第2話 無意識の悪意 [Rekindled] version

六本木の交差点、深夜二時。

 かつてなら「若さ」という免罪符で許された時間も、三十を過ぎた今の僕には、ただ胃のを重くさせるだけのよどみに感じられた。


 仕事帰りのバー。重い鉄の扉を開けた瞬間、その香りに足が止まった。

 煙草の煙と、高級な香水。そして、カウンターの隅から漂う、場違いに甘ったるい香り。


「──カルアミルク、まだ飲んでるんだね」


 その声に、心臓が跳ねた。

 数年前、僕がすべてを壊して逃げ出したあの夜の記憶が、鮮明なカラーで蘇る。

 隣には、あの頃よりも少し短くなった髪を耳にかけた優子が座っていた。


「……久しぶりだね」


 僕は隣の席に腰を下ろし、マスターに同じものを注文した。

 かつては、彼女が頼むその甘いカクテルを「子供っぽい」と笑っていたはずだった。けれど今の僕には、その甘さが喉を焼くような苦い自責の念を和らげてくれる唯一の薬のように思えた。


「……元気だった?」

「それなりに。義之の方は? 相変わらず、変な意地張って仕事してるの?」


 優子の言葉は、かつての親友だった頃の距離感で僕を刺した。

 あの日、僕は彼女を襲い、拒絶され、永遠の別れを告げたはずだった。なのに、彼女はまるですべてをゆるしたかのような、あるいはすべてを忘却の彼方に追いやったかのような、穏やかな眼差しを向けている。


 それが、僕には何よりも残酷に感じられた。


「どうして……普通に話せるんだ? 僕は君に、あんな最低なことをしたのに」


 絞り出した声は、氷の溶けかかったグラスの中で揺れた。

 優子はふっと視線を落とし、ストローで氷をいじった。


「最低だったよ。本当に。……でもね、あの後付き合った彼とも結局ダメになって、一人で色んなことを考えたの。そしたら、私をあんなに狂わせるほど求めてくれたのは、後にも先にも貴方だけだったなって」


 彼女の指先が、カウンターの上にある僕の手に触れる。

 かつての「友情」という仮面はない。そこにあるのは、互いの欠損を埋め合わせようとする、大人特有のずるさと乾きだ。


「ねえ、義之。私たちはもう、あの頃の純粋な『友達』には戻れない。……でも、別の形なら、やり直せると思わない?」


 優子の瞳に、かつての拒絶の色はない。代わりに、底の見えない暗い熱が灯っている。  それは再生などではない。一度死んだ関係の上に咲いた、毒々しい徒花あだばなだ。


 僕は彼女の手を握り返した。

 強く、あの日と同じように。けれど今度は、彼女が逃げ出すことはなかった。


「……カルアミルクの味が変わった気がする」 「それは、私たちが大人になったからだよ。……それとも、もっと苦いのがいい?」


 彼女の唇が耳元に寄る。

 今夜、僕たちは再び地獄へ向かう。けれどそれは、独りきりの破滅ではない。

 二人でちていく、甘く濁った再会だった。


 店の外では、またあの夜と同じように、遠くでサイレンが鳴り響いていた。

 それが祝福なのか、警告なのか。

 僕にはもう、どうでもいいことだった。

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