山田のおっちゃん
@MazumeOchiai
本文
22時過ぎ。
缶コーヒーのプルタブを引く音に呼応して、
スマホが震えました。
仕事の打ち合わせを終えて、
夜道を歩いていたときのことです。
画面に表示された名前を見て、
まだ一口も飲んでいないコーヒーを置きました。
「……もしもし」
電話の向こうから、
しっかり者の姉の声が聞こえてきました。
いつもより、少しだけゆっくりした話し方で……。
内容は、あまりよく覚えていません。
知らない名前が出てきて、明日、どこどこで、
お葬式がある、と。
いくつか言葉を重ねたあと、
姉はそのまま電話を切りました。
「……なんでわざわざ。」
再び手に取った缶コーヒーは、
すっかり冷え切っていて、
手のひらに張り付くようでした。
——ずっと、孤独を生きてきた人だからね。
最後だけは、親戚で盛大に送ってあげよう。
そんなことを、
言っていた気がします。
自由な時間を塗りつぶすように、
コーヒーを一口飲みました。
味は、しませんでした。
悲しみを抱擁した菊の香で、我に返った朝10時。
体の動きにうまく付いてこない喪服を身にまとい、
葬儀会場に立っていました。
目に入る情報を、
ひとつずつ、受け取っていると、
低い声で言葉を交わす親戚たちの気配が、
少し遅れて、意識に入ってきました。
動機がわからないまま家を出て、
そこからの記憶は、
夢のように曖昧になっていたのです。
声をかけられないよう、認知されないよう。
視線を下げ、静かな会釈を繰り返しながら式場に入り、端の席へ。
置物のように、小さな居場所を作りました。
さっきよりも近づいた菊の香りと、
視界の端に集まる黒い服のかたまりが、
理由もなく、恐ろしく感じられて、
顔を上げる理由すら見失って。
そうしているうちに、
名前も顔も知らない誰かの葬式が、
静かに始まっていました。
一定の調子で部屋を満たす波紋。
読経の声が、
グレースケールの雰囲気を媒介して、
体の内側を通り抜けていきます。
息の苦しさが、
心因性なのか外因性なのか、
判断がつかなくなってきた時、
隣に座っていた人が立ち上がりました。
焼香の時間が訪れたようです。
その人の踵を追うように席を立ち、
私も列に並びました。
目の前の陰が横にすり抜けたのを合図に、
香炉の位置を確認したその時——。
あ、山田のおっちゃんだ。
私は、その顔を知っています。
想像していたよりも、ずっと小さな祭壇に、
遺影は飾られていました。
写真の中の山田のおっちゃんは、こちらを見て、
昔と同じ調子で、笑っていました。
呼吸を思い出してから指先に神経を通わせ、
香をひとつまみ取りました。
そこからは、
手順を間違えないことだけを意識して、
一つずつ、一つずつ、動作を重ねました。
ゆっくりと、決めていた通りに。
合掌を終えて目を開けたとき、
立ち上がった煙に蜃気楼を見るように、
もう一度、目が合いました。
——そういえば。
席に戻って、
ふっと息を吐いた瞬間、
留めていた思考が、
静かに溢れ出しました。
——あの人と、
最後に言葉を交わしたのは、
いつだっただろう。
淡い記憶をたぐり寄せているうちに、
気づけば、あの法事の夜のことを思い出していました。
今よりずっと、視線の低い、
まだ子供だった頃の話です——。
親戚の集まりは、昔からどこか苦手でした。
線香の香りを薄く身にまとい、
大人たちの退屈な話を、
ただ聞き流し続けるあの空気。
名前も顔も曖昧な人たちに囲まれて、
自分の居場所だけが、どこにも見つからない。
そんな時間が、ただ過ぎるのを待っていました。
そのときです。
視線を上げた先に、
ひとりだけ、覚えている顔がありました。
「あ、山田のおっちゃんだ。」
今になって思えば、
「山田」というのは、
名字ではなかったはずです。
どこかに、そう呼ばれる地域があって、
そこに住んでいるから、親戚の人たちは、
いつの間にかそう呼ぶようになった。
そんなふうに聞いた気もします。
久しぶりに会ったその人は、
記憶の中よりも、
少し痩せたように見えました。
髪はすっかり白くなり、
それと対称に、肌は光を吸うように暗く見えました。
瞳にも、薄く靄がかかっていた気がします。
それなのに、私と目が合ったその瞬間だけは、
不思議と、昔のままの表情に戻ったのです。
「……おう。キリちゃんか?
