金魚すくい
宝や。なんしい
第1話
じりじりとグラスの縁にとどまっていた水滴がようやく剝がれ、筋を残しながら素早く滑り落ちていった。まずそうな水。飲むべきか悩んでいるうちに、店長がせわしなくやってきて私の前の席に座った。店内には洋食っぽい匂いがまだ残っている。朝11時くらいにアルバイトの申し込みに来ましたとウェイトレスに声をかけたら、3時過ぎてからもう一度来てくださいと言われたので、一旦家に帰ってから出直してきた。
店内には買い物帰りと思われる、老夫婦一組だけが座っていた。終始無言の老夫婦はテレパシーで会話しているような、不思議な安心感に包まれていた。
「ええと、高校生?」
「はい、そうです」
店長はてっぷりとした身体を、いちいち窮屈そうに動かして「ふうん」と言いながらじろじろ見た。
「このカフェはスーパーの中にあるし、結構忙しいよ。女の子でも、おんなじようにやってもらわなあかんけど、大丈夫?」
私が小さい頃から存在するこの古い喫茶店を、店長はあえてカフェと呼んだ。
「はい」
ちなみにおばあちゃんと
「急に来てもらわなあかんこともあるかも知れへんし、厨房に入ってもらうこともあるよ」
私はちょっと考えて「はい」と言った。店長は「それから」と言いながら断る理由を探しているみたいだった。
「メニューはすぐ覚えてもらわなあかんしね」
差し出されたメニューを見た。小さな文字で商品がずらずらと書かれている。眼鏡をかけていなかったので、目を細めて近づいて見ていると、
「あれ、もしかして目、悪いの?」と張りのある声で言った。
「はい」
店長はあちゃあと真ん中の三本の指だけを額にのせて、「目、悪いのはちょっと」と言った。世間知らずの私は、それが断り文句であるということに、しばらく気がつかないでいた。
「うち、眼鏡も禁止やしね」と言いながら、ばたばたと立ち上がり「うん」と言う。
つられて思わず「うん」と繰り返すと、不思議そうな顔をして、今度はしっかりと私の目を見た。そして自信たっぷりに「ということで、うん」と言った。それが面接の終わりを告げているのだということにようやく気がついて、慌てて立ち上がり「すみません」と頭を下げて店を出た。
そのままスーパーの中をあてもなくぶらぶらし、あの場合「すみません」じゃなくて「ありがとうございました」と言うべきだっただろうかと考えていた。
「目の悪い人は働けないのかあ」
本当は私もそんな気がしていた。眼鏡をはずして行ったのはそのためだ。益々、眼鏡をかけている自分の顔が嫌いになった。
さて、じゃあどうするか。またバイト先を探さないと。高校生になったら、なんでもいいからバイトをしろとおばあちゃんにうるさく言われているのに、だらだらしているうちにもうすぐ夏休みというところまできてしまった。冴子姉ちゃんも、いつまでおこずかいもらってんねん、年金暮らしの年寄りに甘えてんと、自分のこずかいくらい自分で稼げ、と容赦がない。でも目が悪いと働けないんじゃ無理やん。バイト料が入ったらまずコンタクトを買うつもりだったけど、そのバイトができないのではどうしようもない。ニワトリが先か、卵が先か。
絶望的な気分でいると「アルバイト急募」という文字が目に入った。雑に切り取られた段ボール紙の片方だけにマジックで殴り書きされていて、天井からぶら下がっている。エアコンの風に吹かれてバランス悪く時々くるくると回転した。センスの欠片もなく切実さがばかりがにじみ出ている。
「いらっしゃい。アルバイト?」
活きのいい魚みたいな目をしたおじさんは、エネルギーで溢れていた。なんとなくお父さんを思い出した。
「ああ、ええと。はい」
「ほんま? ほんじゃ明日はちょうど日曜日やし、早速明日から来て。朝8時。スーパーの通用口にいてる警備員のおっさんに『うおさか』のバイトや言うたら入れてくれるから」そして「通用口はあっちね」とあっちを指さした。私は慌ててうなずいた。喉の奥に何かが詰まったみたいにうまく声が出ない。何か言わなくちゃ。そうそう、目の悪いこと。でもどうしても声がでない。
