第28話 『静かな整理』
第28話 静かな整理
労務局へのあっせんが申し立てられてから、
現場の空気は、目に見えない形で変わり続けていた。
大きな衝突は起きない。
怒鳴り声もない。
だが、人と人の距離が、少しずつ変わる。
それが、この職場の変化だった。
大澤は、以前よりも声が大きくなっていた。
新人への指示。
作業の確認。
「そこ、ちゃんとやってください」
だが、その声に応じる人は、少しずつ減っていた。
新人教育は、うまくいっていない。
教えられた人間が、育たない。
「また辞めたの?」
誰かが、休憩室で呟く。
その言葉に、大澤は苛立つ。
「私の方が先輩なのに……」
その不満が、別の従業員の口から漏れた。
現場では、
大澤と距離を取る人が、少しずつ増えていた。
そして、その変化を、
田坂あさ子は静かに見ていた。
田坂は、何も言わない。
ただ、動き方を変えていた。
最初に変化が現れたのは、野平だった。
野平は、もともと大人しい人物だった。
仕事は丁寧で、
現場でも大きなトラブルはない。
ただ一つ、事情があった。
家庭の都合で、
時々、早退をする。
それは、会社も理解していた。
「野平さんができる時間まででいいから」
そんな言葉が、これまで何度もかけられていた。
忙しい日は、
誰かがフォローする。
その中心にいたのが、田坂だった。
「間に合わない時は、私が助けるから」
そう言っていた。
野平の家庭事情も、
田坂はよく知っていた。
だからこそ、
野平は田坂を信頼していた。
だが、その関係が、
少しずつ変わり始める。
ある日から、田坂が忙しくなる。
本当に忙しいのか、
それとも忙しいふりなのか。
外からは分からない。
だが、野平と話す時間は減った。
仕事の割り振りも、
少しずつ変わる。
部屋数の配慮が、なくなっていく。
以前なら、
「今日は少なめにしようか」
そう言われていた。
それが、なくなる。
野平は、
それでも黙って仕事をした。
だが、体力には限界がある。
ある日、野平は田坂に言った。
「ちょっと、きついかもしれません」
田坂は、一度頷いた。
だが、その後、現場で別の話が出る。
「野平さんだけ、部屋数少ないよね」
誰かが、そう言ったという。
田坂は、それを伝える。
「現場で、そう言う人がいるの」
責める口調ではない。
ただ、困ったような表情で言う。
野平は黙った。
その後、田坂は間水所長に話をする。
「野平さん、少しわがままなのではないかって……」
言葉は柔らかい。
だが、その後に続く。
「皆、そう言っています」
“皆”。
その言葉は、便利だった。
誰が言ったのかは、分からない。
だが、
空気として残る。
その数日後。
田坂は、野平に言った。
「会社に直接相談してみたら?」
少し声を落として続ける。
「間水所長では、解決しないと思う」
そして、最後に言う。
「私も協力するから」
その言葉は、
以前と同じように聞こえる。
だが、意味は違う。
そこから、
田坂はさらに距離を取る。
仕事の相談に乗らない。
話しかけても、
「今、忙しいから」
それだけになる。
野平は、戸惑っていた。
何が変わったのか分からない。
だが、
確かに変わっている。
そして、ある日。
野平は、大澤に言った。
「田坂さんに、裏切られた気がする」
その言葉は、小さかった。
怒りではない。
ただ、疲れた声だった。
その数日後、野平は退職した。
大きな騒ぎはない。
送別会もない。
ただ、一人の従業員がいなくなる。
現場では、それが珍しいことではない。
だが、浜崎秋夫には見えていた。
この出来事が、偶然ではないことが。
田坂あさ子は、
何も言わない。
野平の話題も出さない。
ただ、
いつも通りに働く。
その姿は、変わらない。
だが、現場の構造は変わっていた。
浜崎の件で、
一度は同じ方向を向いていた人間が、
静かに整理されていく。
それが、この章で起きていたことだった。
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