第2話:太客の正体

 月曜日の朝。

 大学の講義室は、死んだ魚の腐敗臭のような倦怠感に包まれていた。

 一限目。必須科目の「現代社会論」。

 出席を取ることだけが目的の、生産性ゼロの時間だ。


 私は教室の最後列、窓際の一番目立たない席に陣取っていた。

 服装は、毛玉だらけのグレーのパーカーに、ゴムの伸びきったスウェットパンツ。

 髪はボサボサのままキャップに押し込み、顔半分を覆う黒マスク。

 そして、度の強い牛乳瓶の底みたいな丸メガネ。


 これが、私の「完全迷彩(ステルス)モード」だ。

 昨日の「セナ」とは、DNAレベルで別人にしか見えないはずだ。

 オーラ値ゼロ。存在感マイナス。

 誰の視界にも入らない、キャンパスの背景モブA。

 それが、大学での私、月島雫だ。


「……ふわぁ」

 マスクの下で大あくびをする。

 昨日のデートの疲労が抜けない。

 足の裏には、まだ昨日履いた安物パンプスの痛みが残っている。水ぶくれが潰れて、歩くたびにズキズキする。

 治療費(絆創膏代)、五百円。経費で落ちないかな、これ。


 私はスマホを取り出し、計算機アプリを叩く。

 昨日の売上:16,000円。

 今月の推しの舞台チケット代(S席×3公演):39,000円。

 不足分:23,000円。


「……死ぬ」

 小声で呟く。

 あと二回、デート案件をこなさないと、推しに会えない。

 来週はレポートの提出もあるし、シフト入れるのキツいな。

 いっそ、カップ麺を1ランク下げて(PBブランドに変更して)、食費を浮かせるか?

 いや、あれ以上質を落とすと、肌荒れして「セナ」の品質に関わる。美容皮膚科に行くことになれば、トータルで赤字だ。


 そんな、世知辛い損得勘定を脳内で繰り広げていた時だった。


「ご、ごめん。ここ、空いてる?」


 隣から声をかけられた。

 心臓がヒュッと縮む。

 大学で私に話しかけてくる人間なんて、宗教勧誘か、マルチの勧誘か、ノートを借りたいだけの搾取者くらいだ。

 私は警戒度MAXで顔を上げる。


「……あ、はい」

 できるだけ愛想悪く、ボソッと答える。

 隣に座ったのは、チェックのシャツを着た地味な男子学生だった。

 どこにでもいるタイプの、冴えない大学生。

 リュックを抱えるようにして座り、縮こまっている。


 ……ん?

 なんか、このチェック柄、見覚えがあるような。

 昨日の「山下公園デート」で、隣を歩いていた男が着ていた服に似ている。

 まさかな。

 あの「カモ」が、同じ大学の、しかも隣の席に座るなんて確率、天文学的数字だろう。


 私は興味を失い、再びスマホに視線を落とそうとした。

 その時。

 隣の男が机に置いたスマホの画面が、チラリと見えた。


 ロック画面。

 そこには、昨日の「セナ(つまり私)」の自撮り写真が設定されていた。

 しかも、デート中のカフェで「あーん♡」ってしてる、一番あざといキメ顔のやつ。


 ……は?


 思考が停止した。

 脳内のCPUが処理落ちを起こす。

 再起動。

 情報を整理しろ。

 

 1.目の前の男は、チェックのシャツを着ている。

 2.声が、昨日ずっと聞いていた「海、大きいね」の男と同じ周波数。

 3.スマホの待ち受けが、私(セナ)。


 カチッ。

 パズルのピースが、最悪の形でハマった。


 こいつ、夏目智也だ。

 昨日の「太客」。

 あの一万六千円の源泉。


 ウソでしょ!?

 全身の毛穴から冷や汗が噴き出した。

 マスクの下で口が開いたまま塞がらない。

 バレる?

