夜に刻まれし名――忘れられた者たちの物語――

SeptArc

第一夜 夜雨に追われし獣

生まれ落ちたその瞬間から、獣には仲間など居なかった。首の分かれた獣など狼にあらず。異形を憎まれ、その首を疎まれ、その身に宿る炎を怯えられ、孤独を抱いて群れの中で生きた。獣は幼くしてからまともな育てなど受けず、日々身の糧を探して奔走するばかり。獣を産み落とした母は見せしめに喰われてしまった。憎しみの目だけが向けられる中、母は最後に優しく頬を舐めてくれたのを覚えている。母の腹からは兄弟など生まれず、ただこの異形の躰のみが落とされた。異形の子が生まれてしまった。そんな事実に群れが動揺する中、父だけが獣から唯一我が子から目を離さなかった。群から向けられる侮蔑の雨を共に受け、群れの侮蔑に晒されながらも、父は狼としての威厳を失わず、迫り来る牙と爪の全てから、獣を守り続けた。自身の身など顧みずに。


群れが仕留めた獲物は群れで共有するのとは別に、獣は自分で獲物を仕留めなければならなかった。そんな獣に父は群れの目を盗み、獲物を仕留め持ってきてくれることがあった。群れをはずれ、狩りを教えてくれる日もあった。しかし群れを欺く生活が長く続くはずもなく、父の体には見るたびに傷が増えていった。加えて日を追うごとに群れから監視の目を差し向けられていることに、親子は薄々勘づいていた。

やがて獣が狩りに苦労しなくなった時、父の動きには鈍さが出てきた。野兎一匹狩るのに息が荒れている父を見て、獣は気づいた。日々迫る爪牙から獣を守れるものはもう居ないのだと。


来たる明け方、獣は一匹群れを去ることにした。この身が去れば、父が虐められることなどないだろう。そんな思いを馳せ、夜闇が薄くなり始めたころ、ひっそりと獣は山を離れた。生きる力を与えてくれた父へ、この身を育んでくれた土地へ、異形の我が子にも優しさをくれた母へ感謝をこめて。ただ一度、力強く遠吠えをした。

陽に照らし始められた白き山々に、四重の遠吠えが響く。

振り向くと離れに父の姿があった。群れの中でただ父だけ我が子の旅立ちに気づいたのだろうか。最後に見つめた父の片目には何が映っていたのだろう。


獣は前を向き、向かい風に乗る匂いをたどりながら旅を始めた。

山を降り川を辿り、多くの群れや世界と出会った。正確には、獣を一目見るや否や逃げ出すものたちをただ見ていただけなのだが。

それでも獣はこの身を受け入れられる環境を探して旅をした、たとえどのような目で見られても、狼としての威厳を忘れずに。

やがて凍てつくような雪解け水が流れる川についた。流れを辿るとその向こうに、元の群れとは色気の違う、芦毛の綺麗な雌鹿がいた。獣の持つ焦げつき汚れた灰色の毛皮を見るや否や逃げ出した。

慣れたことのように獣は水を飲み、炎の心配をせずに済む水辺で旅の疲れを癒すために長い眠りについた。

静かな木々の音、流れる水、匂いを運ぶ風、以前いた環境では意識することのできなかった身の回りの自然に、獣の心は安らいでいた。

音や匂いで、あの芦毛の雌鹿が何度もこの水場に水を飲みにきていることを獣はわかっていた。わかっていながらその腹を満たそうとはしなかった。ただ眠り、明け方には必ず起き、赤みがかる夜空に遠吠えをしていた。ふと眠りの中思い返していた。ここに至るまでに多くの動物の群れを見たが、あの雌鹿と似たような落ち葉色の鹿の群れも見かけていたが、あの雌鹿と同じ毛色の動物はいなかった。あの雌鹿もまさか。そんな考えを巡らしていた。


三度ほど陽が登った朝に獣はようやく目を覚ました。

周囲の雪は姿を消し、あふれんばかりの緑や痛むほど眩しい日差しの中、ふとあの雌鹿が足を伸ばせば届く距離にいることに気がついた。

雌鹿は四肢を小刻みに振るわせながらも、目線は鋭くこちらの目を見ていた。獣は確かに飢えていた。だがなぜか雌鹿を喰らう気にはならず、緩慢に躰を起こし水を飲んだ。

振り返ってもこの身の三倍も小さかろうという雌鹿の躰は微動だにせずそこに居た。

獣は雌鹿を今一度一瞥し、その場を後により良い寝床を探しに川辺を歩いた。その道中、何度も振り返ったが、その雌鹿はいつまでも数歩後についてきている。そして陽が暮れる頃、雌鹿は姿を消していた。雌鹿はいつも決まって明け方に水辺に来た。そして日没まで川辺を歩き回って森に帰る。その度に雌鹿は獣と目線を合わせ、後ろにくっついて歩くようになった。いつの日か獣は雌鹿のくる明け方を心待ちにしていた。


