煩悩の鬼王 109回目の鐘が鳴る時

キロ

第1話

 冬の空気って、音まで冷える。


 吐く息が白いのはもちろん、足音も、衣擦れも、笑い声も――ぜんぶ、薄い氷の膜を一枚かぶったみたいに、硬くて、透きとおって聞こえる。


 そして私には、それが色として見える。


 人の声は、だいたいその人の体温に似た色をしている。高い声は明るい黄、低い声は深い紺。怒鳴り声は鋭い赤。嘘は、妙に濁った緑が混ざる。

 ……別に、嘘が嫌いで見抜いてるわけじゃない。見えてしまうだけだ。


 子どもの頃、母に言った。


「ママ、今の先生の声、灰色だった」


 母は笑って「そうなんだね」と言った。その言葉は少し緑色に濁っていた。

 

 それっきり、誰にも言わなくなった。説明したって、伝わらないから。


 でも今日は――言わなくても苦しくないくらい、世界が眩しかった。


 除夜の鐘。


 境内の奥にぶら下がる大きな鐘楼から、低く、丸く、腹の底まで揺らす音が響くたびに、夜空へ色が滲んでいく。


 一打目は、渋い金。

 二打目は、深い群青。

 三打目は、翡翠のような緑。


 音が色になるのはいつものこと。だけど、鐘の音は特別だった。

 太くて、ゆっくりで、世界全体を揺らすから、色も大きい。境内の上に薄い絵の具を流したみたいに、空が塗り替わっていく。


 私は列の端で、手をポケットに突っ込んだまま、ぼんやり空を見上げていた。

 

 カウントはしていない。108回。そんなの、誰だって知ってる。だけど、知ってるのと、体で感じるのは別だ。


 90回を超えたあたりから、空の色が変になった。


 透明度が落ちる。

 いや、落ちるというより――増える。


 重い色が、層になって積み重なっていく。黒に近い藍。紫がかった灰。どろりとした焦げ茶。

 

 人混みのざわめきの色も、さっきより濁っていた。妙に甘ったるい桃色が混ざり、次の瞬間には刺すような朱が走る。


 ……なんだろう。今日の空気いつもと違う気がする。


 寒いからじゃない。

 人が多いからでもない。


 胸の奥が、理由もなくざらつく。

 私は無意識に、境内の外――街の方を見た。


 遠くのビル群の上に、黒い筋が走っていた。

 雷雲みたいでも、煙みたいでもない。音の色のように、空に滲むのに、なぜか質感がある。触ったら手が汚れそうな、ねっとりした黒。


 ちょうどそのとき、鐘が鳴った。


 98回目。


 色は、金でも藍でもなかった。

 無色に近い白。

 白いのに、冷たくない。むしろ、熱い。


 白の中心で、何かがひび割れるような感覚がした。


 耳ではない。目でもない。

 世界そのものが、ぱき、と。


 私は思わず一歩後ずさった。後ろの人と肩がぶつかり、「すみません」と反射で言う。相手の声は薄い水色。普通だ。普通なのに、私だけが異常を感じている。


 気のせい。きっと気のせい。


 そう自分に聞かせようとした瞬間――108回目が鳴った。


 色が、止まった。


 空が塗り替わるはずなのに、色が空に張り付いたまま動かない。まるで絵具が凍りついたみたいに、さっきまでの色が層として固まる。

 