 いや、待て。落ち着け月島雫。

 今の私は「完全迷彩モード」だ。

 メイクなし、髪ボサボサ、メガネ、マスク、ジャージ。

 昨日の「春の木漏れ日」セナ様とは、生物としての種族が違うレベルで別物だ。

 親でも気づかない自信がある。


 私はこっそりと横目で彼を観察する。

 智也は、授業を聞くフリをして、机の下でスマホをいじっていた。

 画面には、レンタル彼女の専用アプリ『Eternal Chat』が開かれている。

 そして、私のプロフィール画面を食い入るように見つめている。


 『セナちゃん、昨日はありがとう! クッキー食べてくれたかな?』


 メッセージ送信画面に、そんな文章が打ち込まれている。

 うわ、重っ。

 朝イチでファンレター送ってくるタイプかよ。

 しかもクッキーの感想催促とか、一番めんどくさいやつじゃん。

 捨てたよ。今朝の可燃ゴミで出しちゃったよ。


 智也は、送信ボタンを押すのを躊躇っている。

 指先が行ったり来たり震えている。

 早く送れよ。

 あ、でも今送られても困るか。

 私のスマホがバイブするから。


 ブーッ。

 あ。

 私のポケットの中で、スマホが震えた。

 智也がビクッとして、こちらを見る。

 

「……あっ、ごめん」

 智也が焦ったように言う。

 私と目が合う。

 至近距離、三十センチ。

 メガネ越しの視線と、彼の怯えたような視線が交差する。


 バレるか?

 「あれ、声が似てる?」とか言われるか?

 私は息を止めた。心臓がうるさい。


「……あ、いや、なんでもないです」

 智也はすぐに目を逸らし、再びスマホに視線を戻した。

 興味なし。

 完全に、私を「背景」として認識した反応だ。


 ……勝った。

 私の迷彩スキルは完璧だ。

 

 ホッとすると同時に、ドス黒い感情が湧き上がってくる。

 なんだよ、お前。

 昨日はあんなに「君が運命の人だ」とか言ってたのに。

 化粧落としたらこれかよ。

 同じ人間なのに、ガワ一枚剥いだだけで、ここまで無関心になれるのかよ。


 男なんて、所詮そんなもんだ。

 金払って買ってるのは「私」じゃなくて、「セナという幻想(パッケージ)」なんだ。

 わかっていたことだけど、目の前でまざまざと見せつけられると、乾いた笑いしか出てこない。


 智也のスマホ画面が見える。

 彼は、『Eternal Chat』の課金画面を開いていた。

 【次回予約:2時間パック(延長オプション付き)】

 【合計金額:25,000円】


 ……マジか。

 確定ボタンを押そうとしている。

 おいおい、大学生のバイト代で二万五千円だぞ?

 大丈夫か? 来週の飯食えるのか?


 しかし、私の脳内電卓は、即座に別の計算を弾き出していた。

 二万五千円。

 手取りで一万五千円くらい。

 昨日の不足分と合わせれば……推しのチケット代、完済できる!


(……押せ!)

 私は心の中で念じた。

 マスクの下で、ニタリと笑う。

 同情? いらない。

 お前が金を使いたいなら、私は喜んで受け取る。

 それが私の生きる糧(推しへの貢ぎ物)になるなら、お前は神様だ。


 智也の指が、震えながらも【確定】ボタンをタップした。

 チャリーン。

 私のスマホに、予約確定の通知が届く。


「……よしっ!」

 智也が小さくガッツポーズをした。

 嬉しそうな顔。

 昨日の「花が咲いたような笑顔」が、薄暗い教室で再現される。


 バカな奴。

 その二万五千円を受け取る相手が、隣で死んだような目で座っているとも知らずに。


 私は彼を横目で見ながら、冷めた思考を巡らせる。

 こいつは「太客」だ。

 私の生活を支えるATMだ。

 大学での接点はリスクだが、情報を引き出せるチャンスでもある。

 彼の好み、悩み、弱点……全部リサーチして、もっと効率よく搾り取ってやる。


 教授が眠たい声で講義を始める。

 私はノートの端に、メモを書き殴った。

 『ターゲット情報:夏目智也。同じ大学。学部同じ。隣の席。チョロい。推しへの愛だけは本物(ただし対象は虚像)。攻略難易度E(イージー)』


 ふと、智也が筆箱から何かを取り出した。

 昨日のクッキーの余りだろうか。

 タッパーに入った真っ黒な物体を、愛おしそうに眺めている。

 ……うわ、自分で食うんだ。

 健気というより、もはやホラーだ。


 私はゾッとして、少しだけ椅子を彼から遠ざけた。

 こいつの純愛は、たぶん重たい。

 物理的にも、金銭的にも。

 深入りしないように気をつけよう。

 あくまで「ビジネスパートナー」として、骨までしゃぶり尽くすだけだ。


 私の大学生活に、とんでもない爆弾が設置された。

 でも、爆発するまでは、この熱を利用させてもらう。

 ごめんね、智也くん。あなたの青春、全部私の推しのために使わせてもらうから。


(つづく)

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