ボクシング部の三女帝は僕を独占したい。~拳で語る不器用な恋の防衛戦~

空落ち下界

第1話 その恋は、音速で顔の横を通り過ぎた

「いいかい少年。恋とは拳で語るものだよ」


放課後の旧校舎裏。夕日に照らされた屋上で、先輩――氷川凛(ひかわ りん)は、真剣な面持ちでそう言った。

彼女の拳は、僕の頬からわずか数センチの場所を、空気を切り裂く鋭い音と共に通り過ぎていった。


「……あの、先輩」

「なんだい? 遠慮せずに言いたまえ。今のジャブ、少し甘かったかな」

「いえ、そうじゃなくて。……ここ、告白の聖地って呼ばれてる場所ですよね?」


僕は震える膝を必死に抑えながら、背後のコンクリート壁に刻まれた拳の風圧による跡を見つめる。

目の前の美少女は、ポニーテールを揺らしながらシュッシュッと軽やかにステップを踏んでいる。

制服のブラウス越しでもわかる、しなやかに引き締まった背筋。


「そうだよ。だから私は、君をここに呼びだした」

「呼び出した理由は……?」

「決まっているだろう。恋愛の稽古だ」


佐藤悠真の高校生活は、この瞬間に終わった。

……いや、別の何かが始まったのかもしれない。


ことの起こりは一時間前。

入学したての僕は、部活勧誘の喧騒から逃れるように図書室へ向かっていた。そこで、棚の隙間からこっそり『初めての恋愛心理学』という本を読んでいる氷川先輩を見かけてしまったのだ。


文武両道、容姿端麗、そしてボクシング部の元主将にして、学校一の孤高の女帝。

そんな彼女が、なぜか震える手で恋愛本を握りしめている。


「……あ」


目が合ってしまった。その瞬間、僕は襟首を掴まれ、気づけばこの屋上に連行されていた。


「佐藤君といったね。君はさっき、私の弱点を見た」

「弱点……あ、あの本のことですか?」

「黙れ。……いいか、私は今まで、人生の全てを拳に捧げてきた。その結果がこれだ。仕方ないだろう恋なんてしたことがないのだから」


凛先輩は悔しそうに唇を噛み、そして力強く僕の胸元を指差した。


「だが私は気づいたんだ。ボクシングも恋愛も、相手の懐に飛び込み、心を揺さぶり、最後は相手を『落とす』という点では同じではないかと!」


「……ええと、だいぶ語弊がある気がしますけど」


「同じだ! 相手の視線を読み、隙を突き、右ストレート(本音)を叩き込む!

これこそが至高のコミュニケーションだ!」


先輩の瞳には、一切の迷いがない。

彼女の中では、恋愛相談もデートも、全てはスパーリングの延長線上に構築されているようだった。


「というわけで、佐藤君。君には今日から私の練習台(スパーリングパートナー)になってもらう」


「えっ、僕、帰宅部志望なんですけど……」


「安心したまえ。君が一人前の男になるまで、私が徹底的に『愛の連打』を叩き込んであげるからね」


そう言って笑う彼女の笑顔は、夕日に映えて驚くほど綺麗だった。

けれど、その背後で握られた拳は、ミチミチと不穏な音を立てている。


「さあ、構えろ少年。まずは出会い頭の挨拶(ワンツー)からだ!」


僕の平和な高校生活は、先輩の鋭い右ストレートとともに、鮮やかに粉砕されたのだった。

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