【放課後のたこ焼きと君】7

 舞子は三日後、土曜日の朝、家に帰って来た。

 誠との関係や借金、清史郎の今後のことに触れることは一切なく、普段通りに食事を作り、家の掃除をし、洗濯物を干した。謙一朗の部屋に食事を届けたりしながら、ずっと「私がいないと本当にこの家は駄目ね」と、自分が不在にしていた間の不手際を細かくチェックして回っていた。

 誠は留守だった。

 舞子が不在の間は一応夜には帰宅していた。清史郎に翌日分の食費を渡し、謙一朗の部屋に弁当を届けて再び家を出ていった。「当直を抜けてきた」と本人は言っていたが、それが本当かどうか清史郎には分からない。舞子も特に誠の不在理由を清史郎に問うことはなかった。

 昼食後、耳栓をして勉強していたが、どうしても集中出来なかった。ペンを手から離し、椅子の背もたれに寄りかかる。そして、天井を見上げる。

 誠は「父さんに気を遣わなくていいからな」と言った。その言葉が耳から離れない。

 とっくに関係は悪化しているとはいえ、これまで家族という単位で暮らしてきた自分たちが、いざ分解されるかもしれないとなるとやはり動揺する。清史郎の進路に影響があるというならなおのこと、真面目に勉強したとして、本当に報われるのか、と思ってしまう。

 今はこの家で、一応暮らしている。でも、一年後、果たして自分はどこで誰と暮らしているのだろう。先行きは不透明だ。何も見えない。

「ほらやっぱり、勉強してるなんて、嘘なのね」

 急に声がして、驚いて振り返った。

 部屋の扉が開いていて、入り口に舞子が立っていた。耳栓をしていたから、舞子の足音にも、扉の開閉音にも気付かなかった。

 いや、違う。

 清史郎の耳栓は、完全遮音タイプではない。舞子が足音を忍ばせて階段を上り、そして音が立たないようにゆっくり扉を開けたのだ。

 なんのために? きっと、清史郎をこうして糾弾するために。

「勉強するって言えば許されると思ってるんでしょ? だけど本当はサボってる。あんたってやっぱり、そういう人間よね」

 舞子は清史郎に近付いてきた。一歩、また一歩。やけに身体が左右に揺れる。

 清史郎は背もたれから身体を離し、背筋を伸ばした。

 今更、そうしたところでどうなるものでもない。清史郎自身にもそれは分かっているけれど、舞子に叱られるときは背筋を伸ばす。これはもう、身に染みた習慣だった。そうしないと余計に怒られることを、清史郎は知っている。

「あんたがもっとちゃんとした人間だったら、謙ちゃんは引きこもりになんてならなかった」

 舞子は清史郎のすぐそばに立った。顔は赤く、表情は険しい。そして、酒臭かった。

「兄弟なんだから支えあうべきなのに、謙ちゃんはあんたに頼ることが出来なかった。自分の殻に閉じこもっちゃった」

 ごくり、と清史郎ののどが鳴った。

 舞子の理屈は破綻している。謙一朗が引きこもったのは謙一朗の問題で、清史郎に何かをする余地はなかった。

 引きこもる前の謙一朗は何もかもに意欲を失っていて、清史郎と会話出来るような状態ではなかった。食欲もなく、青い顔をして、清史郎が声をかけても、全部無視した。聞こえていなかったのか、返事をするのが面倒だったのか、清史郎には分からない。

「そもそもあんたが都会学園に落ちたからいけないのよ。お父さんは私のせいにするし、そのせいで夫婦の関係も上手くいかなくなった。ご近所さんにも親戚にも馬鹿にされて、私の居場所もなくなった。そうよ。元を辿れば、全部あんたが悪いのよ」

 舞子は清史郎を睨んだ。目は異様にぎらぎらと光っている。口答え出来る雰囲気ではなかった。

「あんた、なんで生まれてきたの? 私は女の子が欲しかった。一男一女の幸せな家庭を築く予定だったの。検査では女の子だって言われてた。でも、生まれてきたら、あんた、男じゃない。しかも、出来は悪い。手ばっかり余分にかかる。可愛くもない。あんたさえ生まれてこなければ」

 舞子の両手が、清史郎の首にかかる。清史郎は「やめて」と言った。舞子は平手で、清史郎の頬をはたいた。

「口答えすんじゃないわよ! 出来損ないの分際で!」

 清史郎の目から涙が出た。心臓はばくばくと激しく鳴っている。でも、自分が今、どんな感情を抱いているのか、清史郎にはよく分からない。

「ねえ、死んでよ」

 舞子の両手が再び、清史郎の首にかかる。清史郎の呼吸が早くなる。ぐ、とのどに圧力がかかるのが分かった。

「あんたが死ねば、きっと私はやり直せる。私の人生は完璧だったはずなの。医者と結婚して、女の幸せはやっぱり結婚だねって、家庭に入ることだねって、お姉ちゃんより幸せになれたねって、ママに認めてもらえるはずなの!」

 かはっ、と清史郎の口から声なのか息なのか分からないものが漏れる。

 あ、俺、死ぬかもな。

 清史郎が思うと同時に、幼少期の思い出が次々蘇った。叱られたこと、泣いたこと、涙をこらえたこと、苦しいことばかりだった。

 死んでもいいかもな、と一瞬思った。生きていても、辛いことばかりだ。どれだけ頑張っても、きっと舞子も誠も、清史郎を褒めてくれることはない。認めてくれることはない。死んでもきっと、悲しまないだろう。

 つう、と清史郎の目の端から流れた涙が、頬を伝った。

 そのとき、遊園地の思い出が頭の中をよぎった。

 清史郎が都会学園の入試を失敗したとき、舞子は熱を出し、寝込んだ。その間一週間だけ、清史郎は誠の実家に預けられた。祖父と祖母と、生まれて初めて遊園地に行った。デパートの屋上にある小さなものだったけれど、清史郎には十分広く、楽しい世界だった。

 祖父も祖母も目を細め、清史郎を「元気でいい子」だと褒めた。清史郎はあのとき、本当に嬉しかった。カラフルなその思い出が、清史郎の頭の中で弾けた。

 とっさに舞子の腕をつかんでいた。そしてそのまま、自分の首から引きはがす。舞子はよろけて、あっけなく清史郎の首は自由になった。

 むせる清史郎を、舞子は睨んでいた。そして、泣いていた。その顔には、今、息子の首を絞めたことに対する罪悪感や後悔は、みじんも感じられなかった。

 清史郎はいつもの通学鞄と、充電していたスマートフォンを手に取り、部屋から飛び出した。どこへ行くかは決めていなかった。とにかく、もうここにはいられない。ここに自分の居場所はないのだと、それだけははっきり理解することが出来た。

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