【第二十二章:微光と赤い海】


 荷台の中は、巨大な鉄の棺桶のように薄暗かった。


 余計な光源は全てカットされている。地図やデータを表示していたホログラムも消え、ただ飛蛾の周囲を漂う数粒の「星屑」だけが、頼りない紫色の蛍光を放っている。


 飛んで火に入る夏の虫、と言うが。

 ここでは、この蛾(モス)そのものが火だった。

 その光は儚く、いつ消えてもおかしくないほど揺らめいているが、振動する車内の闇の中で、なぜか奇妙な安心感を与えていた。


 みんな、限界だった。

 蜂鳥はライフルを抱いて座席にもたれ、蟷螂は一番清潔そうな隅で目を閉じ、過活動気味だった蚊でさえ首を傾げて微かな寝息を立てている。全員が座ったまま、いつでも動ける姿勢を保ちつつも、意識を泥のような眠りへと沈めていた。


 俺を除いて。

 俺には欠片ほどの眠気も訪れなかった。


 この感覚は、地底で落盤事故が起きる直前の空気に似ている。耳鳴りがするような圧迫感。俺たちが破滅の座標へ向かって進んでいるという予感――「もう何もかも終わりだ」という圧倒的な終末感が、冷たい手となって俺の神経を鷲掴みにしているのだ。


「……」


 闇の中で視線が交差した。

 見張りをしていた飛蛾が、いつの間にか俺をじっと見ていた。


 いつもは夢現(ゆめうつつ)で、データの海を漂っているような彼女だが、今は妙にハッキリとした目をしている。紫の微光を映すその瞳から酩酊感は消え、代わりに死寂と不安による緊張が張り詰めていた。

 この死んだような車内で、彼女だけが唯一、起きている「同類」だった。


「……怖い?」


 紫のスクリーンに照らされながら、彼女は膝を抱えて聞いた。塵一つ驚かせないような、静かな声で。


「……私たちも、こんな状況初めてだから……」


 彼女は腕の中に顔を埋め、目だけを覗かせて言った。


「……正直……すごく、怖い」


 俺は彼女を見た。一瞬で数十台のマシンをハッキングして瘫痪(たんかん)させる電子の魔女が、今はただの暗闇を怖がる少女に見える。


「俺も同じだ」


 俺は苦笑し、声を潜めて答えた。


「地底にいた時だって、こんな大掛かりなのは見たことがない。あそこでの脅威といえば、せいぜい暴走した警備ドローンか、たまに崩れるトンネルくらいだった。メンテナンス孔に逃げ込めば助かったんだ」


「地底」という言葉に、飛蛾がふっと笑った。

 短く、でも純粋な好奇心を含んだ笑いだった。


「……面白いね……」


 彼女は首を傾げ、周囲の光の粒子もそれに合わせて揺れた。


「……地上の人は、誰も地底を見たことがないの……探索しようなんて誰も思わない……みんな生き残るのに必死で、鉄屑に追いかけ回されて……下に何があるかなんて、考えもしなかった……」


 会話が途切れた。

 再び窒息しそうな沈黙が車内を満たす。


 俺は後部にある汚れた小窓へと顔を向けた。

 外はまだ、しとしとと雨が降り続いている。


 トラックはこの中途半端な草むらの中に停まっている。月光が腰の高さまである枯れ草を照らし出し、遠くには廃墟もネオンもなく、ただ風に揺れる草の波だけが見える。


 この荒野は、不気味なほど平和に見えた。

 まるで家族でキャンプに来たかのような静けさだ。

 殺戮も、擬人機もない、ただの静謐な夜。

 その錯覚が、俺の張り詰めた神経を、一秒だけ弛緩させた。


「あのさ……」


 俺は振り返り、会話を続けようとした。


 だが。

 俺の声は喉で凍りついた。


 車体の壁が、音もなく消失した。

 爆破されたのではない。切断されたのでもない。

 まるで現実の一部が切り取られたかのように、トラックの側面に直径二メートルの大穴が、無音で「開いた」のだ。


 そしてその穴から。

 冷たい機械の巨大な手が、ぬっと伸びてきた。


「んぐっ――!!」


 飛蛾の瞳孔が針の穴のように収縮した。

 警告を発する暇も、星屑を展開する猶予もなかった。


 センサーだらけの無骨な機械の手が、彼女の口を乱暴に塞ぎ、そのまま車壁へと叩きつけた。圧倒的な握力に封じられ、彼女は声も出せず、ただ絶望的な嗚咽を漏らすことしかできない。


