地縛霊の零と夏

パ・ラー・アブラハティ

第1話 地縛霊

 蝉が五月蝿いほどに鳴いて、時雨が夏の暑さを助長させる八月。

 私は一週間前に借りた本を返しに陽炎が上るアスファルトの上を歩いていた。汗がきらりと太陽に照らされては、頬を伝わって滴り落ちていく。


 本を入れたトートバッグが肩に食い込んで、汗が滲んで気持ちが悪い。もう少しだけ歩けばクーラーの効いた図書館に着くけど、その前に私が倒れてしまいそうだった。


 空は嫌ってほどに晴れていて、雲一つない。避暑地となる影がなくて、少しの木漏れ日が火照る肌を冷ましてくれる。不意に吹く風が肩まで伸ばした髪を揺らす。


 ダラダラと覚束ない足取りで図書館までどうにか歩き切る。自動ドアが開いた瞬間、冷気が汗ばんだ肌を撫でる。


 私は受付横にある返却ボックスに本を入れ、図書館を後にする。またあの炎天下に行くのは気が進まなかったけど、いつまでも図書館にいるわけにはいかない。


 だから、勇気を振り絞って晴天の下に繰り出すけど、やっぱり暑くてすぐに戻りたくなってしまう。戻りそうになる足に喝を入れて、むせかえりそうな世界を歩き出す。


 軽くなったトートバック、小鳥が羽を休めるために電線に止まっている。ちゅんちゅんと可愛らしい鳴き声は、太陽に吸われて宇宙へと響いていく。


 暑さに耐えれなくなって帰り際にあるコンビニに立ち寄って、男性店員の「いらしゃいませ」が自動ドアの開閉音と共に鼓膜を通過していく。


 私はアイス売り場に足を向かわせる。様々なアイスが綺麗に陳列されていて、迷うことなく一番安いバニラアイスを選ぶ。学生の財布にはこれが一番優しく、味も申し分ない。


 そのため、私は好んでよく買っていた。今日もそれを手に取り、レジでお会計を済ませる。男性店員の間延びした「有難うございました」が背中に張り付いて、暑さがまた体を襲う。


 手にぶら下げられたビニール袋が揺れて、中にあるバニラアイスが家まで持つのか心配になってくる。溶けてしまう前に近くにある公園で先に食べてしまおうと思い、進路を家の方向とは少し外れた道に入って閑散とした公園にたどり着く。

 夏休み真っ盛りだというのに元気よく遊ぶ子供の姿がなくて、私は侘しさを抱えながらベンチに腰を下ろす。

 

 (でもまぁ、この暑さだしいなくても仕方ないか)

 

 ビニール袋からバニラアイスを取り出して、パリッと封を開ける。少しだけ溶けかけたアイスを一口食べた瞬間、甘味と冷たさが全身を駆け巡って、夏の暑さがどこかへ逃げていく。

 口にアイスを頬張ったまま青空を見上げ、白い雲がふよふよと流れ、手を伸ばせば届きそうな気がして腕を伸ばす。


 「なんて届くわけないか……」


 私は自分がしたことに苦笑しながら、腕を下ろしてそのまま空を見上げる。ダラダラと口に頬張ったアイスを溶かして、汗は燦然と煌めきゆらゆらと空を泳ぐ少年が目に止まって、私はアイスを吹き出しそうになってしまう。幻覚を見ているのかと思って目をこするけど、やっぱりそこには少年が浮いていた。


 暑さで頭か何かがやれてしまったのかもしれない、いやでもちゃんとそこには少年がいて。優しげな表情に悪意や敵意はなくて、少年はじっとこちらを見ていた。

 私は興味本位でつい声をかけてしまった。


 「ねぇ、なんで浮いてるの?」


 声をかけられた少年は一度後ろを振り返り、そしてもう一度私の方を見る。


 「僕のことが見えるの?」

 「うん。見えてる」


 黒色の瞳が私を見つめて、風がさぁぁっと吹いて木々が揺れ少年はふわりと着地する。


 「僕が見えている人に出逢うのは初めてだよ」

 「私も空を飛んでる人に会うのは初めてだよ」

 「怖くないの? 僕のことが」


 少年は頬を綻ばせて優しく微笑む。

 私は少し考える素振りを見せて、「怖いというよりかは不思議だなぁって」と頬を掻く。

 

 「そっか。じゃあ僕がどんな存在かわかる?」

 「幽霊ってやつ?」

 「正解。僕はこの世界に留まっている地縛霊なんだ」


 にわかには信じられない言葉を当たり前の事を言いましたといった表情をして、綺麗に通った鼻筋が太陽光に縁取られる。

 でも、私はその言葉をあっさりと信じた。だって、空を飛ぶ人間なんてそれ以外で納得できるはずがない。むしろ、幽霊じゃないと言われた方が数倍怖い。


 「幽霊って普通成仏したりするものじゃないの?」

 「普通はそうなんだと思うけどね、僕は多分心残りがあってこの世界にお別れが言えてないんだと思う」


 少年は胸に手を当てて、儚くて寂しそうな顔をして青空を見上げる。

 自分の心残りがわからないって、少し面白い幽霊だな、なんて呑気なことを思って興味や好奇心が体の芯まで支配していく。

 どくどくと脈打つ心臓が気持ちを逸らせて、不意に吹いた風が運命めいていて私は少年に「それじゃ、その心残りを探しに行こうよ!」と提案していた。


 「えっ?」

 「だから、その心残りを探そうって言ってるの」

 「どうして君が僕の心残りを探すの?」

 「気になるから」

 「でも、生きていた頃の記憶はもうほとんどないんだ。手掛かりもないし」


 少年は驚きながらも私の提案をやんわりと断ろうとしてくる。お構いなしに手を引っ張って連れて行こうとするけど、手は空を切る。


 「触れない」

 「そりゃそうだよ。幽霊だもん」

 「あぁ、なるほど。確かにそうだよね」

 「でも、本当に僕の心残りが気になるの?」

 「気になるし、いつまでもここにいちゃダメだと思う」

 「……そう。じゃあ、お願いしてもいいかな、えっと」

 「鳴海沢夏。夏って呼んで」

 「僕は透野零。これから、よろしく夏」

 「うん。よろしくね零」

 

 零は根負けしたのか私の提案を受け入れてくれて、ここから私と零の一夏の心残りを探す二人の時間が幕を開けた。

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