神棄の世界

@SlayerWick

第1話:リミッターが壊れた日

かつて、ケンジという男がいた。

三十路手前、いわゆる「働き盛り」の年齢だが、およそ「普通」とはかけ離れた男だった。同年代の連中が老後の貯金だの、マッチングアプリだの、あるいは今週のネットの流行りだのに一喜一憂している間、ケンジは子供の頃に犯した「実用的すぎる大罪」に身を捧げていた。


彼は「最強」になりたかったのだ。

精神的な強さでも、道徳的な正しさでもない。重力そのものが彼に触れるのを躊躇うほどの、純粋な物理的強さだ。


始まりは、いつだってありふれたものだった。アニメ、ありえない髪型のヒーロー、輝くエネルギー、そして地形を書き換えてしまうようなパンチ。大抵の子供は成長と共に卒業する。だが、ケンジは倍プッシュした。夢は執着へ、執着はルーティンへ、そしてルーティンは「鉄塊が降参するまで議論を続ける」ようなライフスタイルへと変わった。彼はヒーローになりたかったのではない。世界そのものが、自分の手の中で「不便なほど軽く」感じられるようになりたかったのだ。


彼は街の外れ、巨大な森の境界に建つ小さな補強済みの家に一人で住んでいた。日光を飲み込み、自信家ですら足早になるような、そんな深い森だ。ケンジがそこを選んだのは、平穏のため。もっとも、それは「周囲の人間にとっての平穏」だが。彼にとっては、最後のレップで叫び声を上げようが、200キロを超えるデッドリフトを床に叩きつけようが、近所に通報されたり、地震が個人的な恨みを買ったと勘違いされたりしない唯一の場所だった。


だが最近、何かが狂い始めていた。筋肉はあった。正直、ありすぎるほどに。だが、スピードが落ちていた。ケンジにとって、「デカくて遅い」のはただの「高価な的」でしかない。

そこで彼は、極めて疑わしい行動に出た。ゲームに戻ったのだ。それもカジュアルにではない。遊びでもない。超高速のリズムゲームと、いわゆる「弾幕シューティング」のみ。12時間の筋トレの後、フラッシュ光とミリ秒単位の反応速度で自らの神経系を1時間殲滅する。彼はゲームをプレイしていたのではない。純粋な執念によって、現実を「再プログラミング」しようとしていたのだ。


彼が追い求めたのは、「ゼロフレーム・ストライク」。

理論上の存在すら超えて、放つ前に着弾するパンチ。

夜な夜な乾燥した瞳でピクセルを凝視し、脳を焼きながら、フレームの間の「隙間」を認識しようとした。そしてそれを地下室へと持ち込む。暗闇の中に立ち、影が「影になろう」と決める前にそれを殴る。不健康で、非合理的で、いかにも彼らしい狂気だった。


地下室は彼の聖域だった。コンクリートの壁。鉄とオゾン、そしてプロテインの配合ミスが混ざり合った臭い。彼に怯えているかのようにジリジリと鳴る、一本の震える蛍光灯。彼はボロボロのトレーニングウェアに、とっくに運命を悟った袖なしのフーディーを纏っていた。拳には擦り切れた白いバンテージ。30キロのダンベルは、もはや重りではなく「提案」として彼の手の中にあった。彼は空気を殴り、さらなる速度を求めていた。


――シュッ。シュッ。シュッ。


彼の視線は、光の中に浮遊する一粒の塵に固定された。

動かしたいのではない。邪魔したいのでもない。終わらせたいのだ。

筋肉が悲鳴を上げる。肺は酸素に裏切られたかのように燃える。胸の奥で熱が溜まり、圧力が積み重なり、生物学的な許容範囲を超えて何かが限界まで巻き上げられた。


そして、それは起きた。


雷が人間の間違った側に落ちたかのような戦慄が、背筋を駆け抜けた。

心臓は「鼓動」を止め、「宣戦布告」した。その衝撃に歯がガタガタと鳴る。視界が白く爆発した。脚はその役割を放棄した。彼は床に叩きつけられた。


(最高だな)

それが最後の一貫した思考だった。

(筋肉による死。王道だ)


目が覚めた時、空気が違っていた。薄く、清浄だった。許可なく呼吸機能がアップグレードされたかのようだった。痛みがあるはずだと身構えながら起き上がったが、痛みは来なかった。体は澄み渡り、ハミングするように震えている。まるで別物だ。