まだ雪の寒さが抜けきらない曇り空の日、陽の見えない明け方に獣は尾を落とした。

その日は陽が頭上に来ても川辺に雌鹿は来なかった。

鈍く重い風が鹿の匂いとその奥にこの身を鋭く貫く匂いを運んできた。

少し前までは当たり前だったその匂いを、この数日間のうち、忘れていた本能を呼び覚ました。

獣は走った。あえて踏み入れなかった森の奥へ、木々をかき分け雌鹿がいつも帰る方角へ、鉄の匂いを辿って。

やがて森を抜け、赤黒い巨岩の転がる断崖へ出ると、崖壁に追い詰められ後ろ足から血を流す雌鹿と、矢をつがえ今にもとどめを指しそうな狩人がいた。

獣の炎は生まれて初めて見せる勢いで燃え上がり、獣は狩人の前に立ち塞がった。

周囲の岩は熱を帯び、赤く燃え上がるような色合いに変わった。

生来初めて唸り声を上げ、眼前のこの身より遥かに小さい狩人に牙を向いた。

人間はその二匹の姿を見てしばらく静止し、二匹の目を交互に見つめ、矢を下ろした。

獣は以前変わりなく炎をたぎらせていたが、狩人は弓矢を捨て、剣を地に突き刺し、小さな盾のみを構えて二匹に近づいた。

「落ち着いてくれ、あの子が灼けてしまう。」

意味こそは伝わらないが、その声を聞き獣は炎を徐々に弱めた。

すると狩人は雌鹿に近づき、鞄の中から布切れを取り出し、矢の刺さる場所に当てた。雌鹿が怯えて声を上げると獣は狩人に唸った。

「場所を変えよう。近くに水場はあるか。この子を運びたい。」

必死に両手をあげこちらに無害なことを知らせようとしていた。その姿を見て獣はうなりを止め、警戒を解いた。獣は雌鹿の頬を優しく舐め、雌鹿を軽く咥えて、彼を水辺へ連れていった。


「ありがとう。信じてくれて、さっきはすまなかった。」

川辺につくなり彼はそう言うと、雌鹿の手当てを始めた。慣れた手つきで矢を抜き、布を水で濡らし、草のようなものを塗り、傷口を縫合し始めていた。

よほどの腕利きなのか、はたまた獣に安心していたのか、雌鹿は声ひとつあげることはなく、程なくして眠りについた。

「よし、これで終わりだ。なあ、これ少し炙ってくれないか。」

そういうと彼は固まった塩気の匂いのする肉塊を取り出し、眼前に差し出してきた。

軽く息を吹きかけてやると色味が変わり、彼はそれを喜んで食べた。

「お前は食わないのか。」

そう言って差し出してきたが、どうにも喰う気になれなかった。

すると彼は他所を向いていた首にひとつ投げ込んだ。

驚いていたが存外美味かったらしく、彼は反応を見て喜んでいた。

陽が沈んだ頃、彼は腰を上げて荷物を持つと、

「これから毎日来るよ。肉は手に入ったら持ってくる。」

そう笑い、来た道を戻って行った。

思えば、陽が沈んでからもこの雌鹿といるのは初めてかもしれない。

そんな満足感に浸りながら獣は夜空を見上げ、遠吠えをした。

雌鹿を灼かないように少し離れ、炎を抑えて眠りについた。

いつもより深い眠りだった。炎のせいか、あるいは雌鹿と共にあれる安心感か。

周囲の音も、匂いも気にせず、深い闇の底へ落ちて行った。


やがて陽が頭上を過ぎた頃、獣は目を覚ました。

「おお、やっと起きたか。」

目の前にはあの狩人がいた。普段なら警戒していただろう。だが不思議と獣は驚かず安心していた。

「お前の飯はわからないけど、ほら、鹿の分はあるぞ。」

起き上がると雌鹿も起きていることに気がついた。まだ起き上がれはしないようだが、狩人が口元に水桶と木の実、草木を置いてくれていた。

「すまんなあ。まだ治らないけど、あと三日もしたら歩けると思うぜ。」

兜をかぶっていたからかあまり印象はなかったが、この狩人はかなり高齢のようだった。獣は父とその姿を重ね、狩人と戯れて過ごした。

焚き火に火を吹きつけ、毛皮の上で寝させ、背に乗せたりもした。

「俺は弱くて馬に乗せてもらえなくてな。楽しいもんだなこれは。」

彼が持っていた剣の使い方を見せられたりもした。こんなもの振られても怖くもなんともないと獣は思ったが、それでも楽しそうに彼が見せるから、仕方なく見てやっていた。

「本当は英雄騎士みたいなものに憧れてたんだがな。金がなくて今じゃこの様だ。」

共に夜空を見上げる中彼は過去について話し始めた。無論獣には理解しようのない話だが、闇夜の中三匹は、共に同じ空を見上げていた。


三度目の明け方、獣は目を覚ますと雌鹿は立ち上がり周囲を歩いていた。ふと見渡すと狩人の姿はない。匂いも音もしなかったがいつのまにか帰ったのか獣は疑問に思ったが、また狩人が来るのを心待ちにして雌鹿と川辺でくつろいでいた。

