正義の代償
HYA
正義の代償
かつて、スーパーライト級プロボクサーとして、鮮やかに相手を翻弄する華麗なボクシングで観客を沸かせた栄光の日々を、自らの夢である法曹への道のために中断し、司法試験突破のために日々勉学に励んでいた。
夢は刑事弁護専門の弁護士になること。
社会の弱者を守り、社会正義を実現する――それが彼の信念だった。
元治大学法科大学院で法を学び、法曹界への道を突き進む。
自らの学びを試すために受験した司法試験予備試験に合格。本番の司法試験に対しても手ごたえが得られる状況ではあった。
一途で純粋。正義感が人一倍強いがゆえに、融通が利かない性格。
一つ年上の妻・美咲との結婚は、そんな彼の人生において、唯一の支えであったはずだった。
美咲との出会いは、東日本大震災でのボランティア活動がきっかけだった。
彼女は実家暮らしの猫好き。里親制度に憧れていたが、家族の反対で叶わず。
しかし、「結婚すれば独立できる」と考え、一樹と結婚。
「紙ペラ一枚の契約」と後で検察に証言するほどの現実主義者。
一樹は知らなかった。彼女の内面が、夫を「ペットのように扱えば苛立ちも消える」と冷徹に割り切っていたことを。
最近、美咲の帰宅が遅い。
残業だと言うが、一樹の勘は鋭かった。不貞の影。
心の底で「そうであって欲しくない」と祈っていたある夜、リビングのソファで美咲が口を開いた。
蛍光灯の白い光が、彼女の顔を青白く照らす。
「職場の上司、渡会弁護士からセクハラを受けているの…。2回関係を持たされたわ。ネックレスを貰って、拒否できなくなってたかもしれない…。」
言葉が一樹の胸を刺す。
怒り、絶望、憎悪が津波のように押し寄せ、視界が歪む。
立ち上がり、トイレに駆け込む。
胃がひっくり返り、嘔吐。洗面台にすがり、鏡に映る自分を睨む。
リングで相手をKOしたファイターの目が、今は涙で濡れていた。
「なぜ……俺の妻を、なぜ法の守護者であるはずの男が!」呟きが漏れる。
平成22年4月、東京弁護士会に登録。
松岡綜合法律事務所に入所した新米時代、ボス弁護士である松岡馨に強く自分を売り込んだ。
彼の情熱に絆された松岡は、米国の法科大学院入学、現地大手法律事務所への就職斡旋、学費全額援助――米国での武者修行に必要なものすべてを整えた。
しかし帰国後、恩返しどころか即座により雇用条件が良い、遠藤富夫&モリガン・フォレスト法律事務所へ移籍。
「後ろ足で砂をかける」恩知らずの典型。
対照的に松岡は「頑張れよ!」と笑顔で見送った。
人間性の格差が、ここに凝縮されている。
渡会の専門は企業法務。
東京ビジネス振興会(TBAP)で2024年に副会長就任、中小企業診断士資格も取得。
5年前のTBAP会報のインタビューで「フェラーリを買う金のために弁護士になった」と豪語。
刑事弁護など「儲からない仕事」は眼中なし。
金と地位の化身のような男が、美咲を食い物にしたのだ。
美咲の嘘――不倫を誤魔化すための「レイプされた」という嘘――が、一樹の義憤を最大限に煽っていた。
一樹は妻を連れ、警視庁のセクハラ・性的トラブル相談窓口へ向かった。
午後の混雑した待合室で順番を待ち、担当刑事に事情を説明。
美咲の証言、ネックレスの写真、LINEのやり取り。だが、返ってきた言葉は冷徹だった。
「証拠が薄弱です。強要や脅迫の痕跡がない。民事不介入で、慰謝料請求をおすすめします。」
一樹の心が砕ける。
法科大学院で叩き込まれたはずの正義が、こんなにも無力か。
大学院の講義室で議論した性犯罪被害者保護の論文が、頭をよぎる。
「法は弱者を守るものだと思っていたのに……」
美咲は黙って俯く。彼女の目には、事件拡大を避けたい計算が見え隠れしていた。
しかも去り際に、一樹に聞こえぬよう警官に「無理やりではありません。」と告げていた。
家路につく電車で、一樹は決意する。何としても落とし前をつけさせてやると。
渡会を問い詰める台本を作成した。
A4用紙3枚に、事実確認、謝罪要求、損害賠償の条項をびっしり。
「これで決着をつけてやる…。絶対許さねえぞ!!」
だが、美咲は再び一樹を裏切った。台本をスマホのカメラで撮影し、渡会に送信。
「対策される……弁護士相手に不利極まりない!」
一樹の焦燥は頂点に。
直ちに渡会の事務所へ乗り込むしかない。
事前準備として、西急フッズで包丁と剪定鋏を購入。
銀色の刃が光る。
「お守りだ。精神を落ち着かせるため」と思い込む。
早朝、美咲の「殺さないよね?」に、「大丈夫。殺さないよ」と約束。
事務所へ向かう地下鉄の中で、プロボクサー時代の記憶が蘇る。リングの歓声、汗の臭い、勝利のガッツポーズ。あの強さを、今こそ。
面談直前、日比谷公園のベンチに座っていた。
理性が殺意を押しとどめる。