「あ、うち時給安いねん。ごめんな」
私はうなずいて、かすれた声で「よろしくお願いします」とだけ言ってから、足早に店を後にした。
おばあちゃんにはせっつかれているけど、来週から期末試験もあるし、できればもう少しのんびりしたかった。だけどこちらにも、目の悪いことを伝えていないという負い目があるから、勝手な希望は言えない。というか、これでまた断られるのは、メンタル的に耐えられそうにない。
「あの定食屋か?」
アルバイトのことを報告すると、おばあちゃんは珍しく機嫌がよかった。
「いや、違う。なんかワカメとか置いてる店やった」
そういえば何のお店だったのか、しっかり見ていなかった。私は明日から何屋でどんな仕事をすることになるのだろう。
「ワカメ? 乾物屋かな」
乾物屋というワードは聞いたことはあったけど、どんな店かと聞かれるとよくわからない。
「なんか、魚っぽい感じがしたけど」
「ああ、やっぱり乾物屋やな」
おばあちゃんは納得して、ええやん、ええやん、定食屋よりずっとええわと、更に上機嫌になった。その姿を見て、なんだか少しほっとした。
ふと庭を見ると、月がまるごと落ちていた。庭の隅に置かれた古いベビーバスの中の、水に映った丸い月。やたら立体的で、ぽってりとそこに立っているみたいに見えた。
水をはじく音とともに、月の輪郭が崩れた。ばらばらになった。くっついたり離れたりした。水面はゆったり揺れて、溢れそうだった。
「あ、蓋」
裸足のまま、庭へとジャンプ。皺のないぴんと張った夜の空。手を広げると、そのままずっと高くへ飛んでいけそうな気がした。でも両足は、ゆっくりと夏草の柔らかいところへ着地。
ベビーバスを覗くと、濁った水の中に金魚の赤い背中がちゃんと二つあった。蓋をしていないと猫にやられてしまう。今朝エサを撒いたときに、開けっぱなしにしたまま忘れていたらしい。
まだお父さんもお母さんも妹のまこちゃんもいたから、きっと5年以上は前になると思う。家族みんなで夏祭りに行って、金魚すくいをした。全員で必死にすくったので最初はたくさんいたけど、二、三日で大半死んでしまって、それからは日をおいて少しずつ死んだ。最後に残ったのはこの二匹だけで、それからはどれだけ経っても死ぬ気配はなく、それどころか日に日に大きく成長していった。そのうち小さな水槽では手狭になったので、まこちゃんが赤ん坊の時に使っていたベビーバスを庭に置いて水を張り、そこで育てることにした。蓋は木枠に網を張ったもので、意外と器用なお父さんが作ってくれた。重くてしっかりとした造りになっているから「そこら辺の野良猫は、指くわえて見てるしかないな」とお父さんは笑っていた。
金魚というものは環境に合わせて身体が大きくなるようで、ベビーバスに合わせてどんどん大きくなった。まだ幼かったまこちゃんに、このままやったらいつか鯉のぼりになると思うで、と適当なことを教えたら、空を見上げて眩しそうに目を細めた。まこちゃんには大空を泳ぐ、二匹の鯉のぼりになった金魚の鮮やかな姿が見えているみたいだった。
細長くて刀みたいにシャープな金魚は、弥太郎。うすいピンクの、尾ひれがドレスみたいにひらひらしているラグジュアリーな金魚は、花子。私が名付けた。
次の日、言われたとおり通用口の警備員に「うおさかのアルバイトにきました」と声をかけると「今日からか、がんばりや」と、笑顔ですぐに通してくれた。
スーパーの食料品売り場は、ごちゃごちゃとしていて迷路みたいで、昨日の店がどこだったか分からなくなってしまった。朝の準備で忙しそうにしている店内をうろうろしているうちの本格的に迷ってしまった。そういえば、あの店のおじさんは私の名前すら聞かなかった。人を雇うのにそんなことってあるだろうか。不安でたまらなくなって足が止まりそうになったときだった。
「そっちちゃうで。こっちやで」
振り向くと、細くて背の低い女性が立っていた。
「昨日、うちにバイト申し込んでくれた子やろ。こっちおいで」
