あの日僕らは、鐘を鳴らした

@Azuki_Yuki

あの日僕らは、鐘を鳴らした

 「どうしたものか……」

 

 法学の本がずらりと並んだ本棚が周りを囲う書斎。

 窓際の重厚な趣あるデスクに置かれたパソコン前で、拓海たくみは頭を抱えている。

 師走とはよく言ったものだ、と拓海は卓上のカレンダーに目をやった。

 

 12月31日。


 この日になっても仕事の山は一向に減らない。

 それどころか、一つ片づけると二つ舞い込むという状況がここ数か月の惨状だった。


 手に顎を乗せながら、拓海は何度目かの大きなため息をつく。

 

 ガチャリ、と音が鳴り部屋のドアが開き、まず小さな手が見える。


 「パパ~。このお部屋もお掃除していい?」


 娘の幸奈ゆきなが恐る恐るといった様子で部屋を覗き込んだ。

 普段は仕事中に入ることを叱られるためか、彼女にとってはこの部屋が少し怖い。

 

 「あぁ、いいよ。一緒にやろうか」

 

 バツが悪そうにパソコンをスリーブモードにして、拓海は娘のもとへ歩いて行く。

 

 「じゃあ、パパはあっちの紙を片付けるから、幸奈はここの埃を取ってくれるかい?」

 「うん!わかったであります!」


 幼稚園で流行っているのか、不思議な語尾のあと、幸奈は割り振られた棚磨きを始める。


 「さて、じゃあ俺もやりますか……」


 うず高く積まれた各種案件の山を仕分けながら片付ける。

 これから始まる途方もない作業量にすでに辟易しながらも拓海は手近な書類から手際よく進めていく。


 「パパぁ~。」


 掃除をはじめて間もなく(本当に“間もなく”)、言外に飽きたと伝えてくる声が、拓海を呼んだ。


 「どうした幸奈。もう飽きちゃったのか?」

 「うん飽きた~。それでねパパ。これ読んで~」


 拓海が振り返ると、幸奈の手には赤褐色のレザー仕様のファイルがある。

 拓海の妻が、彼の仕事の功績をスクラップしているものだ。

 

 「どれが読みたいんだい?」

 「えーとねー。ここ!」


 幸奈は拓海の写真が大きく出ている新聞記事を広げ、大見出しを指で示した。

 

 「あぁ、これは【人情派弁護士、無罪勝ち取る】って書いてあるんだよ」

 「にんじょーは、ってなに?」

 「うーん。思いやりがあるってことかな」

 「じゃあ、パパにぴったりだね」

 

 屈託ない娘の言葉に、拓海は照れくさそうに笑いかける。

 実の娘からの言葉でも、嬉しいものは嬉しい。

 

 「あとねあとね~。これも見つけた!」


 そう言って幸奈が差し出したのは、鐘楼を模した古いキーホルダーだった。

 振ると舌が揺れて、本物さながらの低く重苦しい音が出る。


 「……あんまり可愛くないね、それ」

 「そうだね。でも、これはパパの宝物なんだよ」


 拓海はキーホルダーを掲げ、部屋の明かりに重ねる。

 

 「そんなのが宝物って、パパ変~」

 

 屈託ない娘の言葉が、拓海の胸を貫く。

 実の娘からの言葉が、またしても拓海の心を揺さぶった。


 「へ、変かな……。これはパパの先生からもらったものなんだけど……」

 「先生って、べんごしの?」

 「いや、パパの――心の先生、かな」


 拓海は幸奈を膝に乗せる。


 語られるのは、20年前の寒い雪の日のお話――。


 ♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦

 

 「マジでついてねぇ~」


 右足を吊られながら、病室のベッドの上で少年は悪態をつく。

 

 12月には似つかわしくない日焼けしたような肌色の少年。

 冬休みに入って間もない今日。

 朝早く、中学校へ部活の練習に向かう最中、事故に遭った。

 

 難しいことは少年にはわからなかった。

 ただ、母親が必死の形相で医者の話を聞いていたのが強く少年の意識に残っている。

 頭を打ったかもしれない、ということで今日一日入院、という言葉だけは理解できた。


 「ついてぇね。マジでついてねぇよ……。レギュラー取れたかも知んねぇのに」

 

