【自分探し恋愛短編小説】棘と薔薇 ~ゴスロリコーチとテンカウント~

藍埜佑(あいのたすく)

序章 サンドバッグは答えない

 サンドバッグを叩く音が、錆びた換気扇の羽音と混じり合う。


 真珠洲ますずあきらは左のジャブを三発、続けて右ストレート。女子にしては重いパンチがサンドバックを確実に揺らす。

 革と汗の匂いが鼻腔を満たしていく。バンテージを巻いた拳が、反動で痺れる。


 もう一度。

 もう一度。

 同じコンビネーション。

 同じ軌道。

 同じ結末。

 同じ手応え。


 当たっている。


 確かに当たっている。


 なのに——何かが足りない。


 十八歳の夏。インターハイ決勝で負けてから、晶の拳はどこか空回りしていた。技術的には向上している。フットワークも、ディフェンスも、コーチに褒められる。数値で見れば、確実に成長している。


 


 何が違うのか、言葉にできない。ただ、リングの上で相手と向かい合ったとき、かつて感じていた「これだ」という感覚が、消えている。


「おい、晶」


 村雨会長の声。六十二歳、白髪混じりの坊主頭。元東洋太平洋チャンピオン。

 晶がこのジムに通い始めてから四年、ずっと見守ってくれている。


「集中できてねえな」


「……してます」


「嘘つけ。サンドバッグと喧嘩してどうする。お前、最近ずっとそうだ」


 晶は拳を止めた。額から汗が滴り、コンクリートの床に小さな染みを作る。


 古いジム。天井には蛍光灯が三本、うち一本は点滅している。壁には歴代の選手たちの写真。その中に、晶の姿もある。去年のインターハイ、準優勝のトロフィーを掲げる写真。笑っていない。負けた試合の後だから、当然だ。


「会長」


「あん?」


「俺、何が駄目なんすか」


 村雨は腕を組んだ。しばらく黙っていた。壁の時計が、かちかちと秒を刻む。隣のリングでは、男子部員がミット打ちをしている。革を叩く乾いた音。


「お前は強い」


「……」


「技術もある。根性もある。でもな、晶。お前は——」


 言いかけて、村雨は首を振った。


「まあ、口で言っても分かんねえだろうな」


「何すか、それ」


「おい。お前に一人紹介したい奴がいる」


「誰すか」


「コーチだ。


 晶は眉をひそめた。このジムにトレーナーは二人いる。大和と、非常勤の佐々木。二人とも、晶の面倒をよく見てくれている。それが今さら新しいコーチ?


「会長、俺、大和さんで十分——」


「大和じゃ駄目だ。お前に必要なのは、


「じゃあ何すか」


 村雨は答えなかった。ただ、晶の目をじっと見ていた。その視線に、晶は言葉を失う。見透かされているような、丸裸にされているような、そんな感覚。


「来週の土曜、十四時にここに来い。絶対に遅れるな」


 それだけ言って、村雨は事務所に戻っていった。


 晶は、サンドバッグの前に立ち尽くしていた。


 窓の外では、夕焼けが金沢の街を染めていた。九月の空気は、まだ夏の残り香を含んでいる。遠くで救急車のサイレン。近所の犬の鳴き声。どこかで誰かが笑っている。


 晶は、自分の手のひらを見下ろした。


 バンテージに包まれた拳。この四年間、何千回、何万回と握り締めてきた拳。


 なのに、今——この手が、自分のものじゃないような気がする。


 借り物の手。

 借り物の体。

 借り物の自分。


 その違和感は、ボクシングを始める前から、ずっとあった。

 これまではリングの上でだけ、それを忘れられた。殴り合っている間だけ、


 でも最近は、その感覚すら薄れている。


「……くそ」


 晶は、もう一度サンドバッグを叩いた。革が揺れる。埃が舞う。


 何かが、壊れ始めている。


 それが何なのか、晶にはまだ分からなかった。

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