 その奥で、黒い筋が、ゆっくりと太くなっていく。


 周囲は拍手と笑い声に包まれていた。

 誰も気づかない。

 誰も見ていない。


 そして――鳴るはずのない音が鳴った。そう、109回目。


 鐘楼の中で、撞木がもう一度振り上げられたようには見えない。僧侶の動きも、止まっている。

 なのに、音だけが響いた。


 低い。

 鈍い。

 胸の奥を、直接叩くみたいに。


 その音の色は――黒と金が混ざった、気味の悪い濁りきった色をした音。


 その濁りが、空を裂いた。


 ぱぁん、と。

 紙を破くような軽い音が、巨大な低音と同時に鳴った気がした。視界の端で、夜空に一本、縦の裂け目が走る。


 裂け目の向こうは、真っ暗じゃなかった。


 暗いのに、ぎらぎらしている。

 泥の中に油を流したみたいな光。

 見ているだけで吐き気がする色。


 裂け目から、何かが落ちてきた。


 人の形に近い。

 でも、関節の角度が違う。

 腕が長い。脚が短い。背中が、妙に膨らんでいる。


 それは地面に落ちた瞬間、境内の石畳がじゅっと音を立てた。濡れてもいないのに、焦げた匂いが立つ。


 群衆が遅れてざわつく。


「え……なに?」

「煙? 演出?」

「誰か倒れた?」


 悲鳴が上がるより早く、影が笑った。


 笑い声の色は、濃い紫。

 紫の奥に、黄土色の粘り。


「――ああ。やっと。やっとだ」


 口が動いた。

 言葉になっているのに、耳じゃなく脳に直接入ってくるみたいで、ぞわっと鳥肌が立つ。


 影の顔には、角があった。

 額から左右に、ねじれた黒い角。

 目は、金色。笑っているのに、感情がない。


 そのとき、境内の空気が変わった。


 冷気が、刃物になる。

 人のざわめきが、ぱっと色を失う。


 誰かが、走り込んできた。


 巫女装束に似た白と紺の服。だけど、袴の裾に刺繍されているのは、神社の紋じゃない。小さな鈴の図案――輪になった鈴。


 その女は、息を切らしながらも、声はぶれなかった。


「――下がって! 全員、鐘楼から離れて!」


 指示が通った。

 不思議なくらい、通った。

 人々はパニックになることなく、身体が先に動く。


 女は影を睨み、左手を上げる。

 握っているのは、小さな鈴。

 でも普通の鈴じゃない。鈴の表面に、細い文字が刻まれている。


 女が鈴を振った。


 ちりん。


 澄んだ音。

 その音の色は、透明な白。

 さっきの百九回目の濁りを、薄く削るみたいに、空気が清くなる。


 影が、楽しそうに目を細める。


「浄鈴か。まだ、残っていたか」


「残ってるよ。……あんたを止めるために」


 女は短く息を吸い、言葉を続けた。


「煩悩鬼王――百九。ここで生まれたのが運の尽き。あなたの初鳴きを聞いた人間は、もう戻れない。そんな迷信わたしが覆してやる」


 煩悩鬼王。百九。


 言葉が、喉の奥に引っかかった。


 私の視界の中で、百九の周りにまとわりつく色が濃くなる。黒金の濁りが、蛇みたいにうねって境内を這い始めた。

 濁りが触れた人が、ぐらりと揺れる。


 目が、虚ろになる。


「……うそ」

 誰かが、ぽつりと呟いた。

「……もう、やだ」

 別の誰かが、膝をついた。


 彼らの頭上に、黒い花みたいなものが咲きかけている。

 私には見える。濁りが、人の中に入り、何かを膨らませている。


 女が歯噛みした。


「――堕ちるのが早すぎる……! まだ、ただの接触のはずなのに」


 百九が肩を揺らして笑った。


「増えすぎたのだ。貴様らが一年で刈り取れなかった余りが、積もり積もって――私を起こした」


 言葉と同時に、黒金の濁りが弾けた。


 ぱっと、空に散る。

 火花みたいに見えるのに、色が汚い。

 それが百八本――いや、もっと。何百もの筋になって、夜空へ飛び散った。


 私は息をのんだ。


 飛び散った筋は、街の上空でそれぞれ方向を変え、流れ星のように四方へ散っていく。

 そして、筋が通った場所の空が、わずかに黒く染まった。


「……あれ、全部……あいつの仲間?」


 思わず声が漏れた。


 女がこちらを振り向いた。

 視線が私に刺さる。

 驚き――いや、確信に近い光が、その目に宿った。


「あなた、見えてるの?」


 心臓が跳ねた。

 誤魔化す暇もなかった。だって私は、見えてしまっている。


「……見えてるって? 逆に見えない人がいるんですか?」


 一瞬の静寂。


 女は舌打ちし、私の腕を掴んだ。


「来て。今すぐ。ここにいたら、あなたも堕ちる」


「え、ちょ、待って――」


 抵抗する間もなく、女は私を引っ張って走り出した。

 境内を抜ける。人混みの隙間を縫う。

 背後で、鐘楼が軋む音がした。色は黒金。嫌な予感しかしない。


 走りながら、女が短く言った。


「私は白鷺玲奈。浄鐘衆の実働。……説明は後。今は生きることだけ考えて」


「浄鐘衆……?」


「煩悩を祓う組織。信じなくていい。でも見たものは全部本物」


 信じるも何も、私は常に信じて貰えなかった側だ。だからこそ目の前のことが現実だって理解してしまう。

 