女性はそう言ってスタスタと歩きだした。髪をまとめて頭の上できっちりととめている。かなりのボリュームだから、おろすと結構な長さなのだろうと思った。透きとおるような白い肌をしていて華奢に見えるのに、内側からにじみ出るエネルギーは強烈な強引さがある。見た目は全然違うけど、昨日のおじさんと雰囲気が少し似ている。
女性の立ち止まったところは、確かに昨日の店だった。天井から釣り下がっていた求人広告はもうなくなっていた。
「ええと、エプロン、持って来てへんよね。とりあえず私の貸したげるから、今日はそれしといてくれる? できたら次からは自分の持ってきてな。どんなんでもかまへんから」
忙しなくそう言ってから「この店の裏に休憩するスペースがあるから、そのリュック、適当に置いてきて」とつけ加えた。
言われた通りに店の裏へと入ると、両側に段ボールの箱が積み上げられた細長い小さなスペースができていた。無理やり拵えた物置兼安息所といったところか。一番奥にはベビーベッドが置かれてあって、その手前に小さな丸椅子がひとつ。床はタイル張りになっていて、あちこちに汚れがこびりついている。巨大な鯨のお腹の中に入ってしまったような、じめじめとした薄暗い場所だった。生臭い海の匂いが、べったりと皮膚にまとわりついてくる。私はどこに荷物を置いたらいいのか迷って、とりあえず一番清潔そうなベビーベッドの上に置いた。
店先に戻るとおじさんもいて、さっきの女性と喋っていた。女性は大きな赤ちゃんを抱いている。
「おはよう。よろしゅう頼むな。この人はうちの嫁はん。だいたい嫁はんに聞いてくれたらええから。ただ売るだけやし難しいことないし、ぼちぼち覚えてくれたらええよ」
おじさんは上を向いて、がははと笑った。何が面白いのかわからなかったが、つられて私も笑った。
「このおっさんのことは、大将って呼んだって」
奥さんがそう言うと、すかさず大将が「誰がおっさんやねん」と言ってまた笑った。赤ちゃんが急に奇声を発して、ぷっくりとした腕や足をぶんぶん振り回しだしたので、奥さんは身体を揺すりながら裏へと入っていった。あのベッドは、あの赤ちゃんのためだったのか。
「そうそう、初仕事頼むわ。入り口にある定食屋で、コーヒー注文してきてくれるかな。レーコー二つと、ええと、ジブン、何て名前なん?」
「
「あかねちゃんね。あかねちゃんも好きなやつ頼んだらええから、一緒に注文しといで」
そして千円札を一枚渡された。千円札を握りしめ、昨日アルバイトを断られたあの店へと向かった。今度は迷わないように、しっかりと道を覚えていった。店長はいなかった。年配のウェイトレスに注文すると、後で持って行きますと言ってお釣りだけを返してくれた。ミックスジュースにするか悩んだが、計算すると千円では足りなかったので、結局二人と同じものを頼んだ。
オープン前。商品の上には大きな白い布がかけられていて、大将が一気にそれを剝がすと、台の三分の一くらいまでお菓子のような透明の袋が所狭しと並べられていた。それぞれの袋の中には、乾燥したワカメや椎茸やかつお節や煮干しなんかが入っている。残りの三分の二の何も置かれていないスペースには、仕入れてきたばかりの塩干ものや冷蔵庫にしまってあった昨日の売れ残りなどが並べられていった。
奥から順に、山型に積まれたおじゃこの箱。手前に向かって一夜干しの開いた魚や目刺し、塩をした鮭や鯖なんかをきれいに並べていく。台の手前のプラスチックの樽の中には、ぎゅうぎゅう詰めのさんま。一匹300円と書かれた段ボール紙が置かれた。裏に「ルバイト急」という文字。用済みの求人広告がここで活用されていた。
「ここは乾物屋さんですか?」
準備が落ちついて、三人で立ったままレーコーを飲んでいる時に訊いてみた。レーコーというのはコーヒーの冷たいやつのことだということをこの時はじめて知った。シロップとクリームをたっぷり入れると、苦くなかった。
「そうや、乾物屋やで。うちは塩干ものも置いてるけどな。なんや、知らんかったん?」
「はい」
「ふふん、吞気やなあ。そらそうやな、女の子は嫌がるもんな、普通はこんな店。もし知ってたらここでアルバイトしたいとは思わんかったやろ」