ふと下を見ると、そこにあったはずの「山」が消えていた。

十数年かけて築き上げたバルク(巨躯)は圧縮され、より鋭く、より底知れない何かへと変貌していた。筋肉はもはや肉というより、命令を待つ「張り詰められた鋼のケーブル」に見えた。


ダンベルを掴む。実体がないかのように軽く感じた。

試しにパンチを放ってみる。


音が遅れてやってきた。


どこかで物理法則が苦情を申し立てたような音がした。


「……よし」

彼は静かにつぶやいた。パニックは「現実を破壊したばかりの人間」には似合わない。

「死んだか、あるいはキャラクタークリエイトを解禁したか、だな」


水と鏡と答えを求めて二階へ向かった。だが代わりに彼が見つけたのは、ソファに座っている「悪夢」だった。


「よし……」俺は呟いた。声は以前より深く、安定していた。「物理法則を壊しちまったか。あるいは、死んで死後の世界のキャラメイク画面にでもいるのか」


混乱し、頭の中に百万の疑問が渦巻く中、俺は二階へ駆け上がった。水が必要だった。鏡が必要だった。そして、なぜ自分の家が段ボールで作られているかのように感じるのかを知る必要があった。

だが、居間に辿り着いた瞬間、世界の辻褄が合わなくなった。


俺の家のソファに、絹を纏った「悪夢」が座っていた。

男は周囲の光を飲み込むような重厚な黒いローブを羽織り、その上には心臓の鼓動のように脈打つ銀の紋章が刺繍された深青色のコートを着ていた。髪は黒と白が混ざり合い、重力を無視して逆立っている。そしてその目は異様だった。片方は血のような赤、もう片方は爬虫類のような黄色。

彼はまるで墓場の王か、存在してはいけない世界の遺物のようだった。


「ほう」見知らぬ男は、鋭く残酷な笑みを浮かべた。「貴様が『限界』を突破した人間か。この領域の凡夫にしては、なかなかの仕業だ。……だが、陛下への脅威となる前に、ここで殺しておかねばならんのでな」


男は立ち上がりさえしなかった。無造作にポケットから手を取り出し、指先を俺の方へ弾いた。


――ドォォォォォン!


家の正面が消失した。

一秒前までそこにあったはずの光景は記憶へと変わり、代わりに一マイルにも及ぶ巨大な溝が地面に刻まれていた。俺は死を覚悟し、目を強く閉じて身構えた。だが、痛みは来なかった。


目を開けると、俺はソファに座る見知らぬ男の背後に立っていた。

そして俺の隣には、どこからともなく現れた別の男が立っていた。

この新参者は、ソファに座る「中二病全開の男」とは正反対だった。色褪せたタン色のシンプルなマントを羽織り、腰には飾り気のない革のベルト。修羅場をくぐり抜けてきた旅人のような風貌だ。彼はリビングに残された唯一の壁に無造作にもたれかかり、腕を組んで、心底退屈そうにしていた。


「やれやれ、危ないところだったな」

男は滑らかで、抑揚のない声で言った。

「人間、回避の仕方は覚えた方がいいぞ。……いや、気にするな。この先は寝ていた方がいい、小僧。お前の脳は、さっきの『リミッター解除』ですでにオーバーヒート寸前だ」


「誰だ……あんたは一体――」

言いかける前に、男の指先が俺の額に触れた。

視界が再び暗転する。力が抜け、押し寄せる混乱が意識を強制的な眠りへと引きずり込んでいった。


二人目の男は、ケンジの頭が瓦礫にぶつかる前にその体を受け止めた。手首を軽く振ると、意識を失ったケンジの周囲に完璧な黄金の球状バリアが展開された。オーブは古の柔らかな光を放ち、崩壊したリビングの隅で静かに浮遊した。


「さてと」

二人目の男は壁から背を離した。彼はローブの男に視線を向け、その表情を退屈から「鋭い殺気」へと変えた。

「マルチバース(多重宇宙)に残された唯一の希望を、殺させるわけにはいかないんでね。……なあ、『魔王クロガネ』。いや……『クロガネ将軍』と呼ぶべきか? 最後に話した時から、随分と出世したようじゃないか」


クロガネは息を呑んだ。その左右で色の違う瞳は、深い衝撃で見開かれ、禍々しい闇のオーラが消えかけの炎のように明滅した。

「その声……まさか、ありえん! 私はこの目で見たのだ! 陛下自らが『大崩壊』でお前と戦い……『アブソリュート・ヴォイド(絶対虚無)』を用いて、貴様を存在ごと抹消したはず! 魂の記録さえ消え失せるのを私は見たのだぞ!」