おっちゃんや。覚えとるか?」
その笑顔に押されるように、私は答えました。
「……はい。覚えてます。」
たった、その一言だけで、
山田のおっちゃんは、
驚くほど嬉しそうに笑いました。
まるで、
長いあいだ使われていなかった名前を、
ようやく呼んでもらえた人みたいに。
山田のおっちゃんは、私の顔をまじまじと見ました。
目尻のしわが深く寄って、その分だけ、声が軽くなります。
「しかし、キリちゃん……大きなったなぁ。」
それに対する言葉を探していると、
おっちゃんは、その時間ごと、ゆっくり味わうように続けました。
「キリちゃん、覚えとるやろ。
おっちゃんの指、飛んだやつ。」
「……指?」
「工場でな、刃にズバァーッて当たってもうてな。
ほら見てみ、こんな短なってもうて。」
おっちゃんは、少し間を置いてから、右手を広げました。
確かに、小指と薬指が、ほんの少し短い。
周りの大人たちが、
笑いをこらえるような気配を見せました。
それはきっと、
笑っていい類の傷として、
もう整理されているからなのでしょう。
「キリちゃんだけやで?
これ見て“かっこええ”言うてくれたん。
姉ちゃんにはな、『そんなこと言っちゃいけません』って怒られてたけど……、
おっちゃん、あれ結構嬉しかったんやで?」
私は、そんなことを言った記憶がありません。
その場面だけ、どこにも見当たらない。
でも、否定する言葉も出てこない。
出す理由も、見つからない。
この場の笑いの輪郭に、
自分の声を当てはめる勇気がなかったのです。
だから私は、曖昧に笑いました。
「そうだったかもしれませんね」と言ったのか、
言わなかったのかは、もう覚えていません。
——嘘?
そう思った瞬間、
なぜか、少し懐かしい感じがしました。
思い出しました。おっちゃんは、
子供だましな嘘で場を和ませるのが、
大好きな人だった、ということを。
「昨日な、メガネどこ置いたかわからんくて
一日探しとったんやけど、
よう考えたら最初から
メガネなんか持ってへんかったわ。」
「山入ったらな、鹿が
“立ち入りはご遠慮ください”言うてきよってん。
あいつら、ちゃんと敬語使えるで。」
「仕事行こう思ったらな、
車さかさまになっとんねん。
戻すの、めっちゃ大変やったわ。」
その日のおっちゃんも、
終始、そんな調子でした。
どれもありえない。
小学生の私でも分かるくらいには。
それでも大人たちは、少しだけ笑う。
怒らない。否定しない。
受け流されるたび、
場の温度だけが、ほんの少し上がっていく。
嘘が、
空気のしわを伸ばすためのものに見えました。
その中で、
自分の呼吸が、
いつの間にか少しだけ楽になっていることに、
気づきました。
そうこうしていると、
場の外から、少しだけ大きな声がかかりました。
「おーい、山田のおっちゃん。」
「おう、いま行く。
ほな、キリちゃん。またあとでな。」
そう言って、
大人の輪へ戻っていく背中は、
嘘を話しているときより、
少しだけ小さく見えました。
私は、再びやってきた退屈な時間から、
そっと距離を取るように、席を立ちました。
廊下の空気は、急にひんやりしていました。
人の声が壁の向こうに薄くなり、
線香の匂いだけが、鬱陶しいほどまとわりついてくる。
それを振り払うように玄関へ歩いて、
戸を開けると、夜の冷たさが胸の奥まで入ってきたのです。
外は驚くほど静かでした。
玄関灯が足元だけを照らし、その先はすぐ夜に溶けていく。
息は白くなる。音が減る。世界が、急に嘘をつかなくなる。
しばらく立っていると、背中で戸がきしむ音がして、振り返りました。
そこには、山田のおっちゃんが立っていたのです。
胸ポケットからタバコを取り出したところで、私に気づいて一瞬だけ止まり、
それから、何も言わずにタバコを戻しました。
いつもの嘘より、ずっと真面目な動きでした。
