『ロジカル・マギ:元ホスト社長は異界の交渉も完遂する』
春秋花壇
第1話:シャンパンコールは契約の合図
第1話:シャンパンコールは契約の合図
窓の外、西新宿の高層ビル群が夕刻の琥珀色に染まっている。 佐藤光紀は、イタリア製のデスクに深く腰掛け、万年筆の重心を指先で弄んでいた。冷房の効いたオフィスには、わずかに高級なアロマの香りと、静寂を切り裂くような加湿器の微かな稼働音だけが漂っている。
「……そろそろ、アポイントの時間か」
時計の針が重なる直前。突如、視界が歪んだ。 空間が、まるで熱せられたアスファルトのように陽炎を放ち、冷ややかな空気を熱風が塗り替える。鼻を突くのは、焦げた草木と、どこか懐かしい雨上がりの土の匂い。
「た、助けて……人間……」
床に崩れ落ちたのは、人間ではなかった。 背中には千切れた薄羽、透き通るような肌は泥に汚れ、ボロボロの布を纏った少女——いや、精霊だ。彼女の瞳には、底知れない恐怖と、絶望の澱が溜まっている。
普通なら悲鳴を上げるか、腰を抜かす場面だろう。しかし、サトウは眉ひとつ動かさず、デスクから立ち上がると、ゆったりとした足取りで彼女の傍らに跪いた。
「いらっしゃいませ。……と言いたいところですが、まずは深呼吸を。酸欠は思考を鈍らせます」
「何……を……? お前、私が怖くないのか……!?」
「恐怖という感情は、未知に対して発生するエラーです。今の私にとって、貴女は『極めて緊急性の高い、初見のクライアント』に過ぎません」
サトウはそっと、彼女の冷え切った指先に触れた。氷のように冷たく、それでいて心臓の鼓動だけが早鐘のように指先に伝わってくる。サトウは迷いなく、オフィスに備え付けられた高級茶器を手に取り、温度を調整したハーブティーを注いだ。
「まずは座って。このソファは特注です。腰の沈み込みが、貴女の緊張を五パーセントは和らげてくれるはずだ」
精霊は呆然としながらも、促されるままソファに体を預けた。温かいカップを差し出されると、湯気とともに立ち上るベルガモットの香りが彼女の鼻腔をくすぐる。一口含んだ彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ、泥に汚れた頬を洗った。
「落ち着きましたか? 味がわかるのは、生存本能が機能している証拠です」
サトウは対面の椅子に座り、足を組んだ。その所作は流麗で、かつて歌舞伎町の夜を支配した男の風格が、ビジネススーツの奥から滲み出ている。
「さて。お茶を飲みながら、課題を整理しましょう。貴女がここに迷い込んだ理由、そして背負っている問題……すべて言語化してください」
「私の故郷が……精霊界の森が、黒い影に食われているの。誰も抗えない。みんな、ただ逃げるだけで……。私、あてもなく扉を叩いて、気づいたらここに……」
彼女の声は震え、指先はカップの縁をカチカチと鳴らしている。サトウはその振動をじっと見つめ、脳内のホワイトボードに情報を書き出していく。
「なるほど。原因不明の侵食、既存コミュニティの崩壊、そして貴女自身の帰属意識の喪失。……典型的な『不測の事態におけるマネジメント不足』ですね。精霊界のリーダーは、この件にどう対処しているんです?」
「リーダー……? 長老は、運命を受け入れろって……ただ祈るだけ……」
サトウは小さく、鼻で笑った。その笑みは冷徹だが、どこか頼もしさを孕んでいる。
「『祈り』は戦略ではありません。それはただの思考放棄だ」
彼はデスクに戻ると、一通の書類を取り出した。それは彼がホスト時代から磨き上げ、経営者として完成させた「契約書」の雛形だ。
「貴女の森を救う方法なら、今この瞬間に三つ思いつきました。一つ、黒い影の『捕食ロジック』を解明し、逆位相のエネルギーで中和する。二つ、侵食された領域を損切りし、精霊たちを新たな居住区へ移転・再編する。そして三つ目——」
サトウは万年筆を彼女に向けた。
「私が、その『黒い影』と直接交渉し、立ち退かせる。……どうしますか?」
「そんなこと、人間にできるわけ……! 相手は言葉の通じないバケモノよ!」
「この世に、言葉の通じない存在なんていません。ニーズがある限り、そこには必ず交渉のテーブルが存在する。私が必要なのは、貴女の『依頼』という名の合意だけです」
精霊は顔を上げた。サトウの瞳の奥に、揺るぎない自信と、すべてを見通すような理知的な光を見た。彼女はごくりと唾を飲み込み、震える声で告げた。
「助けて。私たちの森を……。あなたの力で」
「承りました。……では、契約成立の合図を」
サトウはパチンと指を鳴らした。 すると、オフィスの天井からシャンパンの泡が弾けるような、輝く光の粒子が降り注いだ。それはホストクラブで客を熱狂させた「シャンパンコール」を彷彿とさせる、あまりにも華やかで、暴力的なまでのポジティブなエネルギー。
「お姫様、顔を上げてください。下を向いていては、勝てる交渉も勝てなくなる」
サトウはクローゼットから予備のジャケットを取り出し、羽織った。ネクタイの結び目を完璧に整え、鏡に映る自分に微かな笑みを浮かべる。
「感情は変数、論理は定数。そして、私のコミュニケーションに不可能はない」
彼は扉を開けた。その向こう側には、いつものオフィスビルではなく、黒い霧に包まれた異界の森が広がっている。 元ホスト、現経営者。 佐藤光紀の、次元を超えた「コンサルティング」が今、幕を開けた。
「さあ、まずはその『黒い影』に挨拶といきましょう。……手ぶらで行くのは失礼ですから、最高の『論破』という手土産を持ってね」
彼の背中を追いかける精霊の目には、もう先ほどの絶望はなかった。ただ、この男なら世界の理さえ書き換えてしまうのではないかという、未知なる期待に胸を高鳴らせていた。
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