第3章. 狐と毒蛇と狸の間(1)

出発までは、あと一時間四十二分。もう少しで祝賀使節しゅくがしせつとして帝国へ向かうというのに。


――面倒な道化が来たわね。


私は舌打ちした。自分を道化だと気づかない、しかもその滑稽さが人一倍の男。


金と赤が華やかに調和した部屋の中。チクタクと時計の音だけが やけに大きく響いた。まるで私の心臓の鼓動と共鳴しているようだった。


足を組んだまま、向かいに座る血縁者を横目に眺める。マルシャンの高級スーツね。質は上等でも、彼にはまったく似合っていない。


半分とはいえ血が混じっているから顔立ちが悪いわけでもないのに、どうしてだろう?

つり上がった目元と薄い唇、クラシカルな白いスーツ姿がどうにも不調和に映る。


「残念ながら、 時間があまりないですが、大丈夫でしょうか、イーゴルお兄様? ご覧の通り、 準備で忙しいので」

「軽いお出かけにしては、スーツケースが大きすぎるな」


言葉とは裏腹に、目線はあちこちと落ち着かない。なんてずさんなのだろう。私はこぼれそうになる嘲笑を必死に抑えた。


「あら? 聞いていらっしゃらなかったんですか? これからアウフェンバルト帝国へ向かいます。 祝賀使節として」

「今日だったのか! 聞いた時は本当に驚いたぞ。まさか君が帝国に行くとはな」

「最近、あまりにも退屈で。何か新しい刺激が欲しくなりましたの」

「そうか」


信じていない目つき。それでいい。お互いに信じていないのだから。むしろ、信じ合えることが信じられない関係なんだ。


「お兄様、そろそろ用件を聞かせくださいますか?」

「そうだな。ゆっくりお茶でも飲みながら話すつもりだったが……、では本題に入ろうか」


彼は余裕ぶってソファに深く座り直すと、わざとらしく私の愛称を口にした。


「親愛なるカーチャ、先日の提案はまだ有効だということを伝えに来たんだ」

「提案ですって?」

「俺たちがとても良いパートナーになれると言った話だよ」

「ああ、あれね」

「コホン、もちろん簡単ではないだろう。だが、君と俺が力を合わせれば、この国を変えられるはずだ。何よりも、時間はあの老いた者ではなく、若い俺たちの味方なのだから」


自分たちに半分の血を分けてくれた存在を、なんの躊躇もなく『あの老いた者』と呼ぶなんて。異母兄は本当に孝心が深いわね。


「統領の座に就いてから二十年も経つから、あいつももう歯の抜けた狸に過ぎないってわけだ!」


彼は意気揚々とした顔をしていた。私が笑みを浮かべると、彼も嬉しそうに応じた。だがその笑顔の裏が、よく見えている。


――この人間が私をどう思っているかは、よく知ってるわ。

遊び好きの愚かな女。パーティーに夢中で、贈り物に目がない哀れな女。

……後が楽しみね。


私は整った爪を軽く撫でた。元々、こういうのは猫を撫でるように優しく撫でてから、瞬時にその爪を振り下ろすものだ。


「お兄様。交渉とはまず、何を与えるのかを提示するところから始まるのでは?」

「もちろん。俺はこれまで陰で多くの準備をしてきたんだ。政界の支持を集め、良い成果を上げたんだ。そこに君の人脈と才覚が加われば!」

「――加われば?」

「このオブロフは君と俺のものになんだ! 君はオブロフのファーストレディとして――」

「プフッ、はっ、あはははは――!」


堪えきれず吹き出した。あまりに退屈だったから。長々と頑張ったのに、その程度のもの?


「……カーチャ、なぜそんなに笑うんだ?」

「ファーストレディ? その席、すぐに別の女性に譲るんじゃなくて? それが恩恵を与えるように約束する報酬ですか?」

「それに、言葉だけ大げさにファーストレディだって。動きづらいドレスを着て、言いたいことも言えず、壁に飾られた花みたいに笑うだけの立場じゃないですか?」


彼の目玉が忙しく動き始める。まだ私が甘言に惑わされるとでも?


「い、いや、違うんだ。説明が拙かった点は謝るぞ。もちろん、政治に参加する権限も約束するつもりだ。俺と同等に……」

「そこまで」


無邪気で愚かそうに見えていた笑顔が、一瞬で冷えた。空気が凍りつき、イーゴルの瞳が見開かれる。


「味が薄すぎますね。もっと面白い話を期待したのに。例えば…… あなたが今日のお昼に三股かけてた件とか?」

「な、なぜそれを……?」

「それとも、お兄様が私を遠くに売り飛ばそうとしてた縁談の話とか?」

「……!」


額を伝って流れる冷や汗が見えた。必死に冷静を保とうとしていたが、彼の声は震えを隠せなかった。


「何の話だ? 全く分からないぞ」

「ええ、現実逃避もありですよね。でも、一人は年を取りすぎて、一人は愚かすぎて、嫌なんです」

「……今まで愚かなふりをして、油断させていたのか。まったく、狐のような女だな」

「狐って、お兄様のあだ名じゃないんですか? 私は嫌いですけど。表向きは笑顔で善良に振る舞って、実際は真っ黒なのが、全く気に入りませんから」


――そして、虎がいなければ何もできないくせに、身の程も知らずに勘違するのが。

何を根拠に、虎が死ねば自分が森の支配者になると確信しているのかしら?


隠された意味までも賢く察したようで、彼は小さく歯軋りした。しかし、全く恐ろしくはなかった。本当に恐ろしいのは――。


私は時計を見た。


全世界二千個限定のルボワール香水限定版発売日なんだ。それを三流道化劇のせいで買い逃したら、どれだけ悔しいかしら?

時間も潰したし、道化はそろそろ退場の時間よ。


「ところでお兄様? あの徹底的な狸様が、まさか私の部屋に何の仕掛けもしていないと思っていらっしゃるんですか?」

「な、何?」

「あら? だから、あんなに自信ありげだったんですね」


彼の瞳孔が大きく拡張した。イーゴルは、急いで否定した。


「そんなはずない! 俺には常に携帯している盗聴装置探知機がある。この部屋に入った時だって……!」

「まさか、さっきの骨董品みたいな田舎臭い物ですか? まあ、失礼。あまりに時代遅れのデザインで。――かわいそうね」

「何っ!?」

「そんな骨董品に引っかからない最新の盗聴装置、あの父上が持ってないわけないでしょ? オブロフの首長だわよ?」

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