『縫合の時間(とき)』 ― ある少年が、手で命をつなぐまで ―

春秋花壇

『縫合の時間(とき)』 ― ある少年が、手で命をつなぐまで ―

『縫合の時間(とき)』


― ある少年が、手で命をつなぐまで ―


血の匂いを

少年は 最初に覚えた

鉄の味

床に落ちた靴音

白衣の背中が

ひとつ 揺れなかった夜


助けられなかった

という言葉だけが

家に帰っても

靴を脱がなかった

沈黙は 父の肩に積もり

少年は 机に向かった

逃げ道のない

細い鉛筆の先で


ページをめくるたび

人の名前は

臓器になり

数字になり

やがて

重さになる


白衣を着ても

心は透明にならなかった

震える手

遅い動き

「優しさは 武器にならない」

その言葉を

何度も縫い直した


夜明け前

誰もいない病棟で

機械の呼吸と

人間の祈りが

同じ速さで並んでいた

救えなかった顔が

影のように ついてくる


それでも

手は 止まらなかった

切ることは

壊すことではない

戻れない場所を

未来につなぐ

ただそれだけの行為


名医と呼ばれても

彼は 数えない

拍手も

論文も

思い出すのは

一つの縫い目

ほどけなかった

一人の体温


若い手が震える

その隣で

彼は言う

「大丈夫だ

手は

時間で育つ」


縫合糸が

最後に引かれるとき

少年は

もう どこにもいない

ただ

命をつなぐ

手だけが

静かに

次の時間へ進む


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