法則。あるいは染み抜き。
渡貫 可那太
以下は、記録である。
〈整理〉
オカルト雑誌の編集部は、思っていたよりも明るかった。窓が多い。壁の色も白い。埃の匂いもしない。私はそこが少し気に入らなかった。
最初の仕事は資料整理だった。引き継ぎのメールには「分類が崩れているので直してほしい」とだけ書かれていた。棚には段ボール箱が並び、箱にはマジックで数字が書かれていたが、文字が小さく、わかりにくい。6、7、11、22、33。意味は説明されていない。
箱6の中身は、炭素についての記事だった。ダイヤモンド、黒鉛、フラーレン。生命の基礎元素。どれも教科書的な内容だが、切り抜きの端に、誰かの手書きで「結合」「共有」「安定」と書かれている。私はそれをメモだと思い、付箋を剥がして捨てた。
箱7は窒素。たんぱく質、アミノ酸、空気の七割。反応性が低いという説明の横に、「沈黙」「必要」「介在」とある。私は念のため、それも剥がした。
箱11にはタロットカードのコピーが入っていた。正義と力、二種類の図像が混在している。どちらが正しいかという議論の切り抜きもあったが、結論は出ていない。私は年代順に並べ直した。
箱22は空だった。
箱33には元素周期表の一部が入っていた。ヒ素。毒性と薬効、19世紀の壁紙による中毒事件。事実関係だけが淡々と書かれている。誰かが赤線を引いているが、なぜそこなのかは分からない。
昼過ぎ、私は棚を一段きれいにした。数字の順番も揃えた。意味の分からないメモはすべて外した。編集部としては、その方が後任にとって楽だろうと思った。
夕方、デスクに戻ると、編集長からメッセージが来ていた。
「触った?」
私は「整理しました」と返した。
しばらくして、編集長が来た。棚を一目見て、何も言わずに箱22を引き抜いた。空の箱だ。
「ここに、何か入ってなかった?」
「いいえ」
編集長は頷いた。「そうか」
そのまま箱を戻した。数字の順番は崩れていない。
帰り際、私はもう一度棚を見た。なぜ数字がこの並びなのか、少し気になった。6と7は分かる気がした。11と22も、何となく。33は……まあ、編集部がオカルトなのだから、意味があるのだろう。
そう思ったところで、私は自分が「意味がある」と考えていることに気づいた。だが、それ以上は掘らなかった。仕事ではない。
翌日、棚に箱が一つ増えていた。番号は、なかった。無地の段ボールだ。
中には何も入っていない。
編集長に聞くと、「置いておく」と言った。「気づいた人が、調べられるように」
私はその言い方が少し変だと思った。何を調べるのか、対象がない。
その日から、棚の前で立ち止まる人が増えた。誰も箱を開けない。ただ見ている。数字を数えているようにも見える。
私は仕事を続けた。原稿を読み、誤字を直し、ページを組んだ。棚のことは考えないようにした。
ある日、箱6の中に、またメモが入っているのを見つけた。「愛」。私はそれを見て、しばらく考えたあと、元に戻した。
剥がさなかった理由は、説明できない。
棚は、きれいなままだ。
〈照合〉
編集部に、外部の寄稿者が来た。大学で化学史を教えているという。オカルト雑誌の取材対象としては、かなりまともな経歴だった。
彼は棚を一目見て、足を止めた。
「これ、触っていいですか?」
私が助けを求めると、編集長が代わりに答えた。
「基本的には、自由です」
寄稿者は箱6を開け、頷いた。
「炭素ですね。まあ、妥当だ」
何が妥当なのかは言わなかった。
箱7を開けると、少し考え込んだ。
「窒素か。……反応性が低い」
私はその言い方に既視感を覚えたが、口には出さなかった。
箱11を見て、彼は眉をひそめた。
「二系統ある。統一してないんですね」
「版の違いです」と私は答えた。
「でしょうね。でも、どちらを採るかで意味が変わる」
『意味』という言葉が出たので、私は少し警戒した。
彼は箱22を手に取った。中を見て、何も言わずに戻した。
「空ですね」
「はい」
「それも、意図的?」
