午前三時、帝都高速一号線
片丹文丸
午前三時、帝都高速一号線
ピピピピピ ピピピピピ
午前3時に枕元の目覚まし時計が鳴る。
もぞもぞとベッドから起き出した男の名前は佐伯遥也、都内にある中堅商事会社に勤める普通のサラリーマンである。
目覚ましを止めると空調の動作音が静かに鳴っている、壁の常夜灯が家具の輪郭だけを知らせる程度に灯っているだけの暗い部屋。ベッド脇には大きな窓があるが、ロールスクリーンも開いたままの窓に映るのはベッドに座っている彼の姿ばかりだった。
彼はリビングダイニングにある冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取りだして一気に飲み干すと予めソファーの上に用意しておいた着替えを持ってバスルームへ向かう。
冷たいシャワーを浴びてさっぱりした後、最低限の身だしなみだけ整えると必要なものを無造作にポケットに突っ込んで部屋の外に出る。
温い空気が纏わり付く狭い階段室、ほんのりと足元だけがアンバーに照らされた急な階段を転げないようにゆっくりと降りる。
ガレージにつながるドアを開け、灯りを付けると白いLED照明が目に刺さり思わず目を瞑る。
うっすらと目を開けると、そこにはいつも通り古めかしい白いクーペが佇んでいた。
彼は車の周りを一周し、床に油脂類などによる染み等が無いか、部品などに破損がないか等を具に観察する。
異常がない事を確認するとボンネットを開け、今度はエンジンルームを観察する。
ホースのつなぎ目やマスターシリンダー付近に滲みや漏れた跡はないか、前回点検した時から変化が無いかをゆっくり確かめた後、レベルゲージを引き抜いてオイルレベルに問題がないか念のため確認してボンネットを閉じた。
太いロールケージとバケットシートの高いサイドプロテクタを躱しながら車内に潜り込む。
ロールケージに吊り下げてある36Φのディープコーンをシャフトに挿し込みロック。
マスターキーをコラムのキーシリンダーに挿して回すとAUX電源が投入されナビなどのアクセサリーが起動する。
かつてセンターコンソールの一番良い位置にあった灰皿を外して取り付けたスイッチボックスのリッドを上げ、メインスイッチを捻るとメイン電源が投入され、ECUシステムが起動シーケンスを開始する。システムの冷却系に供される電動エアコンのコンプレッサーが加圧をはじめ、センサーがアクティブになると油圧ロストのビープ音が鳴りはじめるが、ナビの画面にECUのステータスモニタが表示される頃にはキャンセルされて鳴り止む。燃料ポンプのスイッチを押すと後ろの方からグーっとくぐもった動作音が聞こえはじめる。続けてイグニションボタンを押すと、ナビに表示されたステータスモニタがシステムチェックの様子をモニタしながらカウンタが表示されカウントダウンをはじめた。カウント0になると同時にピッピッピッと短いビープ音の鳴動と共にエンジンスタートボタンのインジケータがふわっと点灯した。
カウントダウンの最中に彼はグローブボックスからイヤープラグを取りだして両耳に嵌め、大きく息を吐く。シフターのギアポジションがニュートラルである事を確認したら、ビープ音を合図にエンジンスタートボタンを押し込む。クーククククククという軽快なセルモータの音が遠くで聞こえた後、一拍おいてグオオオオオオンというけたたましい音と共にエンジンがかかり車も目を醒ました。最初だけ回転数が高くなるが、すぐにゴッゴッゴ……ガッガッ……ゴッゴッゴッゴといかにもバルブを高く持ち上げてますよと言わんばかりの規則正しい不整脈音を奏で始める。フルチタンの排気系はやや高い乾いた音を今日もガレージに響かせていた。
ここは帝都の空の玄関口である24時間稼働している空港の近く、海沿いのやや寂れた地区で数年前まで稼働していた鉄工所をリノベーションしてガレージハウスに仕立てたものが彼の塒である為、夜中でも頻繁に離発着するジェット貨物機のエンジン音と、リノベーションにあたって多少の遮音対策をしている事も合わさって午前3時であっても騒音はそう問題にはならない、筈だ。