「ああ、まあな」

二人目の男の瞳に、暗い光が宿った。

「自分の葬式をでっち上げるのは昔から得意なんだ。『抹消』なんてのは、現実の隙間で長い休暇を取るための格好いい言い訳にすぎない。俺は消されちゃいないよ、クロ。あいつに『勝った』と思わせて、表舞台から消え、第467領域の誰かが限界を突破するのを待っていただけだ。……それに俺は、続編(シーケル)が大好きなタチでね」


「……ヌかせッ! この手で殺してやる!」

クロガネが咆哮した。魔王は容赦しなかった。血のように赤いオーラが爆発し、上空まで届くほどの渦を巻いた。彼は突進し、その手は純粋な真空の刃と化した。


だが、二人目の男の方が速かった。

一瞬の閃光。男は突進するクロガネの喉を空中で掴み、残っていた壁ごと彼を叩き出した。そのまま家の周囲に広がる深い森へと引きずり込んでいく。木々がなぎ倒され、大地がめくれ上がった。男は広場へとクロガネを投げ飛ばし、高い枝の上に軽々と着地した。


「な……何だこれは!?」

クロガネは喘ぎながら、再び力を込めようとした。体内のエネルギーが猛り狂っているのは感じるが、それが形にならない。「私の力が……まるで夢の中を殴っているようだ! 本来なら、私の存在だけでこの森は灰になるはず! 全力を出そうとしているのに、届かない! 出力(アウトプット)が感じられないのだ!」


「鈍ったな、クロガネ」

男は枝に座り、足をぶらつかせながら嘲笑った。

「なんだ、『魔王』なんて肩書きをもらって、あのジジイに仕えてるうちにそんなに弱くなったのか? 俺が知っていた頃はただの将軍だったが、肩書きだけ立派になっても腕前は据え置きか。いや、むしろ退化してんじゃないか? 見てて恥ずかしいぜ」


「黙れッ!」

クロガネは突きを連打した。その一撃一撃は、世界の潮流を変えるほどの質量を秘めていた。拳が空気を押しのけるたびに、大気が悲鳴を上げる。

だが、その時。男は避けるだけではなく、文字通り「踊り」始めた。クロガネの拳が空を切る中、男は舞い落ちる木の葉の間を滑らかなリズムでツーステップし、ジャブを潜り抜け、大振りのフックを笑いながら回避した。


「右、左、はい、左にスライド」

男は歌うように言いながら、髪の毛一本の差で巨大な拳を避け、ついでに空中の葉っぱを一瞬で摘み取った。

「おっと、また外れだ! ほらどうしたクロ、もっと腰を入れろよ! うちの婆ちゃんの方がまだマシなパンチを打つぞ。三千年前に死んでるけどな!」


クロガネは絶叫した。赤いオーラが、エンストしそうなエンジンのように途切れ途切れになる。

「動くな……! じっとして死ね! なぜ当たらない……なぜ貴様に触れられないのだ!?」


「お前の負け犬の遠吠えがうるさくて聞こえないな!」

男は笑いながら、混沌のエネルギービームの周囲でピルエット(旋回)を決めた。次の瞬間、男はクロガネの襟首を掴んだ。

「少し遠出しよう。この森にも飽きてきた」


――フラッシュ。

景色が一瞬で切り替わった。

そこは宇宙の彼方。遠くの星雲に浮かぶ、冷たく圧縮された「死んだ星」の表面だった。クロガネは牙を剥き、もはや手加減は不要だと悟り、物質を崩壊させるほど最大出力を解き放った。


二人目の男は腕を上げることすらしなかった。

彼は星の表面で「ムーンウォーク」を披露し、衝撃波が彼に触れる前にそれは霧散した。

「ハズレ」男はくるりと回転し、おどけてお辞儀をした。「本当に腕が落ちたな。その『陛下』とやらに戦い方を教わったのか? それとも盲目の仔猫にでも習ったのか?」


クロガネは動きを止め、オーラが激しく明滅した。

「……その目だ! その忌々しい目!……貴様、私を弱体化(ナーフ)させているな!? 私の存在そのものを抑え込んでいる! 私の全力を……貴様が使わせないようにしているのだな!」