私は編集長を見た。編集長は肩をすくめた。
「どうでしょう」
寄稿者は無番号の箱を開けた。空だ。しばらく沈黙があった。
「周期表って、便利でしょう」突然、彼が言った。「番号を与えると、性質が並ぶ。人は、そこに必然を見る」
私はメモを取ろうとして、やめた。記事用ではない。
「でも、実際は並び方がいくつもある。原子量でも、電子配置でも」
彼は棚から少し離れた。
「この棚は、どの基準で並んでいます?」
「数字順です」
彼は笑った。「それが一番、強い」
何が強いのかは言わなかった。
帰り際、彼は箱33をもう一度見た。
「ヒ素はね、境界の元素です。毒にもなるし、薬にもなる」
「知っています」
「知っている、という言い方が正しいかどうかは別ですが——」
その日、寄稿者の記事は採用された。内容は、19世紀の塗料と中毒事件についての、ごく普通のものだった。
棚についての言及は、一切なかった。
翌日、箱7の中に、紙が一枚増えていた。
『力』
私は、それを見て、しまったと思った。
理由は分からない。
〈誤差〉
棚の前で、編集部の新人が立ち止まっていた。入って三日目で、まだ名刺も刷っていない。
「これ、数が合わない気がするんですけど」
彼女は箱を指さした。6、7、11、22、33。無番号。
「何が?」
「箱の数です。番号が六つあるのに、中身は……」
彼女は言葉を切った。私は棚を見た。特に変わったところはない。
「空箱が二つあります」
「22と、無番号ですね」
「はい。でも——」彼女は言いよどんだ。「33も、ほとんど空じゃないですか」
私は首を傾げた。33の箱には資料がある。ヒ素についての記事。切り抜きも、赤線も。
「情報量の話なら、そうかもしれません」
「違います」彼女は箱33を開け、また閉じた。「これ、分類として成立してます?」
その問いは曖昧だったので、私は業務的に答えた。
「成立していなければ、直しますか?」
「いえ」
彼女は首を振った。
「直すと、別のところが変になります」
何が変になるのか聞こうとして、やめた。彼女はもうデスクに戻っていた。
その日の午後、私は棚を確認した。何も変わっていない。
ただ、箱7の中の「力」という紙が、上下逆さまになっていた。誰かが触ったのだろう。意味はない。
念のため、他の箱も見た。
箱6には、炭素と、「愛」のメモ。
箱11には、タロットカードのコピー。「正義」と「力」。
箱22は、空。
箱33には、ヒ素。
何もない、無番号の箱もある。
私はそこで、数字の並びをもう一度数えた。
6、7、11、22、33。
編集部の棚としては、奇数が多すぎる。
そう思った理由は、自分でもよく分からない。
私は周期表を検索した。
33はヒ素。
7は窒素。
6は炭素。
22は、チタン。
軽くて、強い。
だが、箱22は空だ。
私は、その事実を頭の中で処理しようとして、やめた。
仕事ではない。
その夜、校正刷りを見ていて、ふと違和感を覚えた。
寄稿者の記事に出てくる年号が、一箇所だけ違っている。
1873年が、1874年になっている。どちらでも、大勢に影響はない。
私は赤を入れなかった。理由は説明できない。
棚は、相変わらず、きれいだ。
〈即決〉
午後の会議は長引く予定だった。特集の方向性が決まらない。オカルト寄りに振るか、歴史資料としてまとめるか。どちらも中途半端だった。
「両方いけないですかね」
誰かが言う。誰も頷かない。
私は議事録を見ていた。論点は出尽くしている。追加情報もない。これ以上話しても、材料は増えない。
「切りましょう」
自分の声が、思ったよりはっきりしていた。全員がこちらを見る。
「今回は、実害のある話だけに絞ります。被害が確認できて、再現性があるもの。曖昧な解釈が入る余地は削る」
「オカルト誌で、それやる?」
編集長が聞いた。
「やります。境界線を引いた方が、読者が迷わない」
沈黙があった。だが反論は出なかった。
「じゃあ、それで」
編集長が言った。
会議は、そこで終わった。予定より三十分早い。