「……キリちゃん。ここおったんか。」
おっちゃんはゆっくり、隣に立ちました。
戸の向こうから漏れ出す微かな光、大人たちの声。
たった一枚隔てるだけで、別の時間が流れているみたいでした。
夜の曖昧な一点を見つめたまま、
おっちゃんは、ぽつりとこぼしました。
「……キリちゃん。
この世界な……全部ウソやねん。」
一拍置いて、おっちゃんは続けました。
「おっちゃんだけが……ホンマやねん。」
冗談みたいな言葉なのに、声の底に、笑いはありませんでした。
夜風よりも静かで、誰かにやっと打ち明けたみたいな、
弱い響きが混じっていました。
私は何も言えませんでした。
言葉を返すと、その“弱さ”に触れてしまいそうで、
触れたら壊れる気がしたから。
「……なあ、キリちゃん。覚えとるか。」
おっちゃんは、独りでに続けました。
「ワシが肝臓いわして入院しとった時、見舞い来てくれたよな。」
息を呑んで、言葉の行き先を待ちました。
私は、おっちゃんが入院していたことすら知らなかったんです。
親戚が、「しばらく山田のおっちゃんからは距離を置いた方がいい」
と、ひそひそ話していた記憶だけが、輪郭を残していました。
「白い花、持ってきてくれたよな。
『長生きしてね』って言うてくれたやんか。」
私は花なんて渡していない。そんな言葉も言っていない。
それなのに、おっちゃんの声は、まるで私がそこにいたみたいな確信でできていました。
否定したら、その確信の根っこが折れてしまう気がしました。
折れた瞬間、おっちゃんはきっと、何も持たない人になる。
その姿を想像することが、私には怖かった。
私は、小さく頷きました。
嘘に頷いたのではなく、“折らない”ことへの選択でした。
おっちゃんは安心したように息をつきます。
「キリちゃんのあの言葉な……。
あれで、ワシ、死んだらあかん思たんや。
それで酒やめれてん。あれから一滴も飲んでない。」
私は、本当に何もしていません。
でも、その言葉を否定できませんでした。
ただ隣に立っていることだけが、その時の私の本当でした。
少し間を置いて、おっちゃんはまた言いました。
「……なあ。あの日のこと、覚えてるか。
大雪の日や。学校まで迎えに行ったやろ。
手ぇつないで、一緒に帰ったんや。」
大雪なんて、毎年のことでした。
私にとって雪は、記念日にならない。
でも、おっちゃんにとっては、たぶん“あの日”になる。
降り方が違う。
土地が違う。
寒さの種類が違う。
それでも、おっちゃんの記憶の中で、
私とおっちゃんは、同じ雪を踏んでいる。
「滑らんようにって、転ばんようにって、言うてくれたやろ。
あれな……ずっと覚えとるんや。」
私は返事ができませんでした。
おっちゃんはポケットに手を入れたまま、目を細めました。
「冬の工場、冷えるけどな。
あの日思い出したらへっちゃらやねん。
ありがとうな、キリちゃん。」
私は、何もしていない。
でも、ありがとうだけが、世界でいちばん嘘じゃない顔で手渡されていく。
その「ありがとう」を、床に落として壊すことは、どうしてもできませんでした。
おっちゃんは、欠けた指先をまじまじと見つめながら、少し笑いました。
「若い頃な。仕事、全然続かんかった時期があってな。
行くとこ行くとこで、怒鳴られて、
“お前は使えん”言われて……。
ほんま、どうしようもなかったんや。」
「そん時にな……キリちゃんが教えてくれたんやで。」
私は顔を上げました。
「……私、ですか?」
「せや。“あの工場がええよ”って言うてくれたやろ。」
私は、その頃まだ生まれていません。
それなのに、おっちゃんの話の中で私は、確かにそこにいる。
時間の順番が崩れているのに、声だけが整っている。
「もう三十年になるんやで。
正規でずっとやってこれたんは……、
キリちゃんのおかげやと思っとるんや。」
おっちゃんは照れたように肩をすくめました。
