ重なってきて」


 先生の手の合図でチューバ二本、バリトンサックス、バスクラリネットの順番で初めの小節の和音が重なる。


 中学時代、私――結愛(ゆあ)がクラリネットを始めてからいつかは吹きたいと思っていた「マードックからの最後の手紙」を、この高校三年目の夏で、さらにはトップで奏でることが出来る。


 タイタニック号。この船をモチーフに描かれた芸術作品は腐るほどあるが、日本の吹奏楽に携わる者でこの曲を知らない者はいないだろう。


 ハーモニーの音程チェックが始まって、長くなると判断して道具袋からスワブを取り出す。


 管内だけではなく分解したところに溜まっている唾も丁寧に拭き取って、深めに樽を上管に差し込んだ。


「じゃあ全員で」


「はい」


 装飾音符はしっかりと。ロングトーンは抜かずに最後まで。飛躍は丁寧に……。ああ、少しチューニングがずれてるかも。


 止められて、さっきいじった樽の位置を調節する。


「ブレスの位置って決めてある?」


 先生に目線を送られて、首を横に振った。確かに、今はロングトーンのあとに全員息を吸ってぶつ切りになっているかもしれない。


「決めてないです」


「合奏のあとに楽器ごとでいいから決めておいて」


 メロディを吹いている全員が、はいと返事をする。自分がどこで息を吸っているのか確認しておかないと。


「じゃあフルートが入ってくるところから」


 コンクールまであと二十日。ちぐはぐだった私たちの演奏は少しずつ、でも確かにまとまってきている。コンクールまでの練習がこれほど楽しいと思えるのは初めてだ。


 合奏が終わって、自由練習の時間。ソロ練習、楽器ごとのパート練習や、同じ動きをする人たちで集まって分奏するところもあるだろう。


「クラ、このあとブレス位置決めるから教室ね」


 右手に楽器、左手に譜面台を持って移動を指示する。


「結愛、それ決めたら一緒にやらない?」


 後ろにいた舞衣ちゃんに声をかけられて、うなずきながら振り向く。フルートといえば小柄な女の子のイメージがあるけれど、舞衣ちゃんは長身で体格もよく、音色も力強い。部長としてみんなからも慕われていて、同い年ではあるがみんなの姉御のような存在。


「わかった。十五分後でいい?」


「うん、ホルンとかサックスにも声かけとく」


 さすが部長、段取りがいい。お礼を言って、ひとまずいつもパート練習している教室にわかれた。


「結愛先輩、サードはそこのメロディ吹かないんですがどうすればいいですか?」


「あ、そっか」


 二年生の紗季ちゃんにそう言われて、指示出しミスに気づく。サードは一人だからもし同じ動きの人と合わせるとなると、また教室移動が必要になる。さっき特に低音たちが話し合っている様子もなかったし、個人練習でいいかもしれない。


「そしたら連符とか不安なところの練習でいいよ。もし低音群から声がかかったら合わせてきていいし」


「わかりました!」


 ファーストとセカンドの四人で椅子を扇形に並べてブレス位置をすり合わせていく。やはりみんなロングトーンのあとに息を吸っていて、それなら……と他に息を吸えそうな場所を探す。


「三年がずらせばいいよね」


 クラパートの中で唯一の同級生であるしぐれにそう聞くと、こくんと頷く。ショートカットでボーイッシュな印象があるけれど、小柄なのも相まって頷く姿はかわいらしい。


「二分音符のタイミングで二回に一回吸えばいいんじゃない? ずらす前もたぶんそんな感じでしょ。私たちが最初のところ我慢すれば」


「なるほど、それで大丈夫そう?」


 後輩たちにも確認をとると、頼もしく返事をしてくれた。


「そうしたらフルートとか来る前に何度か合わせようか」


 私の言葉に、しぐれがさっき合奏前に使用して置きっぱなしになっていたメトロノームのネジをそそくさと巻いてくれた。


「ありがと。じゃあいきまーす。いち、に……」

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