 少年は、傍らに置かれたサッカーボールを見る。

 春の新人戦に向けて、チーム内のポジション争いは常に起こっている。

 練習を一日休むだけでも不安でたまらない。

 吊られた足とボールを交互に見つめながら、何度目かのため息を少年は吐く。


 「なぁ、お前も冬休みなのにこんなとこ、居たくねぇよな」


 少年は自分の隣のベッドにいる拓海へと声をかけた。


 「え?ぼく?僕は……あんまり気にならないかな」

 「なんだよ、お前、つまんねぇな。そんなに本ばっかり読んでよ。ガリ勉君か?」

 「本は好きだけど……。こんなところじゃ、他にすること何てないし」

 「ま、それもそーだよなぁ」


 限界集落、とまではいかないが、かなりの田舎村にこの診療所はある。

 子どもたちにとっては、娯楽らしい娯楽はない、少し物足りない場所だ。


 「なぁなぁ、お前、名前は?」

 

 右足を吊られながらも、器用に体を捩じりながら少年は会話を続ける。


 「え?今泉いまいずみ拓海……だけど」

 「俺はな、花巻はなまき健太けんたっていうんだ。中1。よろしくな!」

 「別に、よろしくされても……。君は今日だけなんでしょ」

 

 健太は訝し気に顔をかしげる。

 なぜ拓海がそれを知っているのか、という表情に、拓海は呆れたように応える。


 「聞こえてたよ。お医者さんが話してたとこ、あの衝立の向こうだから」

 「……ここ、プライバシーとか大丈夫なのか?」

 「知らないし、興味もない」


 切り捨てるように拓海はそれだけ言うと、また手元の本に視線を落とした。

 健太は両手を頭の後ろで組みながら天井の切れかけた蛍光灯を見つめている。

 しかし、それもすぐに飽きたのか、またしても拓海に向かって話しかけ始めた。


 「お前さ。どうしてそう……陰気なんだ?」

 「君は言葉をオブラートに包むことを学んだ方がいいよ」

 「けどよー。入院する人間の不安ってのも、あるわけじゃん?もう少し仲良くしてくれても……」

 「仲良くしても……、意味ないだろ」

 

 突っぱねるような、棘のある拓海の言葉に、健太はムッとした様子で返す。

 

 「なんだそれ、意味わかんねぇ。お前、思いやりとかねぇのかよ!」

 

 しばらくの沈黙が周囲を包む。

 ガラガラと診療所の扉が開き、患者がポツポツとやってくる。

 3人目の診察が終わったらしいところで、不意に拓海が声を上げた。


 「……さっきは、ごめん」


 急に背中越しに聞こえた声に驚き、健太は拓海を振り向く。

 キョロキョロと周囲を見渡し、ここには自分と拓海しかいないことを確認する。

 

 「どうしたよ。急に」

 「いや。さすがにさっきの僕の態度は酷かったなって……」

 「気にすんな。俺もムキになっちまったからよ。おあいこってことで」

 「うん……」


 気恥ずかしさを感じさせる空気が二人を包む。

 それに耐えきれず、声を上げたには拓海の方だった。


 「僕さ……春が来たらこの村を出て街に住むんだ」

 「へぇ。いいじゃん。ウチなんて畑やってるから一生ここにいるぜ」

 「そんなんじゃなくてさ……」


 少し言いづらそうにしている拓海に、健太は待つことで先を促す。


 「病気なんだ、僕。心臓の。大きな病院じゃないと治せないんだって……」


 耳に入る言葉に、健太は絶句する。

 隣にいる――おそらく同い年くらいの――少年が背負うものの重さを想像する。

 

 「ごめんな。拓海」


 健太は、検査だけという名目の入院でさっきまで取り乱していた自分を呪いたくなる。

 そんな自分の嘆きを隣で聞かされた拓海の心情はいかがなものだったか。

 想像した健太の口から出た言葉は、短くも誠意ある謝罪の言葉だった。


 「別に、気にすることじゃないよ。前から決まってたことだし」

 「お前、辛いとか怖いとか……ないのかよ」


 おそらく、自分だったら耐えられない、と健太は考える。

 そんな状況に直面している拓海の内心が分からず、健太は率直に投げかけた。


 「怖くない……わけじゃない。それに、君みたいに元気な同級生を見ると、いつも思うよ。何で僕だけここから動けないんだろうって」

 「じゃあ――」

 

 治ったら一緒にサッカーしよう、と吐き出しそうとした口を無理やり閉じる。

 今が楽しければ、未来は自然と明るく見えるさ!と先週読んだ漫画で言っていたのを思い出す。

 

 「じゃあ――お前さ、なんかやりたいことないか、欲しいものでもいいぞ!」

 「え?急に言われてもなぁ……」

 「いいからなんか出せって!いい頭で考えろよ」

 「うーん……。あっ!」

 