2~3分暖気をしてエンジンオイルを一巡りさせたら、遠隔操作でガレージの灯りを落とし、ヘッドライトの点灯具合を目視しながらやはり遠隔操作で正面のシャッターを開けて車を外に出す。シャッターが閉まるのを待つ間、ECUのモードが”ストリート”になっている事を確認したらゆっくりと走り出す。途中は静かな住宅街を抜ける為、アクセルペダルペダルには足を置くだけ、ギアは2速に入れたままほぼアイドリングのような回転数で走る。生活道から都道に乗ると3速にシフトアップし、意識してブレーキを多く踏みながら3速のまま走っていると、程なく帝都高速の羽田ランプに至る。後続車も居ないのでゆっくりと接続道のゆるやかな坂を昇りながらECUのモードを”ストリート”から”ハイウェイ”に切り替える。
少し長いビープ音が鳴り、ナビの画面が6分割されて追加メーターのようなアピアランスに変化し、正面のメーターフードに収まる純正を模したフル液晶のメーターパネルのレイアウトも少し変化する。
彼はフラットシフトに頼らずエンジンの回転数を自分で合わせながら4速、5速とシフトアップをして、まずはゆっくりと流す。オレンジ色のナトリウムランプ、防音壁の向こうに見えるマンションの外灯、運送会社の倉庫、並行するモノレールのガイドレールはまだしっかりと視認できた。休日を迎える深夜である事と、この国の物流を支える大動脈である高速道路に直接接続する便利な路線が新しく出来た為か、この帝都高速1号線は時間帯次第ではあるが交通量も少なく走りやすい。ただし、古い規格で設計されている為か、道幅も狭く高低差があり、路面も舗装がうねっていて一般的にそういう向きの人びとからは走りにくいと評されるが、彼は逆にそれが好きだった。
120程度で流していても尻やハンドルを通して違和感は伝わってこない、EPSの手応えも反応も丁度良い、タイヤの空気圧も範囲内、計器類におかしな数値も見当たらない、前に車も居ない。彼の頭に浮かぶチェックリストは全てグリーンランプを灯した。
丁度空港の下を通るトンネルを抜けたあたりで彼は6速にシフトアップした。小さく息を吐き、ハンドルを握り直すとアクセルペダルをゆっくりと踏み増していく。エンジンの回転数が5000を超えて5500に届くあたりからそれまで穏やかだった車の雰囲気が俄に変わりはじめる。大きなタービン特有のコンプレッサーブレードが放つ独特な高周波音と共に大気圧の数倍の空気をシリンダーに押し込みはじめると速度計は途端に落ち着きが無くなってくる。
エンジンの回転が7000に到達する頃、加速は途切れないが車が一瞬だけ、まるで意図的に一呼吸置いて彼に付いてこられるかを伺うかのような挙動を見せたかと思うと、どんと空気の壁にぶつかるような音と共に285プロファイルの後輪がトラクションを失って暴れ出すほどの更に暴力的な加速を始め、速度計が250を超えてもまだ数字は上がり続けようとする。軽くカウンターを当てて車をねじ伏せられると、彼は今日も自分は乗れていることを実感した。
交通量の少ない夜明け前の帝都高速1号線をけたたましい音をたてながら1台の車が路面を滑るように疾走していく。
回転計は7400回転を指し、速度計は300付近をうろうろしている。
カーブの手前でアクセルペダルを少し緩めると遠くでハシュウと空気を少し抜く音が聞こえて260位まで落ちるが、カーブの出口でアクセルペダルを意外なほどゆっくりと踏み込むと高周波音と共にすぐに300まで戻る。良い感じで乗れていると感じた彼は更に右足に力を込める。
3/4スロットルで排気温計710度、水温80度、油温120度、油圧安定、ブースト1.8バール、残り1/4をゆっくりと踏み続ける間、加速は途切れずに続き8000回転へ到達する頃には速度計は320を指していた。アクセルペダルを床まで踏み抜いてはおらず、車はまだ加速を続けようとするが、彼は8000をキープして走行する。まるでワープしているように全ての景色はぶれて流れていき、前方に車が居るか居ないかが辛うじて解る位に視界が狭まる、イヤープラグをしている為、エンジン音は遠くに聞こえ自分の心音や呼吸音だけが大きく響く。路面のうねりがハンドルから伝わり、ミリ単位の修正舵を入れながら車を無理矢理まっすぐ走らせていく。自分の五感の全て、いや全身全霊を賭けて車と対話しているこの瞬間が彼は好きだった。