「みんなには笑われるけどな。
おっちゃんはずっと、“キリちゃんのおかげや”って思っとるんやで。」
「……やから、ありがとうな。」
私は、静かに頷きました。
「……はい。」
それは嘘への肯定ではなく、その「ありがとう」だけに向けた返事でした。
唐突に戸の向こうから、姉が私を呼ぶ声がしました。
おっちゃんは小さく息をつきます。
「……行かな、あかんな。」
玄関灯の輪の中で見る横顔は、
さっきより静かで、どこかほっとしたようにも見えました。
「来てくれて……ありがとな。」
「いえ。」
「また……会ってくれるか。」
「……法事がある時にでも。」
私がそう返すと、おっちゃんは次の瞬間、いつもの調子で笑いました。
嘘で人を楽しませようとする笑い方。
「次会えるのがワシの葬式じゃなかったらええけどな。」
背を向けかけたところで、おっちゃんは、もう一度振り返って言いました。
「そうならんように……しっかり生きるからな。」
私は何も返せませんでした。
返す言葉が見つからなかったというより、
その背中がすでに夜に溶けていくみたいで、声をかける間もなかった。
——そして今。
私の前にある遺影は、煙の向こうで笑っていました。
あのどうでもいい冗談だけが、時間を越えて、
正確に当たってしまったのです。
誰かが咳払いをして、
会場の空気が、わずかに動きました。
私はうつむいたまま、ただ流れに従いました。
気づけば、火葬場へ向かう車の中にいました。
窓の外は、どこまでも薄い色で、信号だけが妙に赤い。
火葬場の待合室は、葬儀会場よりも明るくて、その明るさが、逆に怖かった。
白い壁。自販機の光。誰かが飲む紙コップの音。
悲しみが、生活の素材に戻されていく。
棺の前に並ぶように促され、私も列の一部になりました。
一人ずつ、花を手向けていく。
順番が来る前に、私は動作だけを頭の中でなぞりました。
間違えないことだけを意識する。
焼香のときと、同じ。
手に持った花が、少しだけ震えたそのとき、
背後から声がしました。
「……あなたが、キリちゃん?」
知らない人の声でした。
親戚なのだろうけれど、私の記憶のどこにもいない顔。
私は、ただ小さく頷きました。
「あの人ね……。
ずっと、あなたの話してたよ。
何度も、何度も。
大切に、大切にね。」
言葉が胸の奥に落ちる前に、もう一言が続きます。
「来てくれて、ありがとう。
きっと嬉しがってると思うよ。」
その瞬間、私はあの冗談を思い出してしまいました。
——次会えるのが、ワシの葬式じゃなかったらええけどな。
あの日聞いた中で、いちばんどうでもいい嘘。
笑って流してよかったはずの、軽い言い回し。
それだけが、最後まで笑えないまま、残ってしまった。
悔しくて、涙が出ました。
泣く資格があるのか分からないのに、涙だけが先に。
私はようやく、棺の中の顔を見ました。
煙越しよりも、ずっと、輪郭が遠かった。
遺影の笑顔とは違って、そこにあるのは、ただ、沈黙でした。
嘘も本当も、もう言えない沈黙。
花を置く場所を探してから、私は手を伸ばしました。
せめてこの行為だけは、嘘にならないように。
「……安らかに。」
声にならない声で、そう言いました。
花を手向け終えて、私は一歩下がりました。
背中で親戚たちの気配が揺れる。
誰かが鼻をすする音がして、誰かが喉を鳴らして、
世界がまた動き始める。
火葬炉の扉が閉まる音は、嘘のように軽かった。
たった一人で戦い抜いた骨は、嘘のように弱かった。
小さくなった身体を持ち帰る車は、嘘のように冷たかった。
——この世界な、全部ウソやねん。
そんな言葉を思い出しながら、
私は、自販機で缶コーヒーを買いました。
味は、ちゃんとしました——。
山田のおっちゃん @MazumeOchiai
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