奥さんは笑いながら「なんで喫茶店とかにせんかったん?」と言った。耳の縁がぴりぴりとして痛い。耳たぶに触れると冷たかった。
「喫茶店にアルバイトを申し込んだら、目の悪い人はダメと言われたんです。眼鏡も禁止らしくて。ええと、ごめんなさい。目の悪いことを黙ってました。本当はいつも眼鏡をかけています。ここも眼鏡は禁止ですか」
うつむいたまま一気にしゃべった。二人の顔を見るのが怖い。大将は不思議そうに、
「目、悪いん?」と聞いた。
「はい」
心臓がばくばくしている。
「眼鏡かけたらええやん。なんやそこ、変なこと言うなあ。どこやねんその喫茶店」
店長は腑に落ちないという様子だった。
「このレーコーを買った喫茶店です」
「ああ、あの定食屋のドラ息子な。あいつの言うことは気にせんでもええで。そんなんやったらどないして目の悪い人は仕事すんねんなあ。ええから眼鏡かけや。うちは心が広いから大丈夫や」
「せやな。心が広すぎて、バイトを申し込んでくれた子の名前やら連絡先やら聞くの忘れるし、エプロン持ってきてもらうとか、いつ来てもらうとか時給がいくらとか大事なこと何にも伝えてへんし。それでも絶対来るねんって信じてるところがすごいよね。うちの大将。あの子は大丈夫や絶対来る言うてさ。なんやその自信、どっから来るねん」
「だってちゃんと来たやんけ、なあ」と言って照れながら私を見て「バイト料は少ないでっていうのは言うたよな」と念押しをした。私はなんだか少し恥ずかしくなって、うんと小さくうなずいた。
レーコーを飲み終えてしばらくすると、客がやってきた。腰の曲がったおばあさんが押し車を押しながら、立ち止まったり進んだり、ひとつひとつじっくりと商品を見定めている。にわかに緊張してきた。
奥さんが大きな声で「らっしゃいませえ、らっしゃいませえ」と呼び込みをはじめた。サンマの血を丁寧に洗い流していた大将も「らっしゃい、らっしゃい」と叫ぶ。気づくと、周りの漬物屋さんや天ぷら屋さんも一斉に「らっしゃい、らっしゃい」と大合唱。私も言わなくちゃいけないと焦ったけど、ちっとも声は出なかった。
おばあさんはゆっくりやってきて、おじゃこを少し手にとり、当たり前みたいに口に入れた。入れ歯をがくがく動かして噛んでいる。びっくりして奥さんを見たら、「雑味のないおじゃこですやろ。小さいけどしっかり味があって、そのままでもええし、ほうれん草のお浸しにあえてもおいしいですよ。一杯300円」と流れるように言った。そしておばあさんも「ほんじゃ一杯おくれ」と、絶妙なタイミングで応えた。
奥さんは私にビニール袋を渡して、入れるようにうながした。震える手で、升一杯のおじゃこを袋に流し入れる。が、ぱらぱらとこぼしてしまった。背中が熱くなった。奥さんは慌てず「貸して」と私から袋を取り上げて、こぼした分以上のおじゃこを、鮮やかな手つきで追加した。
「サービスしときまっさ」
おばあさんは「おおきに」と満足そうに笑った。
「コツがいるねん。その内できるようになるわ」
おばあさんの後ろ姿を眺めながら、奥さんが言った。
アルバイトは土日と、夏休みに入ったら、定休日の水曜日以外毎日入ることになった。
庭の楠の木に蝉が一匹止まった。とても一匹とは思えない大音量。扇風機を回しているけど、生温い風が部屋の中をぐるぐる回っているだけでちっとも涼しくない。これはコンタクトより先にエアコンを買わないと、マジでヤバいかも知れない。
「また蓋すんの忘れてたやろ」
おばあちゃんがドスドス足音をさせながら、寝ている私のところへやってきて大きな声で言った。蝉を上回る大音量。とても八〇歳を越えた老人とは思えない。
「金魚、猫に喰われてもうたがな」
心臓が、ぐにゅりと動いた。
「ほんまに?」
「ほんまや。水替えたろうと思って」と言いかけてから急に思い出したように「茜がいっこも水替えしたれへんから濁ってしもうて、かわいそうに」と嫌味をつけ加えてから「蓋開いたまんまやったんやで。二匹ともおらんようになってるがな。空っぽや」と続けた。
