戦争が奪いとったもの
平山文人
太平洋戦争当時、何の咎もなく殺された全ての動物の鎮魂を祈って
冬の寒さが少しずつ薄れてきた3月の終わり頃、池田美和子は柴犬のケンタの散歩に出かけていた。風は少し冷たいが、天気は良く、大空に太陽が輝いていた。
「よし、川についたよ。ケンタ、走ろう!」
ウワン、と返事したケンタと共に美和子は土手を駆け下り、川べりの砂道を走った。海吉川を少し南にくだると海辺に続いていて、潮の香りがしてくる。美和子とケンタは海へ注ぎ込む砂利のところに着くと、彼方の水平線を行く船を発見した。
「おーーーい! おーーーーい」と美和子は口に手を添えて元気よく声をかけた。ケンタも尻尾を振って何回か吠えた。もちろん届きはしないのだが、十分満足だった。と、そこへ、しかめっ面をした一人の老人がやってきた。美和子は身構えた。
「これ、お前、あの船が何か分かってるのか」
「いえ、分かりません」
「あれは大日本帝国海軍の輸送艦じゃ。大切な物資を積んで南方に行く途中なんじゃ。気安く呼ぶんじゃない、敬礼せい」と言いながら額に伸ばした手の平を添えた。渋々美和子も同じことをする。すると老人は満足そうに去っていった。ケンタは切なそうな表情をして、美和子の手を舐めた。
「うん、大丈夫よケンタ。いこうか」
彼女は足元の石ころを蹴っ飛ばした後、橋を渡って反対側の歩道に渡り、咲いている菜の花の匂いを嗅いだり、時折駆けたりしていると、土手の上を走っている誰かの姿が見えた。
「……あれは良子ちゃんだ! なんだかおかしいな」
はっきり見えなかったが、どうも様子がおかしい。美和子は急いで草の茂る土手を昇って、同級生で友達の吉村良子の後を追った。海岸沿いにある古びた倉庫のほうへ行く。そして、その奥へ消えた後、大きな泣き声が聞こえてきた。驚いた美和子がケンタと共に駆けつけると、良子は空を仰いで涙を流していた。
「良子ちゃん! 一体どうしたの!」という美和子の声に良子は一瞬泣くのをやめた。
「美和ちゃん! ……殺されるんよ、うちのハナがころされてしまうんよ!」
「一体なぜ? 誰に殺されるの?!」
「おくにのために、兵隊さんのコートの裏地に毛皮を使うからって、明日役場に連れて行かないといけないの。ハナの体毛を使うために殺すのよ」
「ええっ、そんな、ひどい! ……あんなに可愛い猫を」
美和子は何度も良子の家に遊びに行ったことがあり、三毛猫のハナを抱っこしたこともある。人懐っこく、愛想よくにゃあと鳴いてくれる子だ。
「お母さんにどこかに隠そう、と言ったけど駄目だった。そんなことして憲兵ににらまれたら何をされるか分からないって」と、話した後、良子は再び両目から涙をこぼしはじめた。美和子は何も言えなかった。ただ、そこで一緒に泣くことしか出来なかった。海から吹いてくる風が少女二人に吹き付けていた。
二人は泣くだけ泣いて、暗くなってきたので手をつないで帰った。別れる時も、またね、とお互い言葉少なだった。そして、暗くなってくる町を一人歩きながら、美和子は胸が締め付けられるような痛みを覚え始めた。まさか、ケンタまで……と想像すると、心臓が早鐘のように鳴った。玄関前の犬小屋につないで家の中に入ると、なんだかいつもより暗い気がした。台所に入って帰ったと母親の民子に挨拶すると、母親は飛び上がったような感じになった後、取り繕うように、お、お帰り、とだけ言った。美和子はますます嫌な予感がした。そして、祖母のまつと父親の次郎も揃って和室で夕食がはじまった。配給制になっているため、芋やらかぼちゃのようなものばかり。ご飯にもひえだのが混じっていて美味しくないのだが、何も言わずに美和子は食べた。彼女が食べ終わった後、次郎が意を決したように美和子に話しかけた。
「美和子、これからお前にとって辛いことを話すが、落ち着いて聞いてほしい」