 少し考えて、拓海はふと思いついたように声を上げた。

 健太は興味津々に拓海の言葉を待つ。


 「笑わないで、聞いてくれる?」

 「あぁ、もちろんだ!言ってくれよ」

 「僕は――除夜の鐘が聞きたいんだ」

 「じょやのかね?」

 

 拓海の意外な言葉に健太は困惑する。

 大量のナゼ、を浮かべながら見つめてくる健太を見て、拓海は笑いそうになる。

 

 「あー。ごめんね。急に変なこと言って……」

 

 はっ、と我に返った健太は大慌てで言葉をつなぐ。


 「あ、いやいや!いいと思う!除夜の鐘!うん。……なんで、除夜の鐘?」

 「だよね。本で読んだんだけどさ。除夜の鐘って、“煩悩を打ち消す”らしいんだ」


 ぼんのうって何だ、と思いながら、健太は必至で表情を変えないように努めた。

 

 「だから、その鐘の音で僕の嫉妬とか自己嫌悪とか、なくしてほしいなって」

 「――わかった」


 正直、拓海の言っていることの半分は理解できていない。

 でも、健太は拓海の願いを叶えると決めた。

 

 「俺が退院したら、聞かせてやるよ。だから元気に待ってろよ!」


 健太が右手をぐっと拓海の方へ突き出す。

 何をされているのか分からず、拓海はポカンと健太を見つめた。


 「グータッチだよ。知らねぇの?ほら、早く手ぇ握って出せって」


 言われるがまま、拓海は左手を健太へ突き出す。

 もっと近く、と言われて伸ばしきった拳に、健太の拳が当てられた。

 12月の寒空、その拳から伝わる温かさが、拓海には鮮烈だった。


 ♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦


 「どうすりゃいいんだー!」


 教科書が乱雑に積み上げられた机。

 壁に貼られた某サッカー選手の特大ポスターが見つめる先で、健太は頭を抱えている。


 健太は、除夜の鐘について調べてみた。

 日本各地にそれと名の付くものはあるらしいが、出てきた一覧に村の名前はなかった。

 

 「ちくしょー。母ちゃんに聞いても、『テレビでやるじゃない』で終わったし……」


 何となく、拓海にテレビを見せてやるのは違う気がしていた。

 何とかして本物の、鐘の音を聞かせてやりたいと健太は思う。



 「なにかないか……なにか……」

 

 焦る気持ちを押さえて、必死に頭を巡らせる彼の脳裏に、突然ある記憶がよみがえる。


 小学校の裏手にある小高い丘。

 数人の友達とかくれんぼをしている。

 鬼になった健太は意気揚々と丘を登り、彼らを見つけようと周囲を見渡していた。

 

 「たしか、あの丘の上に……」


 ♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦


 ハァ……ハァ……。


 思い出した記憶を頼りに、健太は坂道を登っている。

 冬の期間、この裏山は危険だということで立ち入り禁止になっている。

 それでも、記憶の真偽を確かめるため、健太は注意書きのローブを潜り、雪が積もる坂道を歩いていた。


 「ちくしょう……。松葉杖なんかなけりゃあ、余裕なのに……」


 雪に足を取られ、崩れそうになる体を無理やりに立たせながら、健太は白い息にまみれて先へ進む。

 朝早くに出てきたつもりだったが、目的の場所にたどり着いた時には、すでに太陽はてっぺんを少し過ぎたところにいた。

 

 「ハァ……。ハァ……。やっと、見つけたぁ」


 健太は雪の上にドサッと尻もちをつく。

 

 周りには、朽ちた木材が何本も地面から生えている。

 以前はそれなりの建物が立っていたらしい場所は、何もない開けた空間になっている。

 その空間の向こう。

 古く、大きな鐘楼が、ツタに絡まれながらその場所にたたずんでいた。


 ♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦


 「よし!行くか!!到着予定は23時。問題ない!!」

 

 12月31日。

 防寒着を身に纏い、カイロやお菓子などが入ったリュックサックを背負いながら、健太はゆっくりと立ち上がった。

 松葉杖は外れたものの、右足にはギプスがはめられている。

 歩くのにはだいぶ支障があるが、健太の決意は揺るがない。


 むしろ、右目にできた青あざが、彼の決意を鈍らせてくる。

 鐘楼の元に言ったあの日、帰宅早々母親に「どこに行っていたのか」と詰められた。

 ごまかしも通用せず、とうとう裏山に行ったと白状した途端に飛んできた左拳を、なすすべなく受ける健太。

 その後の2時間説教コースが彼の中では最も苦痛な時間だった。

 

