11
首筋にものすごい衝撃を感じたあと、最初に視界に入ったのはプラットホームの地面だった。
その地面に黒い何かがわだかまっている。顔の間近にそれはあった。
視界は曇っていた。霞がかかっているような状態だった。物凄い苦痛のせいだろう。
自分は死ぬのだ――
まさかこんな時が来るとは思ってもいなかった。しかもこんな形で。
強烈な理不尽さを感じた。だがそれも死という圧倒的な重石の前には瑣末事だった。
痴漢だという汚名を着せられ、社会的に抹殺されようとしていた。あの場から逃げ出すことがそれを防ぐ妙案ではなかったが、とにかく逃げたかった。たとえそれが認知症の母親を見捨てることになろうとも、あらゆる厭わしい現実から逃げ去りたかった。
プラットホームから線路に降りて、その向こうにある金網をよじ登って逃げようとした。だが、そこへ電車が突っ込んで来て――
真治の意図は図らずも成就した。俺はまもなく死ぬ。すべての現実から解放されるのだ。
しかし地獄の業火に焼かれているような苦痛は耐えがたかった。
このまま苦痛の炎に炙られたまま焼け死んでしまうのか。嫌だ。誰か助けてくれ。真治は火刑に処せられているような苦痛から逃れようという強い意思の塊と化した。
目の前にわだかまっている黒いものは血ではなかった。真治自身の影、正確には電車とぶつかったときの衝撃で千切れた彼の首から上の部分の影だった。
千切れた首は右の頬を下にして横たわっていた。首の断面から流れ出る真治の血液は影と反対方向に血溜まりを広げていた。
影は底なしの闇のように見えた。だが寒々として冷え切っていて随分と涼しそうだ。そこへ行けば、自分を苦しめている業火のような苦痛が和らぐかもしれない。
痛みから逃れたい一心で真治は、その闇の中に自分の意識を埋没させた。それが自分自身の影だとは知る由もなく、真治は燃え盛る苦痛をその冷たい暗闇の中で冷まそうとした。
彼の目論見は成功した。暗闇の中に自分がいる――そう実感した途端、嘘のように苦痛が消滅した。激しい痛みで霞みがかっていた視界が鮮明になった。真治と接触した電車の先頭車両が見えた。
彼の意識は影の中にあった。主客転倒が起きていた。影の元となるもの――つまり彼の首から上の部分は彼にとっては添え物になった。
しかし彼はそのことに気づいていなかった。
苦痛が消え、精神的な余裕が生じ、視界が鮮明になると、おぼろげながら真治は状況を理解し始めた。
視線を首から下の部分に向けたが、何も無かった。今、自分は首だけの状態で横たわっている。電車にぶつかって首が千切れたのだ。胴体の方がどうなったのかはわからない。
苦痛は消えたが身動きができない。なにしろ手足が無いのだ。しかし喋ることぐらいはできそうだった。
自分を追いかけていた初老の男や大学生に、警察に電話した駅長や自分を痴漢扱いした茶髪の女に恨み言を言ってやりたいが、やつらはそんなことなど意に介さないだろう。『黙れ、痴漢。首だけの化け物め。お前の声と映像をネットでさらしてやる』と罵られ、都市伝説のネタにされるだけだ。
もうたくさんだ。俺は人間社会とおさらばする。絶対に戻らない。母親のことが気がかりだが、首だけになった俺には認知症の母親の面倒を見ることなどできない。それにこんな俺を見て母親は何と言うだろうか。ただでさえ日ごとに俺のことが誰だかわからなくなりつつあるというのに。
人声が聞こえた。女の悲鳴も聞こえる。あの茶髪の女だ。嘔吐する耳障りな声も聞こえる。駅員らしき男たちが喚きながら右往左往している足音が聞こえた。
どのぐらいの時間が経っただろうか。救急車のサイレンの音が聞こえてきた。あの女が気絶したか、あるいは体調が悪くなったのだろう。俺を助けに来たわけじゃない。
救急隊員が女に対して応急処置をしているような会話や物音が聞こえた。それからしばらくして不意に首が軽くなった。ラテックス製の手袋で包まれた手が真治を持ち上げていた。救急隊員の手だった。