再び美和子の心臓が激しく動き出した。
「ケンタのことなんだが、明日、役所に連れていくことになった。軍人さんのコートの裏地に毛皮が必要なんだ。だから……」
「いやだ!!!」美和子はまつが思わず体をそむけるほど大きな声を出した。そして、立ち上がって玄関に走った。慌てて民子が後を追いかける。美和子はケンタの首にリードをつけた。逃げるんだ。山の中に隠す。
「待ちなさい!」
追いついてきた民子に肩をつかまれる。美和子は抵抗したが、まだ小学三年生、とても母親にはかなわない。無理やりリードを奪われた。ケンタは驚いて必死に吠えている。次郎も出てきて、美和子の手をつかむ。
「落ち着きなさい美和子。これは国の決めた事だから、どうしようもないんだ。ケンタを供出しないと、お父さんが特高警察に捕まってしまうんだ」
「えっ……」
特高と聞いて美和子は体を震わせた。子どもですらも、特高が恐るべき存在なのは噂話で知っているのだ。やがて、美和子は座り込み、ただただ泣いた。体中の水分が全部涙になって流れ出るほどに。何も分からないケンタは美和子の頬を舐め続けた。その様子を、次郎と民子はただ見守ることしか出来なかった。暗い夜が町を包み込み、空には星一つ見えなかった。
翌日、美和子は小学校を休んだ。とても起きることは出来なかった、一晩中泣いて泣き疲れたからだ。民子は何も言わず、枕もとに朝ご飯のおにぎりとたくあんを置いて、全く行きたくもない役所へ重い鎖を引きずる足取りで出かけたのだった。
目を覚ました美和子は、昨日の記憶をすぐに思い出し、犬小屋へ走った。もしかしたら、父母が気を変えるかもしれない、と思ったからだ。しかし、そこには空っぽの犬小屋があるだけだった。美和子は飲み込めない巨大な風船を喉に詰め込まれたような気持ちで、布団に体を投げ出して、声もなく枕を濡らしていたのだった。
池田家と吉村家は互いに娘が愛するペットを失って落ち込んでいる事を受けて、しばらくしてから彼女ら二人を地元の動物園に連れて行った。可愛らしい数々の動物たちの姿は、美和子と良子を随分慰めてくれたらしい。特に二人は長い鼻で輪を回したり、立ち上がるポーズを見せてくれたゾウ三頭をとても気に入って大喜びしていた。民子は、これで少しでも元気になってくれれば、と思い、その数か月後にもう一度動物園に連れて行った。二人はますます喜んで、ゾウの飼料場の前から離れなかったほどだった。そして、また来月も……と民子が予定を考えていた時、信じられない記事を新聞で読んだ。
下野動物園のゾウ、三頭とも殺処分 空襲時に逃げ出すのを防ぐため 他の猛獣も
民子は見出しを三回読んだ後、新聞ごと燃やそうかと思った。せっかく! せっかく美和子たちがあんなに喜んで気に入っていたのに!! 民子は取りあえずこの記事のある面だけを破り捨てた。まだ小学三年生だが、この程度の漢字は読めるかもしれないからだ。しかし……いずれまた催促されるだろう、下野動物園に行きたい、と。その時どうすればいい? 民子は初めて強く激しくこの戦争を憎んだ。何の罪もない動物たちを殺すのが正しいことなのか? お国のためと言えば何でも許されるのか? まだ幼い娘の心をこれだけ踏み躙って天皇陛下万歳もあるもんか。……もちろん、誰にも、夫にすらこんな事は口が裂けても言えない。民子は肩が重くなるのを感じた。和室から庭に出た。見上げた空は鉛色で、厚い雲が完全に太陽を隠していた。遠くから金属を鈍く叩くような音が聞こえる。庭に咲いている青の紫陽花の美しさも今の彼女には響かない。民子には何ひとつ希望がないように思え、引きずるように体を台所へと運んでいった。(完)
戦争が奪いとったもの 平山文人 @fumito_hirayama
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