 むしろ、これを夢だと疑える人間になりたかった。


 境内の外へ出た瞬間、背後で音が爆ぜた。


 どん。


 108回の鐘とは別の、腹を殴るような低音。

 その色は、真っ黒。

 私は反射で振り向き――見た。


 鐘楼の影から、巨大な手が伸びていた。

 人の手じゃない。指が六本ある。爪が長い。

 それが境内の地面を掴み、百九の身体が、ゆっくりと立ち上がる。


 百九は、空を見上げた。

 飛び散った筋を眺めるように。

 そして、嬉しそうに言った。


「さあ。百八の子らよ。人の心へ行け。増やせ。満たせ。溺れさせろ。――一年で刈り取れぬほどに」


 玲奈が私を引っ張る力を強めた。


「見ちゃダメ! 目を合わせたら引きずり込まれる!」


「でも……!」


 でも、もう遅い。

 私は見てしまった。


 百九の声の色は、黒金の濁りだけじゃない。

 その奥に――透けるような、寂しい青があった。


 ほんの一瞬。

 錯覚かもしれない。


 だけどその青が、なぜか私の胸をざらつかせた。


 走って、走って、息が切れて、足がもつれる。

 玲奈は路地裏へ私を引き込んだ。そこに、黒いワゴン車が停まっている。


 ドアが開いて、もう一人、女が出てきた。

 玲奈より背が高い。髪は短く、目つきが鋭い。

 手には、鈴の束と――古びた札が握られている。


「遅い」


「状況が最悪。百九が初鳴きして、子を撒いた。……しかもこの子、見える」


 短髪の女が私を見る。

 視線が、医者のそれに似ていた。冷たいんじゃない。必要な情報を一瞬で拾うための目。


「……彩聴か」


「さいちょう?」


 玲奈が息を整えながら説明した。


「音が色で見える。珍しい体質。浄鐘衆の中でも、100年に一人いるかどうか」


「100年に一人……?」


 短髪の女が口を開く。


「私は黒羽澄香。現場指揮。……あなたの名前は?」


 私は、喉が乾いたまま答えた。


「……柊朱音。ひいらぎ、あかね」


「柊朱音。いいか、生き残りたいなら、見たものを全部言え。百九が撒いた筋――どこへ向かった。何色だった」


 私は空を思い出す。

 黒金の筋。数え切れない。

 でも、その中に、明確に違う色が混ざっていた気がする。


「……黒金が基本で、その中に、赤が混ざってるのがいくつか。あと、濁った桃色。緑も……」


「煩悩の偏りだ」


 澄香が短く言う。


「色が違うのは、司る煩悩が違う。人に取り憑いて増幅させるのも、それぞれの欲だ」


 玲奈が歯を食いしばった。


「一月一日に順々に生まれるはずの108の鬼が、年越しの瞬間に全部解き放たれた。しかも百九がいる。……今年は、最悪の年になる」


 澄香は車の中に素早く私を押し込むように乗せ、玲奈も続く。

 ドアが閉まった瞬間、外の音が遠ざかる。代わりに車内の空調音が薄い水色で見える。生きてる音だ。


「説明して」


 私は震える指を握りしめた。


「何が起きてるの。あれ、何。百九って何。私はただ……鐘を聞きに来ただけで……」


 玲奈が、ほんの少しだけ顔を歪めた。申し訳なさそうに。


「……本当なら、あなたみたいな一般人は巻き込みたくなかった。浄鐘衆は、表の世界から隠れて動いてる。堕ちる人を救って、鬼を刈る。それが仕事」


「堕ちる……」


 その言葉を口にした瞬間、境内で膝をついた人たちの顔が浮かぶ。

 黒い花が咲きかけていた。

 あれが、堕ちる前兆なの?