デスクに戻ってから、私は少し違和感を覚えた。いつもなら、誰かが説明を求める。なぜその方針なのか、他の可能性はどうするのか。今日は、それがなかった。
原稿の構成も早く決まった。寄稿者への修正依頼も、一通で済んだ。判断に迷う場面が、ほとんどない。
夕方、編集長が言った。
「今日、やけに早かったな」
「材料が揃っていましたから」
「そうか」
それ以上は聞かれなかった。
帰り際、私は棚を見た。
数字は相変わらず、同じ並びだ。
6、7、11、22、33。
無意識に、私は箱22の前で足を止めた。
中は空だ。
今日は、そのまま通り過ぎた。
空でも、支障はなかった。
〈自覚〉
その週は、仕事が順調だった。
判断が滞らない。説明が要らない。結果だけが積み上がる。
私は、それを「慣れ」だと思うことにしていた。
金曜の夕方、編集長が言った。
「最近、考えるの早くないか」
「そうですか」
「いや、悪い意味じゃない。むしろ助かってる」
私は頷いた。
そのとき、ふと、棚の数字が頭をよぎった。
6、7、11、22、33。
順番に意味を当てはめようとしている自分に気づき、すぐにやめた。
意味はない。整理しただけだ。
だが、その夜、帰宅してからも数字が離れなかった。
なぜ22は空なのか。
なぜ33だけ具体的なのか。
なぜ、判断が速くなったのか。
ノートを開き、無意識に円を書いた。
数字を書き込もうとして、手が止まった。
「使ってる」
声に出して、言ってしまった。
その瞬間、何かが外れた。
翌日、編集部で会議があった。いつものように、論点は整理されている。
判断すればいいだけだった。だが、決まらない。境界線を引こうとすると、理由が必要になる。説明しようとすると、言葉が増える。増えた言葉が、判断を曇らせる。
「どうします?」
誰かが聞く。
私は答えられなかった。頭の中で、数字が並ぶ。だが、どこにも定まらない。
会議は、予定通り長引いた。終了後、編集長が言った。
「前みたいだな」
私は何も言えなかった。
棚の前に立った。
箱22を開ける。空だ。
以前なら、問題なかった。
今は、気になる。
私は初めて、箱の並びを変えようとした。
33を動かし、22を入れ替え、無番号の箱を外した。
すると、何も分からなくなった。
数字は、ただの数字になった。
その日から、仕事は普通に戻った。早くも遅くもない。
説明は必要で、判断は迷う。
困ることはなかった。
ただ、あの一週間だけが、異様に効率的だった。私は、それを思い出すたびに、少しだけ落ち着かない。
棚は、今もそこにある。
きれいで、意味がない。
〈配置〉
月が替わり、新しいバイトが入った。資料整理を任せることになった。
「この棚、何ですか?」
彼は最初に、そこを指した。
「昔の資料です」
「番号、意味あるんですか」
「さあ」
私はそう答えた。嘘ではない。
彼は箱6を開け、少し笑った。
「炭素か。分かりやすいですね」
私は何も言わなかった。
数日後、そのバイトは仕事が早かった。
原稿の振り分けが的確で、相談が少ない。
判断が、妙にぶれない。
編集長が言った。
「当たり引いたな」
「そうですね」
私は棚を見た。並びは変えていない。
6、7、11、22、33。無番号。
箱22は、相変わらず空だ。
ある日、彼が言った。
「ここ、何も入ってないですよね」
「ええ」
「でも、なくても困らないですね」
私は、その言葉に返事をしなかった。
夜、編集部を出るとき、棚の前で立ち止まった。
意味を考えようとはしなかった。
ただ、そこにある配置を見た。
世界は、相変わらず複雑で、判断は面倒で、説明は必要だ。
それでも、たまに、理由のない即決が役に立つ。
それがどこから来るのかは、分からない。
分からないままで、いい。
棚は、きれいだ。
今日も、誰かが数字を数えている。
法則。あるいは染み抜き。 渡貫 可那太 @kanata_w
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