「殺してやりたいが、そうすることはできない。」
包丁をゴミ箱に捨てる。剪定鋏だけをリュックに残した。
渡会の事務所は、虎ノ門の商船四井ビル18F。
ガラス張りの執務室から、東京の景色が広がる。
渡会はスーツ姿で傲慢さが滲む不敵な表情で迎えた。
「不来方さん、座ってください。」
一樹は台本を突きつけ、詰問。事実を認めた渡会は、軽く頭を下げる。
「申し訳ない。関係はあったが、無理矢理じゃない。一線を超えたのは、双方の合意だ。」
「合意だと? 俺の妻の人生を、ネックレス一本で買ったのか!」
一樹の声が震える。
渡会の机に、家族写真。笑う妻と幼い子ら。
「家族すら裏切る人間が……許せん!」
渡会の過去が、一樹の脳裏に洪水のように溢れる。
松岡馨への恩義を忘れ、即移籍。
フェラーリを自慢げにSNSにアップする軽薄さ。
TBAP副会長として中小企業オーナーを囲い込み、金をむさぼる姿。
すべてが、一樹の義憤を燃やす燃料。
「5~6発、ぶっ飛ばしていいですか!!」
血が上る。抑えきれず、拳が飛ぶ。
一時ボクシングから離れた一樹は体重が増え、今ではミドル級。
ミドル級の全力を込めた重いフック&右ストレートが渡会の顎を捉えた。
鈍い音。
渡会は仰向けに倒れる。痙攣し、失神。
一樹の視界がトンネル状に狭まる。
リュックから剪定鋏を取り出し右手で握る。
刃の冷たい感触。
素早く渡会の下半身へ。ベルトを外し、ズボンと下着を乱暴に引きずり下ろす。
露わになった「それ」――妻を汚し、数多の女を弄んだ大罪の象徴。
「これがお前の自慢の息子か! 妻を玩具にした罰だ。こんなモノ、無くなった方が世のため、人のためだ!!」
左手で強く掴む。
右手の鋏が、根元にジョキッと噛みつく。
しぶとい抵抗。
刃が皮膚と筋肉を断ち切る感触。一撃で断ち切れず、チョキチョキと動かす。
血の飛沫が床に飛び散る。
断末魔のような抵抗の後、ついに泣き別れ。
血塗れのそれを握りしめ、事務所のトイレへ。水洗便器に放り込み、レバーを引く。渦巻く水音が、一樹の心に刻まれる。
「ざまあみろ。金輪際、女に手を出せないだろう。」
達成感が全身を駆け巡る。
だが、同時に虚無の波。呆然と立ち尽くす。
渡会の股間の赤いシミが広がるのを見て我に返り、妻に指示を出す。
「美咲、すぐに救急車と警察を呼んでくれ。」
しばらくして、サイレンの音。救急隊員と警官が踏み込む。
一樹は、「私がやりました。渡会を殴り、局部を切断しました」と自白。
手錠をかけられ、パトカーへ。因縁の商船四井ビルを見ながら。
だが、後悔はない。
渡会は病院のベッドで性機能喪失を宣告された。
更なる追撃。
マスコミが、わざとかどうかは知らないが、匿名性を毀損する不適切な報道をした。
「東京港区虎ノ門の商船四井ビル18Fにある弁護士事務所に勤務する42歳の男性弁護士が下腹部を切断されました。」
夏の真っ盛り。うだるようなお盆の最中。
暇人たちが、面白半分のパズル感覚で本人特定を行う。
ヒット。
直ちに事務所のHP、過去に受けたインタビュー記事から顔写真を抜かれ、それと共に本名をインターネット上に拡散される。
また、公判で赤裸々に痴態を暴かれ、身体欠損とデジタルタトゥーの二重の後遺障害に苦しむことになる。
美咲は検察調書で冷徹さを露呈。
「結婚は実家からの脱出と、猫の里親になるためだけ。夫に甲斐性が無く苛立ったが、ペットと思えば平気。結婚を続けるにしても、流石に名字は変えたい。出来れば海外へ美術留学したい。」
一樹への同情ゼロ。裁判官の前で、彼女の証言が一樹の純粋さを際立たせる。
しかも、やるせないことに、彼女の匿名性は守られ、何の罰も受けなかった。
検察求刑:懲役6年。「行為の残虐性、計画性、社会的影響大。」
弁護側反論:妻の嘘による義憤、示談成立、前科なし、優秀な学歴・反省態度。
判決の日。法廷の重苦しい空気。裁判長の声。
「被告人不来方一樹、懲役4年6ヶ月の実刑とする。被害者は民事上の違法な行為に及び落ち度があるのは明らかだ。だが、汲むべき事情はあるが、民事訴訟などで対抗すべきだった。局部切断は極めて危険で悪質であり、被害者は生涯消えることのない肉体的・精神的苦痛にさらされ続けている。」
一樹は頭を垂れる。――相場より軽いが、実刑。法の鉄槌が、自らの正義を砕く。
獄中、一樹は考える。法の無力さを痛感した男が、自ら法を破った皮肉。美咲の嘘、渡会の軽薄、美咲の冷徹――すべてが運命の歯車だった。
出所の日を夢見て、鉄格子越しに空を見る。ボクシングのリングへ戻るか、新たな正義を模索するか。代償は重いが、心は折れていない。正義の炎は、消えていない。
正義の代償 HYA @HYA2
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