「ピンポーン、正解!」

二人目の男が笑い、クロガネの背後に現れて耳元で囁いた。

「もっと積もる話もしたいんだが、お前を逃がして、俺が生きてるなんて触れ回られると困るんでね」


――パキッ。


男がクロガネの「核(コア)」を握りつぶすと、魔王は音もなく灰へと変わった。


二人目の男は一人、その場に立ち尽くした。表情が険しくなる。

(クロガネなど、ノミのようなものだ)彼は考えた。胸が締め付けられる。(だが、もし俺が出力を抑え込んでいなければ、あいつは呼吸するだけで地球の地殻を粉砕していただろう。そして俺の知る限り、あいつは陛下が揃えた魔王たちの中でも最弱。席を埋めるために昇進しただけの低ランク将軍にすぎない。……最弱でこれなら、リーダー格は悪夢だな)


彼は青い点のような地球を振り返った。

(俺はかつて、陛下に挑んだ。持てるすべてを叩きつけた。『星砕(せいさい)の掌(てのひら)』も、『禁忌の勅令』も……。だが、あいつは瞬き一つしなかった。俺は惨敗したんだ。指一本、触れることすらできなかった。陛下にとって、俺はブーツについた汚れにすぎなかった)


彼はため息をつき、再び地球へと現れると、まだ眠っているケンジが入った黄金のオーブを拾い上げた。

(俺も人間だ。だがこの領域の住人じゃない。……古の理(ことわり)は絶対だ。『第467領域で生まれた人間』だけが、唯一、陛下に真のダメージを与えられる。それが、あいつの鎧にある唯一の亀裂だ)


「ケンジ……お前は自力で限界を壊した、この領域の人間だ。つまり、残された唯一のワイルドカードなんだよ。だが、今のままじゃ? 魔王どころか、ただの下っ端(雑魚兵)にも勝てやしない」

「お前を一度ぶっ壊して、作り直すしかないな」

彼は青いポータルを開き、その中へと足を踏み入れた。


ケンジが最初に感じたのは、痛みではなかった。

それは「重さ」という概念の、絶対的かつ恐ろしいまでの「欠如」だった。地下室において、重力は彼の最大のライバルであり、鉄を押し返すための基盤となる絶対的な力だった。だがここでは、床も、天井も、地平線さえも存在しなかった。


ようやく目を開けた時、そこにあったのは粉々に砕け散った自宅でも、湿った土や松の匂いでもなかった。彼は、まるで「粉々になったダイヤモンド」の中に浮いているような場所にいた。都市ひとつ分ほどもある巨大で尖った白水晶の破片や、大陸ほどの大きさの破片が、打ち身のような赤紫色の空を漂っている。空は深いヴァイオレットとインディゴが渦巻く巨大な渦だった。


「ようやくお目覚めか、眠れる森の美女?」

ケンジは慌てて振り向こうとしたが、踏ん張る床がないため、新しく手に入れた超高密度な反射神経が仇となった。空中で三回転し、手足をバタつかせ、ようやく浮遊する水晶の端を掴んで体勢を立て直した。


見上げると、タン色のマントを羽織った男が瓦礫の上に座り、青く光る小さな石を無造作に放り投げながらこちらを見ていた。

「ここは……どこだ?」ケンジは喘いだ。深く息を吸おうとしたが、空気がまるで液体水銀を吸い込んでいるかのように重い。一呼吸するだけで全身の力が必要だった。


「第467領域と、その上の高次元平面との間にある『ギャップ(隙間)』だよ」

男は飛び降り、何もない空中をあたかも大理石の床であるかのように踏みしめた。ケンジは必死に水晶の表面に足場を探し、心臓が肋骨を打ち鳴らしていた。


「待て、待て。あんたは誰だ? 名前は? なぜ俺がここにいる? なんで……俺なんだ! 俺はただ地下室にいただけだ。なのに家は消え、化け物が現れ、気づけば紫色の空虚の中に放り込まれてる!」


男は足を止め、口角に微かな、面白がるような笑みを浮かべた。

「もっともな疑問だ。答えよう。俺の名前はレンだ。なぜここにいるか? お前のリビングにいた『化け物』は魔王の一人だ。そしてあれは序の口にすぎない。……なぜ『お前』か? 第467領域に住む数十億の人間の中で、『人間であることに満足しなかった』のはお前だけだったからだ」


レンの笑みが消え、代わりに古の疲労のような、峻厳な眼差しが宿った。彼が手を振ると、二人の間の空気が揺らぎ、黄金の光を放つ十人の巨人の幻影が現れた。

「万物の黎明期、十人の『天星存在(セレスティアル)』がいた」レンが説明する。「彼らがあらゆる現実の錨だった。だが遥か昔、強大な魔王と伝説的な魔導士の間に子が生まれた。その子はパラドックス(逆説)だった。半分が虚無、半分が人間。存在してはならない魂を持って生まれ、そして恐るべき呪いと共にあった。――彼は、自らが生まれた領域の『人間』にしか殺せない」