だが陽が暮れる頃になっても狩人は来なかった。雌鹿は心細いのか立ち上がれたのにも関わらず獣のそばで眠りについた。

翌朝、狩人が顔を出しに来た。だが一昨日とはまるで違うその風貌に獣は違和感を覚えた。隠しきれていない血の匂い。焼け爛れた肉の匂い。そして汗。

「昨日はすまんな。色々あって忙しくてな。」

彼はそういうといつものように川辺で3匹揃ってくつろぎ、狩人の話を陽が暮れるまで聞いた。

彼はいつもより苦しそうに腰を上げると、2匹の目を見つめ、

「ありがとうな。」

と小さく呟き森へ消えて行った。

獣はあえて深追いしなかった。なぜかはわからなかった。本当は追いたかったのだろう。だが父と重なるこの光景に、脚が進まなかった。

雌鹿も今夜は森へ帰った。

味わったことのない不安が獣を襲う。まるで夜が形を為してまとわりついてくるような。

そんな粘り気のある嫌な予感のする別れだった。

だが獣はどこかで理解していたのだろう。この森で今のこの身を脅かすものは存在しないこと。そしてこの幸せが永遠に続くわけではないということも。

寂しさ。

獣は群を離れた時と同じ感覚のなか、浅い浅い眠りについた。

飛び交う血潮、迫り来る爪牙、喰われた母。血肉を焦がす匂いが鮮明に呼び覚まさせる。

これは、夢なのか、現実なのか。獣は混濁していた。


気づくと周囲は燃えていた。川は炎を映して赤く染まり、森が燃える様はさながら巨大な炎のように見えた。木々が焼ける匂いの中血の香りが充満している。あたり一面が炎に覆われ、鼻は使い物にならない。頼れるのは耳だけ、獣は木が倒れ葉が燃える中人間叫び声を聞き分けた。狩人と出会った崖の方角へ、獣はあの日と同じく炎を燃え上がらせあの断崖へ飛び出した。

その目に飛び込んできたのはまさしく地獄。至る所に無惨に切り捨てられた兵士の死骸。崖壁には倒れて動かない雌鹿と、そのすぐ側に、矢の雨を浴び膝から崩れ落ちた狩人。反対には内臓をくり抜かれた巨躯の大男が三体と、馬にまたがる無数の重装備の騎兵の群れ。

そしてその中央にいる一人だけ小洒落た装備を着る人間。

「狩人よ、その雌鹿を差し出せば命は助けてやろう。」

唸り声が地を揺らす。燃え盛る炎が山火事の炎と重なる。眼前の光景が群れの記憶と混ざる。未だ味わったことのない深い味が咥内を満たす。

今、獣の胸には、群れにいた頃でさえ芽生えなかった明確な殺意が燃えていた。

「名もなき狩人よ、芦毛の雌鹿のみならずこんな化け物まで隠していたとは。」

小洒落た男が手を広げて群れに合図をした。

「その化け物を殺せば、貴様が我が兵を殺した罪は不問にし、貴様の家族も良い待遇にしてやると神に約束しよう。」

獣は薄れゆく正気の中、横目で狩人と雌鹿の様子を伺った。

雌鹿は僅かながら息があるようだ。狩人の意識は朦朧としているようで、

「金…。」と呟いている。

「さあ、選択せよ。名もなき狩人。貴様が守っているのは貴様が狩るべきものだ。」

小洒落た男が数歩前に出る。

地獄のような空間に焼け爛れた匂いが漂う。鉄、血、肉。狩人の吐息。雌鹿のうめき声、理性が保てる瀬戸際、その中でふと、懐かしい匂いを風が運んできた。あの男からだ。あの男が背に纏うもの。見覚えのある毛皮、そして胸に張り付けた隻眼の狼の首。

あの首は…。

噴き上がる血潮。

さんざめく悲鳴。

燃え上がる炎。

血が雨のように降り注ぎ、黒く見える炎が空へと伸びる。

響き渡る悲鳴が耳の中にこだまして消えない。炎のように舞う三つの黒影。

後にその場から逃げ延びたものはこう言った。

あれは地獄だと。


気がつくと炎は収まり、薄暗い夕暮れの中、あたり一面は黒く染め上げられ。舞い上がった灰が雪のように降り注いでいた。まだ胸の内は燃えている、なのに獣はまだ、この焼け野原を作り上げたのが自分だと信じられなかった。

うめき声が聞こえた。そっと獣が近づいた。

「お前達。俺のせいで、ごめんな…。」

焼け爛れその顔も声すらも判別できないその死体はそう言った。

あの雌鹿の姿はない。狩人も。あの優しい匂いも、音もしない。

全てなくなった。獣は今全て失った。

大切なものを、守ろうとしたものを全て失った。

陽が沈み、黒い雨が降り注いだ。

獣はそこを離れなかった。

獣の眼前には、地に突き立てられた一振りの剣があった。

獣は最後まで信じることをやめなかった。

信じた相手を守れなかったことを、獣はただ悔いた。

残ったものは、ただそれだけであった。

剣の持ち手にはGladiusと刻んであった。


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