第4章. 霧の帝国と水面の下(2)
「……その微笑みは、何だ?」
「はい? 私は普段と何も変わっていませんが?」
そう言いながらも、満足げに自分を見つめる唯一の親友。
アルブレヒトの眉がひくひくと動くが、エーリヒは微笑みを消すことができなかった。
結局、アルブレヒトは堪えきれず、声を張り上げて言った。
「笑うな!」
「はは、分かりました、殿下」
真っ赤になった顔で、自分を睨みつけるアルブレヒト。
彼を『血も涙もない残酷な悪魔』と呼ぶ者たちが見れば、何と言うだろうか。
エーリヒは笑いながらも、胸の奥に切なさを覚えた。
……元々は誰よりも優しい方だった。
代わりに毒を飲んで死んだ猫を抱きしめ、数日も泣いていらっしゃったほど。
しかし、十人の兄弟たちに命を狙われ続けたアルブレヒトは、非情にならざるを得なかった。
弱みを見せれば、命を奪われるだけだったから。
継承権を巡って、兄弟同士が殺し合う中で生き残ったアルブレヒトは、人間らしい面を隠すようになった。
近くにいる部下にさえ、徹底した姿しか見せない。
本当の姿を見せるのは、姉である皇女殿下とエーリヒ自身だけだ。
――このままで、いいのだろうか?
エーリヒは心の中で静かに首を振った。
そんなはずがない。次期皇帝であろうと、至高の座に就く存在であろうと、
その前に一人の人間。
アルブレヒト様は、外見ほど強い存在ではない。殻で自分を固く包み、体を硬直させ、棘を立てているだけだ。
弓も引き続ければ必ず折れる。彼も同じであろう。
強靭でも、ほんの些細なことで折れてしまいそうな、危うさを抱えている。
……アルブレヒト様には、心から彼を理解し、包み込んでくれる伴侶が必要だ。
政略だけでなく、人生を共に歩む、本当に寄り添ってくれる存在が。
エーリヒは金で華やかに装飾された天井を静かに見上げる。
ただ上だけ見上げて、走り続けてきた。
復讐も終わりに近い。リューネの日に最後の一手が待っているだけだ。
――これからは、あの方に幸せを。
アルブレヒト様に見つけてほしい。虚しく空いた心を埋めて、冷えきった心を温め、溶かしてくれる方を。かけがえのない存在を……。
目を閉じて、しばらく祈る。エーリヒは丁寧に礼をし、扉を静かに開けた。
リューネの日まで、あと四日。その前に、彼女と一度は会わなければならない。
***
「うーん」
私の耳と鼻が同時にかゆくなる。
寒いのはオブロフの方がずっと厳しいはずなのに、なぜだろう? カイザースベルクの天気が思ったよりひどいからかしら?
今日もカイザースベルクの朝は霧が濃い。
帝国に憧れる人々は、この古都の霧を『風情』と呼ぶけれど――。
私にはただの寒さでしかない。 こんな冷たい気温は、オブロフで二十年も味わったから、もう充分よ!
考え事をしているうちに、空が少し明るくなってくる。
薄暗く、光を受けた周囲の建物たちが、歳月の跡を抱えて穏やかな影を落としている。
神秘的で、つい見入ってしまう……霧は好きじゃないけれど。
「そろそろ彼が来るだろう」
エーリヒ・ハルデンベルク。
本当に彼が、エルなの?