映像が切り替わり、冷たい星のような瞳を持つ少年が、骨の玉座に座る男へと成長していく姿が映し出された。

「その子が『陛下(マジェスティ)』だ。彼は父を殺し、永劫に続く虐殺を開始した。宇宙を次々と征服し、ついに天星存在たちが彼を止めるために降臨した。天を砕く戦争だったよ。……結果、六人の天星存在が斃れた。六人の神々がだ、ケンジ。残された四人は、姿を隠した」


ケンジは、黄金の巨像たちが次々と消し去られていく光景を注視した。

「だが、そんなに強いなら……なぜ俺はまだ生きてる? もし自分の脅威になるなら、なぜ俺の領域をさっさと滅ぼさなかった?」


「『第一席』のおかげさ」レンは言った。「最強の天星存在は、消滅する間際に自らの存在すべてを犠牲にして『対抗呪い』を作り上げた。彼は一つの法則を定めたんだ。――もし『陛下』、あるいはその配下が第467領域の『人間』に危害を加えた瞬間、対抗呪いが発動し、あいつの呪いを無効化して即座に殺す。……究極の盾だ。だから、お前の世界だけは焼かれずに済んだんだ」


ケンジは唖然として瞬きをした。「……じゃあ、俺たちは安全なんじゃないのか?」


「抜け穴があるんだよ、小僧」

レンが一歩近づくと、その瞳がケンジの目を射抜いた。

「その呪いが守るのは『人間(モータル)』だ。だが、お前が地下室でリミッターを壊した瞬間、お前は『保護対象としての人間』ではなくなった。神の力に手を伸ばしたことで、お前は自らその盾を脱ぎ捨てたんだ。今のお前は『戦闘員』だ。陛下の部下はお前の隣人を殺すことはできないが、お前をバラバラにすることはできる。呪いは、ルールを破った者には発動しないからな。……自分の命を守るために強くなろうとした結果、お前は世界で唯一『あいつが殺してもいい人間』になっちまったんだよ」


ケンジは自らの手を見た。拳のバンテージは擦り切れ、血が滲んでいる。混乱していた瞳に、冷たく硬い覚悟が宿り始めた。

「……つまり、俺だけが唯一あいつを殴ることができて、俺だけが唯一あいつから殴り返されるってことか」


「その通りだ」レンは言った。「だが、今の自分を見てみろ。前衛の雑魚兵すら倒せないレベルだ。俺も人間だが、外部の人間だ。この世界の法則には当てはまらない。かつてあいつに挑んだが、『星砕の掌』も『禁忌の勅令』も掠りもしなかった。惨敗だよ。山を蹴ろうとするノミのようなものだった」


レンの瞳が、催眠的でプリズムのような光を放ち始めた。

「さっきの魔王……もし俺が弱体化させていなければ、あいつは力を解放するだけで地球の核を砕いていただろう。そしてあいつは魔王の中でも最弱だ。お前には陛下を倒す『権利』はあるが、『実力』がない。……そこを俺が叩き込んでやる」


ケンジは奥歯を噛み締めた。胸の内の恐怖が、冷たく頑固な闘志によって焼き尽くされていく。

「……だったら、強くしてくれ。抜け穴として死ぬために十年間地下室にいたわけじゃない」


レンは鋭く、獲物を狙うような笑みを浮かべた。

「その言葉を待っていた。……最初のレッスンだ。お前の地下室にあったダンベルはただのおもちゃだ。今度は、『世界の重み』を知れ」


レンが指を鳴らした。

紫色の空が消え、視界は押しつぶされるような眩い白一色に染まった。

重力がただ増したのではない。数千倍に膨れ上がった。

ケンジは瞬時に水晶の地面に叩きつけられた。肋骨が軋み、関節が弾けるような音を立てる。まるで惑星一つが、自分の背骨に直接置かれたかのような感覚。


「のんびりしている暇はない。陛下はお前の存在に気づいた」


レンの声が耳元で囁く。

「これは銀河核(ギャラクティック・コア)の重力だ。10秒以内に立ち上がれなければ、お前の体は自分を『人間ではない』と認識し、この次元の隙間がお前を抹消する。……一(いち)……二(に)……」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神棄の世界 @SlayerWick

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