 それでも、健太は今日、あの鐘を鳴らしに行く。

 自室の窓からそっと家を出て、裏山へと向かう。

 年の瀬の村は、どこもかしこもテレビに夢中だ。

 娯楽が少ないこの村では、それが当たり前になっていた。


 見つかることなく裏山の入り口まで来た健太は、一瞬戸惑うような素振りを見せるも、あの日のように一気にロープを潜った。

 

 夜の山道は、昼間とはまるで別世界だ。

 真っ黒に塗りつぶされた樹影は、遠近感を狂わせる。

 足元に続く一筋の白い道は、しかしその両端に落ちくぼんだ溝を隠していることを、健太は知っていた。

 できる限り早く、しかし慎重に彼は道の真ん中を進んでく。

 結局、健太が鐘楼にたどり着いたのは、日が変わる30分ほど前だった。


 「ハァ……。やっと着いたぜ。ギリギリ間に合ったな」


 ここから鐘を鳴らせば、村中に聞こえるだろうから、きっと拓海の耳にも届く。

 

 這うように鐘楼へ向かい、健太はその釣鐘に手をかけて体を支えた。

 鐘を叩く木材を支えていた紐はとっくに千切れ、その残骸を地面にのぞかせている。

 

 「どこかに手ごろな木は……」


 健太はキョロキョロと周囲を見渡す。

 真っ暗な中で目当ての物を探すのは目が慣れた今でも至難の業だった。

 

 「こんなことなら、この前来た時に準備しとくんだった……」


 この場所を見つけて喜んで帰った自分を今更ながら呪いたくなる。


 10分ほど歩き回り、ようやく手ごろな木の枝を見つけた。

 それを手に、健太は再び鐘楼へ上がる。


 「それじゃあ、行きますか!」


 「こらぁー!誰だそこにいるのはぁ!!」


 大きく木の棒を構えた健太の後ろから聞こえた突然の怒号。

 驚いた健太は右足からバランスを崩し、鐘楼から落下する。

 

 ザッザッ!と雪を踏む複数人の音が聞こえてきた。


 (ヤバい!やばいやばいやばいやばい――!)


 健太は転がる様に雪道を進み、茂みの中へと身を隠した。


 隙間から覗くと、何人かのお役所職員らしい姿が見える。

 

 「本当に、ここに誰かが入ってきたんですよね?」

 「はい。主人と一緒に見て……」


 そんな会話がとぎれとぎれ聞こえてきた。

 見られていない、というのは思い込みだったようだ……。


 「もう……時間が……」

 

 健太は焦りながらバッグを漁り、水筒を取り出した。

 

 「……これしかない」


 健太は水筒を右手に持つと、やり投げのように大きく構える。

 鐘楼までの距離を見事走破し、あの鐘へぶち当てる想像をしながら、健太は右足を踏ん張った――。


 ♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦


 「――で、君はどうしてまたここにいるの?」


 見慣れた診療所の天井を見上げる健太の耳に、聞きなれた声が入ってくる。


 「うるせぇな。さっきも説明しただろうが」

 「いや。面白いからもう一度聞きたくって……ふふっ」


 必死に笑いを堪えているだろう拓海の顔が目に浮かび、健太は彼に背を向けて寝ている。


 水筒を投げようとしたまではよかった。

 急に足元の雪が崩れて溝にはまり、そのまま転がり落ちたのが運の尽き。

 浮遊感だけは妙にリアルに覚えている。

 気づけば健太はこのベッドで、また拓海と並んで寝かされていた。


 「まぁ、除夜の鐘は聞けなかったけど、代わりに面白い話が聞けて良かったよ」

 「お前、またそんなこと――!」


 ガバッと振り返った健太の目に映ったのは、一筋の涙を流す拓海の顔だった。


 「本当に、本当に……。こんな僕のためにそんな怪我までする君は――面白い人だ」


 拓海の顔から、健太は目を離すことができない。

 

 「――もうすぐ僕は街に行って、変わり映えしない景色を眺める日々に戻る。君は、また元気になって走り回る日々に戻る」


 拓海の口からあふれるのは、


 「――僕らは偶然交わってしまった線だね。あとは離れていくだけだ……」


 現状への嘆きと、健太への嫉妬と、


 「――こんな僕が、何で生まれてるんだろうね……」


 何よりも拓海が自分へ向ける怒りだった。


 パンッ!と健太は唐突に拓海の頬をはる。

 突然の衝撃に目を白黒させながら拓海は健太を見る。


 「お前、そんなんでいいのかよ……」

 