病院に運ばれて検死がおこなわれ、葬儀のあと俺の首は火葬場に送られる。火で焼かれるのだ――火だるまになっていたようなさっきまでの苦痛を思い出し、真治は恐怖を覚えた。
やめてくれ おれをつれていかないでくれ
唇が蠢き、かすかに声が出た。
「ヒェーッ!」
真治の訴えに救急隊員の男は悲鳴を上げた。無理もない。首だけになった人間が、いや、千切れた人間の首が喋ったのだ。真治の首は邪険に落とされ、鈍い音を立ててコンクリートの地面にぶつかった。
「何やってんだ!」
首を落とした隊員を上司が叱責した。
真治は焦った。せっかく火あぶりになっているような苦痛から逃れることができたというのに、本当の火あぶりになるのは御免だった。
だが四肢と胴体を失くして首を動かすことができない彼にはどうすることもできなかった。
「しゃべったんです、首が」
「そんな馬鹿なことがあるか!」
「本当です!」
救急隊員たちが押し問答をしている。真治は何とかしてその場から逃げ出そうとした。その「逃げる」という強い意思は、意思が宿っている影を彼の首から引き剥がすことになった。仰向けの首の下に澱んでいた影は、真治の首から分離すると渓流に浮かぶ原油のように地面を滑って逃げようとした。
だが影の元となる肉体、すなわち真治の生首から離れてしまうことによって、真治の感覚を通して得られる情報は影の中に入って来なくなった。真治の影は彼の生首から分離した途端、あらゆる感覚を喪失してしまったのである。突然、真治は五感を失い、何も見えず何も聞こえない漆黒の闇の中に投げ出されてしまった。
そればかりか真治の影はそれを形作るものから分離してしまったため、影としての存在を維持していくことができなくなった。その先にあるのは影の「死」である。プラットホームの地面に浮いている真治の影は急速に色褪せていき、黒から灰色へと変わりつつあった。
それと同時に意識が物凄い勢いで分解していく。薄れていくのではない。分解し、無意味な細かい粒子となっていくのだ。名状しがたいその不快感は、さっきまで感じていた火刑のような苦痛と同等、いやそれ以上のものがあった。
そこから逃れようと真治は何かにすがった。影だけの存在と化した真治はアメーバのようにその一部を伸ばし、手近にある何かにすがりつこうとした。分解する意識をすくい上げ収束させてくれるものを求めて、灰色に色褪せ、消えかかっていた影は動いた。
手応えがあった。硬い。金属と塩化ビニールで構成されたものだ。人間とはかけ離れた存在だったが、意識の入れ物となり、影の元となるものとしては十分だった。
それは駅のベンチだった。一つの椅子が3つでワンセットになっている3人がけのベンチだ。水色の椅子は貝殻が大きく開いたような形のアール・ヌーヴォー風のデザインだった。それが3つ、鉄のフレームでつながって一揃いになっている。
真治が人身事故に遭う直前、線路に飛び降りるときにすぐそばにあったベンチだった。
溺れかかった人間が頑丈な船のへりに手をかけたときのような安心感を得た真治の影は、その安心感を堅牢なものにするために船のへりから甲板へ上がった。新たな拠り所に真治の影は浸透し、駅のベンチは真治の影で覆われた。
その場にいた人間たちは、その様子にまったく気づいてはいなかった。
消えかかっていた真治の影は灰色に色褪せており、その影がベンチ全体を覆う様子は、視覚的にほとんど目立たなかった。そもそも真治の首から上の部分だけの影という、小さな影である。その影が自分よりも何倍もの大きさがある駅のベンチを覆えば、単位面積あたりの影の濃度はよりいっそう薄くなる。しかも真治の無惨な姿に直面している彼らには、影やその影がベンチを覆う様子に注意を向ける余裕など無かった。
真治の影は新しい宿主を得た。そしてその影は真治の影となった。
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