 澄香が運転席から淡々と言った。


「煩悩の鬼は、人の心に入り、欲を膨らませる。飲み込まれ堕ちきってしまえば人は戻れない。――堕ちた人は人の形を維持できなくなる」


 玲奈が補足するように続けた。


「だから堕ちる前に救う。鬼を倒せば、欲の膨張は止まる。時間が間に合えば、人は戻る」


「……毎年、そうやって?」


 玲奈は頷いた。


「毎年、一月一日に108体生まれる。生まれた瞬間に各地へ散る。私たちは一年かけて108体を刈る。……刈り損ねたら、翌年に持ち越される」


 私は、さっき百九が言った言葉を思い出した。


――積もり積もって、私を起こした。


「じゃあ、今まで……刈り損ねてたってこと?」


 玲奈が目を伏せた。


「……うん。108体全部刈り取れた年もあった。でも、ダメだった年も少しずつ。都市が大きくなるほど、人が増えるほど欲も増える。だから堕ちる人も増える。私たちの手が、追いつかなくなって」


 澄香が言い切る。


「そしてその余りが閾値を超え、百九が目覚めた。――一年に108体生まれる世界は、終わりを告げた。百九がいる限り鬼は生まれ続ける」


 車が動き出した。

 窓の外の街灯が流れていく。

 その光の音は見えない。でも、街のざわめきの色は、さっきより濁っている。


 私は、指先が冷えるのを感じながら、ふと口にした。


「……でも、109回目の鐘って、普通は鳴らないはずでしょ」


 玲奈がちらりとこちらを見る。


「普通はね。だからこその鬼王の誕生。誰かが、鳴らしたんだと思う」


「誰かが……?」


 澄香が、ほんの少しだけ声を落とした。


「人間側の誰か。あるいは――鬼王の側に立つ何か」


 喉が鳴った。

 私の中に、恐怖が膨らむ。色は濁った灰。

 その灰を、別の色が押し返した。


 透明な白。

 鐘の音の白。


 私は、境内で見た筋の色を思い出した。

 黒金だけじゃない。赤。桃。緑。

 それぞれが、どこへ向かったか――私の目には、まだ残像が残っている。


「……私、たぶん……追える、と思います」


 言った瞬間、玲奈が身を乗り出した。


「追えるって?」


「色。筋の色が、空に残ってるみたいに見える。……今も、遠くで、黒金が引っ張られてる感じがする」


 澄香の視線が、バックミラー越しに鋭く光った。


「……方角」


 私は目を閉じて、感覚を探る。

 音が色になるのと同じで、色にも方向がある。空の裂け目から散った筋は、ただの光じゃなかった。

 あれは、糸だ。誰かの欲へ繋がる糸。


 私は息を吸い、言った。


「北東。川沿い。……大きい赤が一本。すごく、熱い」


「憤怒か」


 澄香が即断する。


「玲奈、支部へ連絡。北東川沿い、憤怒反応。第一班を回せ」


 玲奈が頷き、耳の小さな装置を触る。

 車内に低い声が響き、その色は落ち着いた藍だった。プロの色だ、と思った。


 私はまだ震えている。

 理解できない。受け入れきれない。

 でも、逃げても終わらないことだけは、わかる。


 さっき境内で、膝をついた人たち。

 黒い花が咲きかけていた人たち。

 あれを見てしまった以上、私はもう何も知らない一般人に戻れない。


 玲奈が、少しだけ柔らかい声で言った。


「朱音。怖いよね。……でも、あなたが見えるなら、救える人が増える」


「私に……そんな」


「できる。今まで一人で抱えてきた音の色が、初めて武器になる」


 武器。


 その言葉が、怖い。

 同時に、胸の奥が熱くなる。


 私は昔から、音の色を見ていただけだった。

 見えるけど、どうにもできないことの方が多かった。

 嘘の濁りも、怒りの赤も、悲しみの青も、見えるだけで――助ける方法を知らなかった。


 でも今は、違うのかもしれない。


 窓の外に、遠く、黒金の尾を引く何かが見えた。

 街の上空を滑るように移動している。

 それは、まるで――獲物を探す鳥みたいだ。


 私は息を呑んだ。


「……あそこにもいる。小さいのが、三つ。桃色が二つ、緑が一つ」


 玲奈が即座に言う。


「色欲と強欲。……くそ、散り方が早い」


 澄香がハンドルを切り、車は大通りを外れて細い道へ入る。

 その瞬間、車のエンジン音が濃い銀色になった。速度が上がる色。


 私は、シートに背を預けながら、ふと考える。


 百九――煩悩の鬼王。

 あれは、ただの敵なのか。


 さっき一瞬だけ見えた、寂しい青。

 もし錯覚じゃないなら、あれは何だ。


 欲が増えすぎた結果、目覚めた王。

 人の心から生まれた王。


 人間が倒すべき怪物。

 でも、人間の中に確かにあるものの“王”。


 そんなの、倒せるの?