「猫に食べられたとは限らんやん」
「猫に喰われへんねやったら、どないしておらんようになるんやな。足生えて自分で歩いてどっか行ってしもた言うんか」
おばあちゃんはぐっと私を睨んだまま、
「そんなあほなことないやろ。ええ加減にしいや」と言った。
「そんなん、わからんやん」
何がどうわからんのか自分でもわからなかった。頭の中では、足の生えた弥太郎と花子が仲良く手をつないで去っていく姿が浮かんでいた。もちろんおばあちゃんがどんなに怒鳴っても、この事実は変わらない。おばあちゃんにもそれはよくわかっている。しばらくぶつぶつ言っていたが諦めて部屋を出ていった。私はベッドの縁に腰かけたまま、金魚、と呟いた。その声はお母さんの声によく似ていた。透き通った真っ青な空を悠々と泳ぐ、鯉のぼりみたいな弥太郎と花子。
まず、お母さんがいなくなった。しばらくしてお母さんがまこちゃんを迎えに来て、最後にお父さんもいなくなった。それから私はずっと、おばあちゃんと二人で暮らしている。おばあちゃんはお父さんのずっと前に死んだお母さんのお母さんなので、私からするとひいおばあちゃんにあたる。ジェネレーションギャップが激しくて、だいたいのコミュニケーションにはズレを感じるが、最近はなんとなく通じるようになってきた。おばあちゃんは横暴だが、嫌いじゃない。
朝から苦手なそうめんを食べていると、冴子姉ちゃんがやってきた。
「金魚、猫に食べられてもうたんやって?」
ずかずかと家に上がり込んできて、勝手に冷蔵庫の中から麦茶を出してグラスについだ。
「食べられてへんよ」
「え? どういうこと?」
「盗まれただけやし、どっかで生きてると思ってるから」
「誰が盗むん」
「猫」
冴子姉ちゃんは、喉を鳴らして一気に麦茶を飲んでから、ふうんと言った。
「ま、どっちでもいいけど」
冴子姉ちゃんはお父さんの妹だけど、お父さんとは歳が離れているので、どちらかというと私と近いくらいで、結婚もしてないからいつまでも若い。
「それよりさ、あんた、魚臭くない?」
指先が痛い。昨日バイトで鰺の背骨のぎざぎざが指先に刺さって、その傷に塩が入り込んで、ずきずきと疼く。もしかしてここから菌が入り込んで、私の身体を魚臭くしているのかも知れない。悲しくなった。
「茜、いつまでもだらだら食べてんと早うしいや。バイト行く時間ちゃうんかいな」
おばあちゃんはいつもだいたい怒っている。いつも怒っているから眉間の皺が寝ている時でさえ消えない。時計を見ると、確かにバイトに行く時間が迫っていた。
「今日は給料日やろ」
「そうなん? 給料日なん? 初任給やんな。おばあちゃんになんぼ渡すん?」
嬉々としている冴子姉ちゃん。おばあちゃんが淡々と「半分でええわ」と言った。
半分。いくらか家に入れるつもりではいたけど。
「ははは。半分やてえ、よかったなあ、茜。私なんか全部渡した内から四万円だけしかもらえへんかったで」そして卑屈な感じの変な引き笑いをした。
私は、黙って家を出た。
神社の前を通ると夏祭りの準備をしていた。そうか、今日は夏祭りだ。スーパーの中もオープン前から慌ただしい。今夜はそれぞれの家で、ご馳走を囲んだりするのだろうか。昔はうちも、家族でちらし寿司とかおでんとかスイカを食べた。なぜか夏祭りの時はそのメニューが定番だった。
お母さんは若い彼氏と恋に落ちて家を出て行った。一緒に来る? と誘われたけど、お父さんがかわいそうだからついて行かなかった。そしたら一年も経たないうちに、お父さんも恋に落ちた女性と出て行ってしまった。二人とも決まって「これは純愛やから」と言った。
いつか私も純愛の恋に落ちれば、二人を心から祝福することができるようになるのだろうか。
うおさかでも、朝からお祭り用の特別割引商品を用意していた。甘鯛の切身や、さんまの開き。なかなかの売れ行きだ。スーパーの中はいつもより二割増しでざわついている。
私はまだ一度も「らっしゃい」が言えていない。大将も奥さんも何も言わないけど、きっと待っているのだと思う。今ならこの喧騒に紛れ込ませることができるかもしれない。勇気を振り絞ってみた。
