第2話 ある店の香り
事件は解決したかに見えたが、変美の鼻はまだ「納得」していなかった。
バイオリンを取り戻した数日後、変美は事務所のソファで、ノートパソコンを睨みつけるマサの背中を嗅いでいた。
「所長、近すぎます。今はリモートワークの時代ですよ。僕だって週の半分は自宅で事務作業してるんですから、パーソナルスペースを確保してください」
マサが嫌そうに体をよじると、変美はフンと鼻を鳴らした。
「リモートワーク、か。便利な言葉だが、匂いの世界に距離は関係ない。むしろ、画面越しでは伝わらない『真実』が、この街には溢れている」
その時、事務所の電話が鳴った。相手は先日の楽器店の店主だ。
「変美さん! また変なんです。戻ってきたバイオリンのケースの中に、身に覚えのない**『謎の電子基板』**が入っていたんです!」
変美とマサは再びオリオン通りへ飛んだ。
店主が差し出したのは、名刺サイズの小さな基板。超小型の送信機だ。
「マサ、これを見ろ。ただの送信機じゃない。微かに**『清涼感のあるハッカ』と、『高機能チェアの合皮』**の匂いが染み付いている」
「それ、ただの仕事部屋の匂いじゃないですか?」
「そうだ。しかも、生活臭が一切ない。つまり、『仕事のためだけに用意された場所』……サテライトオフィスか、あるいは――」
変美はオリオン通りを歩き出し、あるレンタルスペースのビルの前で止まった。そこは「リモートワーク推奨」を掲げる、最新のシェアオフィスだった。
「犯人はあの男一人じゃなかったんだ。指示役は、このクリーンな空間で、画面越しに犯行を指揮していた。現場に一度も行かず、リモートでバイオリンの現在地を追跡していたのさ」
変美はエレベーターには乗らず、階段の空気の「澱み」を追いかけた。
最上階の個室。ドアの隙間から漏れてくるのは、**「淹れたての高級コーヒー」と、「長時間稼働して熱を持ったサーバー」**の匂い。
「リモートワークの最大の欠点はね……」
変美はノックもせずにドアを開けた。
そこには、ヘッドセットをつけた男が驚愕の表情で固まっていた。
「……どれだけ姿を隠しても、その場所特有の**『空気の履歴』**までは消去できないことだ」
男のデスクの上には、バイオリンのGPSを追跡していたモニターが光っていた。犯人は、現場に行かずに「匂いのつかない犯罪」を完成させようとした知能犯だった。しかし、彼が常用していたハッカのタブレットと、密閉された個室の熱気が、変美の鼻に彼自身の居場所を教えてしまったのだ。
オリオン通りのアーケードに戻ると、街はすっかり夜の顔になっていた。
「結局、ハイテクな犯人も所長の鼻には勝てなかったってことですね」
マサが感心したように言う。
「いや、マサ。これからの時代、探偵もリモートワークを導入すべきかもしれない」
「えっ、所長がですか? 無理ですよ、画面から匂いはしませんもん」
「いいや。私はさっき、あの部屋のサーバーの熱気に混じった**『ある店』**の香りを嗅ぎ取った。今からそこへ向かう」
変美が向かったのは、リモートワーク用の電源も完備した、オリオン通りで一番人気の餃子カフェだった。
「事件の真相より、今は焼きたての匂いの誘惑に勝てそうにない」
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