 私の不安が灰色になって膨らむ前に、玲奈が鈴を一度鳴らした。


 ちりん。


 透明な白が、車内に広がる。

 胸のざらつきが、少しだけ引っ込んだ。


「浄鈴はね、心の濁りに輪郭を作るの」


 玲奈は言った。


「輪郭ができると、欲は外に出る。外に出たら、斬れる。祓える。だから――怖さに飲まれないで。飲まれたら、堕ちるのは鬼に操られた人じゃない。私たち自身だから」


 私は頷いた。

 言葉が出ない。

 でも、頷くくらいはできた。


 車は川沿いの道へ出る。

 風景が開け、遠くに橋が見える。

 その上空に、赤い筋が渦を巻いていた。熱い赤。怒りの赤。燃え盛る赤。


 そして――赤の下に、人がいた。


 橋の上で、男が一人、手すりを掴んで叫んでいる。

 相手は見えない。誰もいない。

 なのに男は、何かに向かって怒鳴り続けている。


 男の声は、赤。

 赤の中に、黒金が混ざっていた。


 玲奈が息を吸う。


「……憤怒、取り憑かれて、堕ちる寸前だ」


 澄香が車を止める。

 玲奈がドアに手をかけ、私を見る。


「朱音。ここから先は、危ないよ。降りるなら今」


 私は喉の奥が詰まった。

 怖い。怖すぎる。

 でも、降りても、私はこの赤を忘れられない。


 私は小さく首を振った。


「……行く。見えるなら、見なきゃ。見えるのに、見ないのは……たぶん、私が一番嫌いなやつだから」


 玲奈が、ほんの少し笑った。

 その笑い声の色は、淡い橙。冬の朝みたいにあたたかい。


「よし。じゃあ、最初の仕事。――色の位置を教えて」


 私は橋を見上げた。

 赤い渦の中心。

 そこに、小さな黒い核が見える。

 鬼の本体――人の外にある、濃い黒金の点。


 私は指を伸ばし、震える声で言った。


「……そこ。男の頭の上、十センチ。黒金の点」


 玲奈が鈴を鳴らす。


 ちりん。


 透明な白が夜気を裂き、赤い渦が一瞬だけ止まった。


 玲奈が踏み出す。

 澄香も札を構える。


 そして私は、気づいてしまった。


 橋の向こう、さらに遠い街の上空に――黒金の筋が、無数に伸びていることに。


 百八だけじゃない。

 もっといる。

 過去の余りが、まだ眠っている。


 今年だけでは、終わらないかもしれない。


 でも、私の時間は動き出してしまった。


 109回目の鐘が鳴った夜に。

 音が色になる私が、鬼の王の誕生に居合わせたその瞬間から――


 私の日常は、もう戻らない。


 玲奈の鈴が、もう一度鳴った。


 ちりん、と。


 その透明な白が、私の胸の奥に小さな輪郭を作った。

 恐怖の灰の中に、細い光が通る。


 逃げるだけじゃない。


 抗うために、私はここにいる。


 橋の上で怒りに燃える男の声が、赤く裂ける。

 玲奈の足音が、白く響く。


 そして黒金の点――憤怒の鬼が、初めてこちらを向いた。


 金色の目が、笑った。


「……見えるのか。いい。いい匂いだ。おまえの心は――まだ、堕ちていない」


 私は息を吸い、指先を握りしめる。


 負けない。

 その誓いの色は、まだ弱い。

 でも確かに、透明な白だった。


 

 ここから先、数多の鬼を刈り、堕ちる人を救い、そして――百九に辿り着く。


 私たちの戦いは、今、始まった。


 

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煩悩の鬼王 109回目の鐘が鳴る時 キロ @kiro0325

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