「いらっしゃい、ませ」周りを見たが、誰も気づいていない。もう一度言ってみた。
やっぱり誰も気づかない。大丈夫。もう大丈夫。
「この甘鯛って、どうやって料理するの?」
「きれいな白身でしょ。バターと相性がいいので、塩コショウを少うししてからムニエルにされると、簡単やしとってもおいしいですよ。今日はお祭りなので、フライやとパーティー気分でいいかもしれませんね」
奥さんがいつもお客さんに伝えているレシピを覚えて、最近はアドリブを多少交えながら言えるようになった。私が特に気に入っているのは「塩コショウを少うし」の「少うし」の部分。「う」を入れて伸ばすだけで、やたら本格的に聴こえる。これは奥さんの口癖をそのまま真似ただけだけど、これを言うだけで、魔法をかけたみたいにおいしそうになる。なんだか売れ行きも違ってくるような気さえする。甘鯛のムニエル。見たことも食べたこともない料理だけど、上手に伝えることができるようになった。それにしても毎日料理をしている主婦たちが、よく高校生に料理方法を尋ねて平気だなと思う。
「お客側から見ると、高校生だろうが小学生だろうが、ここに立っているだけでその道のプロやから」
奥さんはクールではきはきしゃべるので、ときどきすごくきつい口調になる時があるけど、納得できることしか言わない。感情論でものを言わないところが、カッコいいと思う。
「今日は夏祭りやし、忙しいけど早よあがってもらってええからね。お弁当食べたら帰りや」
バイトを始めたころは、お昼はスーパーでおにぎりなんかを買って屋上で食べていたけど、お金がもったいないので自分で作ったお弁当を店の裏で食べるようになった。
ベビーベッドには赤ちゃんがいた。赤ちゃんは、あの奥さんから産まれたとは思えないくらい巨大で、大将にそっくり。お弁当を食べはじめると、赤ちゃんは自ら手すりをもって立ち上がり、お相伴にあずかろうとする。私の食べるお弁当なんかを食べさせたりしたらいけないと思っていたから、最初は気づかないふりをしていた。
だけど顔を近づけてよだれをだらだら流し、ものすごい圧をかけてくるので、耐えきれずご飯を少し口に入れてやったら、それから当たり前のように要求してくるようになった。玉子焼きとかハンバーグとかも小さくちぎって口に入れてやるとむしゃむしゃなんでも食べた。お弁当の半分以上食べてしまうこともある。私の手はいつもよだれでべとべとになった。でもこのことは、赤ちゃんと私の二人だけの秘密。
帰り支度をして店先に戻ると、子どもがいて奥さんにまとわりついていた。小学生くらいの男の子と女の子と、もう少し小さい女の子の三人。男の子は奥さんのエプロンの裾を握って左右に揺らしながらずっと「なあ、なあ」と言い、女の子は「お腹すいた」を連呼。あの巨大な赤ん坊も、もう少し大きくなるとここに入るのかと想像してみた。奥さんは子どもたちを無視したまま、茶色の封筒をくれた。
「お疲れさん、途中からやったから一か月分はないけど。初任給は、お父さんとお母さんに何かプレゼントでもするの?」
「はい。金魚を」
「金魚?」
「そうです」
それからビニール袋いっぱいの干物をくれた。余った商品だけど、おばあちゃんが嬉しいのは、いわゆるこの特典のようだった。
帰る途中、夏祭りに行くために遠回りをした。いつも静かな神社の参道は両側にたくさんの出店が出ていた。浴衣姿の家族連れやカップルがたくさんいる。金魚すくいは一番奥の鳥居の手前にあって、もうすでに大勢の人だかりができていた。私は給料袋から全額を出して「これで」と、金髪で左耳だけピアスをしているお兄ちゃんに渡した。お兄ちゃんは表情を変えることなく「おう」と言って、ポイをひとつくれた。
「一枚ずつ渡したる」
私は一番いい場所を陣取って、預けたお金が全部なくなるまで金魚をすくい続けた。
金魚すくい 宝や。なんしい @tururun
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