どれ位走っていたのかは全くわからないが、気がつくと排気温が850度を超え純正を模したフル液晶のメーターに設けたウォーニングインジケータが黄色く点滅をはじめた。イヤープラグをした煩い車内ではいくら高級な無指向性スピーカーを使っていてもビープ音は伝わりにくいし、計器を見る余裕などもほぼ皆無の為、彼は車の状態は出来るだけ色や画面の点滅等で報せるように車を躾けていた。
右足に込めていた力をゆっくりと抜くと車はシュゴーという大きな音と視界の端で僅かな閃光、ボンネットの空気抜きスリットからは陽炎が立ち昇り、プパパパパンと軽い炸裂音を立てながらゆるやかに減速をはじめ、今までぶれていた景色が急激に像を結びだす。彼はワームホールを抜け現実に戻ってきた心持ちがした。
横羽から湾岸線に入りレインボーブリッジを通ってC1、辰巳から横羽に戻るルートを何周かしていたようだ。辰巳あたりで休憩してもう少し走ってもいいが、時間を確認すると5時を優に過ぎていたので帰る事にする。ランプまでシステム冷却を意識しながらゆっくり、とは言っても120程度はキープしながら走る。我知らずしていた緊張がやっと解け、ハンドルを握り直すと、目の前の空が美しく紫に染まっていることに気付いた。休日の朝は渋滞もなく気分が良い。
ランプを降りてすぐ信号に捕まる。2時間位走り続けてはじめて速度が0になる瞬間。気になってイヤープラグを外すと、車内は美しく粒が揃ったゴッゴッゴ……ガッガッ……ゴッゴッゴッゴッと規則正しい不整脈音で溢れていた。水温計の値はピクリとも動かず、エンジンがぐずる様子もない。ECUのプリセットを再び”ストリート”に変えて家路を急ぐ。行きと違って帰りは路上を走る車も増えているが、相変わらず2速と3速とだけを使い、出来るだけ過給がかからないように走る。元気が良い軽自動車に抜かれたとしても気にしない。
ガレージハウスまで戻り、車をガレージの所定の位置に収めると、ナビ画面を操作して今日の走行データをクラウドにアップロードする。アップロード成功のステータス画面を確認して、メインスイッチを切るとスッとエンジンは止まる。耳がキーンと鳴る程の静かさを感じながらハンドルを外してロールケージに掛け、マスターキーを抜き、ドアを開けて車外に出ると夏の朝らしい爽やかな暑さを感じた。天井の明かり取りからも夏の日差しが差し込んでいて、薄暗い元工場をほんのり明るくしていた。壁の時計を見ると6時だった。
身体は疲れているが、まだ少し興奮している為か眠気はあまり感じない。後でちゃんと確認するつもりだが、一応車の周りを一周して油脂類などが漏れていないかを確認する。この車にはドアロックのような文明的な機能は何故か付いていない為、敷地や建屋の至るところに取り付けているCCTVがきちんと稼働しているかガレージの壁面に架けたモニタで画像を確認し、シャッターの電気錠がちゃんと作動しているかをガシャガシャ動かして確認をした後、ガレージを後にして階段を転ばないように昇る。長い階段を昇って3階にあたる部屋まで戻ると、冷房がよく効いていて涼しかった。
冷蔵庫を開け、ペットボトルのミネラルウォーターを取りだして半分位飲むと、着ているものを全て脱いで洗濯機を回しながらもう1度シャワーを浴びる。
さっぱりした後、ミネラルウォーターの残りを飲み干してベッドに向かう。
『本当はすぐにでもログの解析をやりたいけど、生産性の為にも一度寝よう。10時位には目が覚める筈なので、全てはそこからだ。』