胸が勝手に高鳴る。今すぐでも走って行って、確かめたくなる。
『カーチャ……』
あの声を、もう一度聞きたい。私を覚えているのか、知りたい。
私は握っていた拳をゆっくりと開く。厚く立ち込めていた雲が動き始める。巨大な流れに従って、すべてが流れ出していく。
そして、なぜだろう。予感がした。その巨大な流れを止めることができないような、そんな予感が。
「ああ、今日も大使がうるさく小言を言いそう」
面倒くさいな。でも、朝食はしっかり食べなきゃ。
私は止まっていた足を踏み出した。太陽が徐々にその高度を上げていく。
***
「いったい、何をしようとしているのですか」
朝食の席で、今日も大使は小言を忘れない。
腹が立つのに、オレスキーの娘に強く当たるわけにもいかないから。
口から出てくるのは、叫びと囁きの間のようなものだった。――それが妙に可笑しくて、私は内心で笑いを堪えた。
いつも食事を終えると、首都を見物すると言って脱走する私だから。忙しい大使としては仕方ないのは知っている。
けど、朝から小言を聞くのはつらい。
心の広い私が、我慢してあげなくちゃ。
「あら、大使? 誰かに聞かれたら、私が何か不埒なことをしたと思われそうですね?」
「そ、そんなことはありません、は、はは……」
「オブロフを代表する使節として来た私です。その私を五級官吏で迎えたのは、
帝国の明らかな過失でしょう? 適切な待遇を求めて何が悪いのかしら」
「適切な待遇を求めること自体には異議はありませんが……」
引き下がっていたハゲ頭の男が、再び小言を始めた。
「ですが、この程度でも外交紛争になり得ます。
翌日には官吏を派遣したのですから、それで終わらせても――」
「ああ、『むかつくけど謝ってやる』風の二級官吏ですね? あれが適切だと?」
「適切とは言えませんが……。イリィチャ公使、帝国は皇位継承で半年近く内戦状態でした!」
それとこれが何の関係があるんだ。外交に『無能さ』が免罪符になるわけじゃない。
「激しい内戦で、外務大臣も副大臣も亡くなりました。だから、そんな状況を考慮して……」
「相当無能ですね、帝国も。」
「え?」
「私たちより二十倍も大きい帝国でしょう? 一級官吏が十人以上いるはずなのに。どうして一人も残っていないのでしょう。
しかも、情勢を読むのに最も敏感でなければならない外務省が?」
……思わず同情しちゃうわ、アルブレヒト皇子に。あんな帝国の皇位に就くなんて大変。
まあ、一度ひっくり返った国だから、またひっくり返るかもしれないけれど。
……おかげで、こちらのことは楽に片付けられたよね。
「ふむ、それは帝国側の事情でしょうね。とにかく、少しは心を和らげてみては?」
「お断りいたします」
「何をおっしゃいます!」
とうとう大使が爆発した。
「イリィチャ公使! できるだけ言わずに済ませようとしましたが、公使が提示した条件が最大の問題なのです!
そんな荒唐無稽こうとうむけいな条件を持ち出すなんて!
帝国側が公使を、そして我がオブロフをどう思うでしょう!」
「まぁ、大使、声量がすごくて驚きますね。私は大使の娘ではありませんが?」
「クホン!」
統領の娘という私的地位は、こういう時に便利だ。
大使は顔を真っ赤にして深呼吸している。
あの茹ゆでた蛸のような顔の中で、私の悪口をどれだけ言っているのかしら?
――でも、ごめんなさい、大使。この方法が一番楽なんです。
幸い、私のせいで抜ける髪はもうないみたいで良かったですね。
大使はやっと息を整えた。
「この件をオレスキー様がご存知なら、どんなお言葉をかけられるか考えてみられましたか?」
「もちろん。それについては、私が責任を取りますわ」
――父なら、もう電報で全ての報告を受信しているはず。それで何も言ってこないのは?
まずは静かに見守る、ということ。父は私の本質をよく把握しているから。
……きっと笑いながら次を楽しみにしているのだろう。父は、適度な刺激を楽しむ人だから。
だから今は大丈夫。
でも、これから私が父の予測や計画を狂わせたら……。その時はどうなるんだろう。
勘当されるくらいなら、まだマシかしれないけど。
「ふう……、イリィチャ公使。私が今まで微力ながら帝国とオブロフの友好のために、日夜努力してきました。
もし事が悪くいけば、統領閣下に合わせる顔がありません」
「……ご心配は理解しています。
大使がどれだけ尽力されたかについては、私が見た通り『父上』にしっかりお伝えする予定ですわ」
『お前、ずっとこんなことするつもりか? お前の父親が私を派遣した事は知っているだろう?』
『うん、私の父だよ。あなたも分かるよね?』
――のような会話が交わされた。
結局、大使は諦めたようだった。彼が目を閉じ、重く首を落とした。
「そうおっしゃっていただければ……」
「帝国側の返答が間もなく届くはずです。悪い返答ではないはずです」
その時、銀のトレイを持ったメイドが静かに近づき、白い封筒を差し出した。
名前を見て、私は微笑む。
「ご覧なさい」
――エーリヒ・ヴェルナー・フォン・ハルデンベルク。
ハルデンベルク子爵、エーリヒの来訪を願い出る手紙だった。
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