三狐町パンデミック

狐日和

第1話 指先の絆創膏

 朝の空気は、少し湿っていた。

 前日の雨がまだ路地に残っていて、アスファルトが鈍く光っている。


 黒田マリは通学路の途中で足を止めた。


 電柱の影、草むらの縁。

 そこに、茶色い塊がうずくまっている。


「……キツネ?」


 声に出してから、少しだけ後悔した。

 野生動物にむやみに近づくな、という注意は、頭のどこかにあった。でも――あまりにも動かない。


 息はしている。

 けれど、呼吸は浅く、速い。


「大丈夫……?」


 鞄を肩からずらし、しゃがみ込む。

 毛並みは濡れているように見えた。雨のせいか、それとも――。


 手を伸ばした瞬間だった。


 ちくり、とした感覚。


「っ……!」


 反射的に手を引く。

 指先に、じんわりとした熱。見れば、人差し指の先に小さな赤が滲んでいた。


 キツネは歯を見せることもなく、ただ、弱々しく身じろぎしただけだった。


「……噛んだの?」


 怒りよりも、戸惑いが勝った。

 傷は浅い。ほんのかすり傷だ。


 マリは近くの水道で指を洗った。

 制服のポケットから取り出したのは、キャラクター柄の絆創膏。友達に笑われたばかりのやつだ。


 ぺたり、と貼る。


「……ごめんね」


 誰に言ったのか、自分でも分からないまま、マリは立ち上がった。

 キツネはそのまま、動かなかった。


 遅刻しそうだ。

 マリは小走りで、その場を後にした。


 授業は、いつも通りに進んだ。


 英語。数学。現代文。

 ノートを取っていると、少しだけ頭がぼんやりする。


「風邪かな……」


 喉が少し乾く。

 でも、熱っぽいほどじゃない。寝不足の延長だろう。


 昼休み、ミユと並んでパンを食べた。


「マリ、今日ちょっと元気なくない?」


「え? そう?」


「うん。なんか、顔赤い」


「気のせいだって。昨日遅くまで起きてただけ」


 ミユはそれ以上追及しなかった。

 いつも通りの、ゆるい会話。


 放課後も、いつも通りだった。


「今日もカフェ、寄ってく?」


「行く行く。あそこの新しいドリンク、気になってて」


 カフェ三狐。

 シャッターの多い商店街の中で、ぽつんと灯りのある場所。


 扉を開けると、甘い匂いがした。


「いらっしゃいませ〜」


 巫女服姿の少女が、にこやかに迎える。

 キツネの耳と、揺れる尻尾。


 もう見慣れた光景だった。


「ヤコちゃん、今日も可愛い」


「む、妾はいつも通りなのじゃ」


 ミユが笑いながら、カウンターに座る。

 マリもその隣に腰を下ろした。


 不思議と、店に入ると落ち着く。

 胸の奥のざわつきが、すっと引いていく気がした。


 ――その代わり。


 匂いが、やけに強く感じられた。


 コーヒー。

 焼き菓子。

 木のカウンター。

 そして、人。


 ヤコの方を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。


「……?」


「どうしたのじゃ、マリ?」


「いや……なんでもない」


 視線を逸らす。

 理由の分からない、落ち着かなさ。


 指先の絆創膏が、少しだけ疼いた。


 その夜、マリは早めに布団に入った。


 身体がだるい。

 頭が重い。


「やっぱ風邪かな……」


 そう思いながら、目を閉じる。


 夢は、見なかった。


 ただ、夜の底で――

 遠くから、何かを探すような感覚だけが、静かに広がっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る