ベッドに入るといつもの習慣だからかすぐに眠りに落ち、再び目が覚めて時計を見ると9時30分を指していた。頭はすっきりしているので起きることにする。なにはともあれ冷やしていないミネラルウォーターをコーヒーメーカーになみなみと注ぐとスイッチを入れコーヒーを作る。コーヒーを飲みながら昨日のうちに買って置いたあんぱんを囓る。
あんぱんを食べ終わると、2杯目のコーヒーを持ちながら書斎に向かいコンピュータの電源を入れる。
自作のデータロガを起動し、クラウドに保存してあるECUが吐き出した生データをインポートすると今日の走行データの全てが詳らかに表示される。
吸気温度、燃圧、燃料温度、インジェクタ噴射量、エキマニ温度、過給圧詳細、水温、油温、油圧、排気温、適用燃調マップ、推定馬力、フェイルリポートなどを眺めながらおかしな挙動が記録されていないか、自分の想定と違う挙動を示していないかを丁寧に確認していく。気になるデータに付箋を付ければ、過去の走行データを呼び出して比較することも出来る。
今日は誰とも併走しておらず、スクランブルモードも試行していない、ほぼルーティンの走行であった為、ログではおかしな挙動は見つからなかった。自分の五感も車の異常を感知できなかったので問題無いと判断する。ただ、そろそろ夏向けのサーマルセッティングに変更するべきだと今日の所感に記してデータロガを閉じる。座ったまま大きく伸びをすると、首がこきこきと鳴って肩甲骨あたりからもパキパキと音がした。時計を見ると12時を過ぎていたようだ。
彼は気のみ着のままで再びガレージにとって返すと、ガレージの隣にある整備スペースに車を移動し、中古で購入した二柱リフトに車を掛ける。まずはボンネットを開けてエンジンの様子をじっと眺める。ホースのジョイントなどからクーラントや油脂類が漏れていないか、ブローバイガスでエンジン内が汚れていないか、緩みそうなところはレンチをかけて確認もする。オイルゲージを引き抜き、油量や粘度を確認する。ボンネットを閉め、リフトを上げると下回りも確認する。アンダーフロアに妙な膨れやクラックなどは見当たらないか、サスペンションアームに傷などはないか、ブッシュやブーツに破れなどの異常はないか、オイル染みや駆動系のダメージなどはないか、マフラーの焼け色もいつも通りか。タイヤも均等に減っていてささくれ具合にも気になる部分はない。強いていえば珍しいサイズなのでそろそろ新品を注文した方が安心できるという程度だ。
リフトから車を降ろし、再び路上に引っ張り出すと行きつけのガソリンスタンドに行って給油と洗車をする。
帝都高速を300キロで2時間も走ると車は何故か煤だらけになるので洗車は欠かせない。手洗いすると飛び石や破損箇所などが無いか、空力付加物が取れ掛かってないか等もよりよく解る。どちらかというと理屈ぽい彼の車の外装には意味の無いパーツはひとつも着いていない為、何かが消失したり破損して向きが変わるだけでも車は調子を崩してしまい300キロでまっすぐ走らなくなる為、真剣に点検をしながら綺麗にしていく。ハイオクがタンクに50リッター入っているように調整して給油すると、オクタン価を上げる添加剤を入れて作業を完了する。
時間を確認すると15時になろうとしていた。そろそろ夕食を気にする時間だが、冷蔵庫の中には調味料以外の食料は入って無いのは確認済みである為、彼はスーパーで食料を仕入れるか、どこかで外食するかの二択を迫られる。今日は自炊する気分でもないし、同じ区内で叔父がやっているチューニングショップに併設されたカフェでカレーを食べることにしたようだ。
「タイヤも注文したいし、オクタンチャージャーも買わないといけないしな」
誰に聞かせる訳でもないが、そう言い訳をした彼は、車に乗り込み叔父が営むというチューニングショップに足を向けた。
今日の深夜に走るつもりはないのだが、ガレージハウスに戻るのは日付を超えてからになりそうだ。
午前三時、帝都高速一号線 片丹文丸 @hirani_ayamaru
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