 俺は見た。

 その空いた大穴の向こうを。

 外の草むらを。


 そこには平和などなかった。


 びっしりと。

 数百、数千もの赤い光点が、草の波間で一斉に点灯したのだ。


 それは「目」だった。


 球型、多脚型、人型――ありとあらゆる形状の機械たちが、赤い海となってこの車を完全に包囲していたのだ。奴らは俺たちをずっと追跡していた。音を消し、熱を遮断し、獲物が気を抜くこの一瞬を待ち続けていたのだ。


 そして飛蛾の頭上。

 折りたたみ式の単分子ブレードが、音もなく振り上げられていた。

 刃先が処刑の寒光を放ち、この小隊唯一の「目」である彼女の首を狙っている。


 終わりだ。

 悲鳴を上げる時間さえない。


 刃が振り下ろされた、その刹那――。


「……ッ!!」


 ずっと俺の肩で眠っていたネフヤが、カッと目を見開き、片手を突き出した。掌の前に、精巧で小さな暗紅色の魔法陣が展開される。


 その異色瞳オッドアイには驚愕と恐怖が爆発していた。殺気に当てられた生存本能サバイバル・インスティンクトの暴走だ。


 彼女は思考していない。何が起きているかさえ認識していない。

 ただ本能のままに、ようやく回復しかけたなけなしの魔力を全放出したのだ。


 ドォン!


 世界がねじれた。

 内臓をミキサーにかけられたような強烈な吐き気が襲う。

 車内も、ロボットも、赤い光の海も、一瞬にして砕けた鏡のように崩落した。


 ドサッ!


 俺は激しく地面に叩きつけられた。

 背中に感じるのは鉄板ではなく、硬く冷たいコンクリートの感触。鼻をつく化学臭は消え、代わりに馴染みのあるカビと湿気の臭いがした。


「げほっ……ごほっ……」


 俺は無様に這い起き、周囲を見回した。


 ここ……。

 ここは以前、俺たちが隠れていた、偽装都市の端にある廃棄された地下搬入口だ。

 ネフヤがパニック状態で発動した集団転移マス・テレポートが、俺たち全員をこの一時的な安全地帯スタート地点まで強引に引き戻したのだ。


「うぅ……ぐすっ……」


 押し殺した泣き声が隅から聞こえた。

 俺は振り返った。


 飛蛾が腰を抜かし、骨を抜かれたようにへたり込んでいた。

 あの美しい月光のポンチョは端が引き裂かれ、白い頬には擦り傷が走り、口元には青紫色の痣ができている――さっきの機械の手による暴力の痕跡だ。


 彼女は震える手で星屑を呼び出そうとするが、指が言うことを聞かない。


「油断した……」


 大粒の涙がその瞳から溢れ出し、ボロボロとこぼれ落ちる。


「あんなに長く……お喋りしちゃ、ダメだったのに……」

​彼女は俺を見上げた。その顔は単なる恐怖ではない。「ただ話したかっただけなのに」という、子供のような無念さと悔しさで、今にも張り裂けそうだった。


​「……画面から……目を離したかっただけなの……」

「ただ……誰かと話したかっただけなのに……」



 たった数分の「人間らしさ」を求めた代償が、あわや全滅だった。

 これが、この廃土の掟だ。


「んぁ……?」


 その重苦しい空気の中。

 極めて場違いな欠伸が響いた。


「ふぁ~~~~」


 蚊が眠そうに目をこすりながら起き上がった。大きく伸びをし、背骨をポキポキと鳴らしながら、完全に状況を把握していない声で不満を漏らす。


「なんか寝心地悪かったんですけどぉ……なになに? 床固くない?」


 彼女はボサボサのピンク髪をかきむしる。


「やっぱあのトラック最悪だわ……いつもならぐっすり眠れるのにさぁ……てか蜂鳥姉、あたしたちどんくらい寝てた?」


 誰も答えない。

 蜂鳥と蟷螂も、今ようやく転移の眩暈から立ち直り、驚愕の表情で周囲を見回しているところだった。武器を構えることさえ忘れている。


 場は死のような沈黙に包まれた。

 蚊だけが、みんなの青ざめた顔と、隅で泣いている飛蛾を呆然と見比べている。


「……え?」


 ネフヤは俺の隣に座り込み、まだ夢の中にいるような目をしていた。

 彼女は自分が何をしたのか分かっていない。ただ何かとてつもないことをして、みんなをここに「変身」させたことだけは感じ取っているようだ。


 彼女は小さく首を縮め、不穏な空気を感じ取って、賢明にも沈黙を選んだ。借りてきた猫のように大人しくしている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る