 健太が紡ぐ言葉は、


 「――お前がもうすぐここからいなくなって、俺たちが会えなくなっても」


 未来に絶望する友へ伸ばす、


 「――生きていれば、必ずいいことあるってどうして思えねぇんだよ!」

 

 救いたいと願う手となり、拓海をつかんで離さなかった。


 男が泣くなんて、カッコ悪いと健太は思ってきた。

 ヒーローは決して涙を流さない!って、昔見たアニメのヒーローが言っていた。

 その通りだ、と今でも健太は思う。


 (でも、今だけはいいよな。ヒーロー)


 診療所にすすり泣く声が二つ、静かに広がっていく。

 

 ♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦


 雪解けの水が川のせせらぎを少し大きくしている。


 自分の家と同じくらい多くの時間を過ごした診療所を見上げると、少しさびしさがこみあげてくる。


 「今まで、お世話になりました」


 僕はあちこちに痛みが見える古ぼけた診療所に向かい、深々と頭を下げた。


 もう、ここには戻らないだろう。

 

 戻るとしても、いつになることやら……。


 両親が後ろで呼ぶ声がした。


 僕はゆっくりと振り返ったが、最後まで視線は診療所から離せなかった。


 バンッ。と車のドアが閉まる。


 父親が運転する白のミニバンは、ゆっくりと動き出した。


 「ぉぉぃ!待ってくれぇぇぇ!!」


 ――何か、聞こえた気がした。


 「ぉおい!待ってくれぇぇぇ!!」


 確かに、聞こえる。

 ――あいつの声が、聞こえる。


 「父さん!車を止めて!」

 

 急に僕が大声を出したものだから、父は慌てて車を止めた。


 横に座る母も、目を丸くして僕を見てきたが、それどころではなかった。


 急いで車を降りようと、シートベルトを外す。


 「ちょっと、拓ちゃん。いきなりどうして……」

 「ごめん、母さん。僕、行かないと!」


 車のドアを開け、外に飛び出した。


 急いで両親が後を追いかけてくる。


 あぁ、こんなに走ったのは何年ぶりだろうか。


 息が苦しい。


 足が重いし、痛い。


 それでも、この足を止める、という選択肢は浮かばない。


 ずっと、この息苦しさの中にいたい、とさえ感じる。


 フッと、体が前に倒れこんだ。


 浮遊感を感じたのは束の間。


 僕は何かに支えられて、立っていた。


 「ハァ……。ハァ……。悪いな。見送り、遅くなっちまった」


 いいんだ、と言いたかった。でも声が出せなかった。


 「お前にこれ、渡したくって。探してたら遅れちまった……」

 

 そう言って、その子が差し出してきたのは、鐘楼を模したキーホルダー。

 

 その子が軽くそれを振ると、舌が揺れて低く重苦しい音が出た。


 「除夜の鐘じゃねぇけど、これで約束果たしたことにしてくれねぇか?」


 「君……。もう春だってことわかってる?」


 「うるせぇ!こういうのに期限なんてねぇだろうが!」


 「そういうことにしておこうかな」


 「お前……。思いやりって言葉、勉強しろよな」


 軽口を叩きながら、僕たちは泣きながら笑いあった。


 嫉妬とか怒りとか、そういう気持ちはいつの間にか消えていた。


 別れ際にもう一度、


 健太と僕は鐘の音を鳴らした――。


 ♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦

 

 「――だからね。このキーホルダーはパパの宝物なんだよ」


 拓海が膝の上に目を落とすと、幸奈はウトウトと舟をこいでいる。


 「ちょっと、退屈だったかな……」


 拓海は幸奈をそっと抱きかかえると、ソファの上に寝かせた。


 「――さて、と」


 拓海はスリーブモードにしていたパソコンを立ち上げる。


 弁護依頼のメールにはすべて返信済み。


 唯一、未返信のメールを、拓海はクリックする。


 カタカタ、と短い文面を打つと、拓海はパソコンを再び落とし、掃除の続きを始めた――。


 ♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦


 【From. K.Hanamaki@~~~

  To.T.Imaizumi@~~~

  元気か。

  〇〇村の花巻健太だけど、覚えてるかな?

  弁護士になってますますご活躍の拓海先生に連絡を取りたくってあちこち駆けずりまわったぜ。

  ジャーナリストの伝手、舐めんなよ!

  ところで、年明けたら一緒に飲まない?

  20年ぶりに、たくさん話そうぜ。

  俺も嫁さんいるからよ。紹介させてくれ。

  返信、待ってるからな!】


【From. T.Imaizumi@~~~

 To. K.Hanamaki@~~~

  日時と時間、場所を教えてくれ。

  楽しみにしてるよ。】

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