ペルソナのクラック

真崎 一知

第1話 動員の選別

 本作品はある実体験の記録をベースに再構成したものですが、登場する団体・個人はすべて架空の存在です。特に作中の描写や会話は、物語としての完成度を高めるためのフィクションであり、実在の特定の出来事を指し示すものではありません。


 誰が言ったのか?

 恐らくヴィクトール・フランクルだと思う。

 確か「夜と霧」だったか。こんな文章ではなかったかと思う。

「強制収容所での時間、それは一日が一週間よりも長い」

 私はその言葉の意味をある程度、理解できると自負する。

 その理由は読み進めていただければ、自ずとお分かりになると思う。

 少なくとも、私にとっては、そのくらいのインパクトがあった。


 いったい、何年前の夜だったろうか。今となっては、もう遠い記憶の彼方だ。

 他のことはほとんど忘れた。でもあの夜のことだけは鮮明に覚えている。

 当時は誰もマスク常備なんて考えてもいなかった。


 私は日常の世界から隔絶されていた。その場に居た八人の中の一人だ。

 厳冬の山奥、私はもはや自分が誰なのかも忘れていた。

 目の前を通る防護服の群れは、誰が男で誰が女かもわからない。ただ、使命感という重い鎖に繋がれた、名もなき歯車たちのパレードだった。

 無機質な事務室で、公平という名の無機質な抽選を引いたあの日。

 背を向けて去ったあの人、あたたかい部屋で何を思うだろう。

 そんなことはどうでもいい。今はただ、この「ペルソナ」に刻まれた無数のクラックから、冷たい風が入り込んでくるのを感じていた――。


 ――その日

 私は日中、現地調査をしていた。

 正午頃、職場に連絡した。「これより帰ります」と。

 電話を取った同僚が言った。「チーフ、管内で□□が発生しました。今夜から動員です」と。


 私は職場に戻り、説明を受けた。

 防護服を身にまとい作業する者の動員については、この団体に属する全員が対象となり、発生現場にバスで運ばれてくる。

 我々は受け入れ側である。防護服をまとう班にも当然動員されるが、別の役割もあった。

 私は防護服をまとう役割ではなく、別の役割に配された。防護服の作業員を支援する。

 屋外で行う場合、公民館や体育施設等の屋内で行う場合もある。私は屋外だった。

 私の班の役割とは……ゴーグル、マスクや防護服等の装備の管理、泥にまみれた作業区画での履物の整理、備品管理、作業員の私物の管理、飲食物の配布等など、雑用の集合体とでも言おうか。……だとしても、我々の他にそれをできる者、そんな人は誰も居ない。


 動員順を決めるのは、籤。

 動員を免れる条件は、いくつかある。

 誤解を恐れずに簡単に言い切るなら、持病による行動制限、育児中、家族の介護等、事情を聴いた者全員が、納得するレベルの理由を持っているということに尽きる。

 私はどれにも該当しないので、当然にそれを引かねばならい。

 正直、逃げられるなら逃げたかった。しかし、我々には使命・義務がある。この期に及んで、躊躇いを見せること等、その矜持が許さないのだ。

 もちろん、事情がある者は堂々と言えばよい。

 それを恥じる必要は一切ない。弁解などではなく、事情説明と誰もが思うだろう。


 しかし、静かに去ることを選んだ背中もあった。

 その背中が我々に残した「お疲れ様でした」の言葉。

 それは虚しく宙に漂い、冬の冷気の中に消えた。


 私に割り当てられたのは、三番目。深夜帯だった。

 もっとも深い闇と寒さに沈む時間帯。

「今回は手当が出るから代休はなし。翌朝動けないなら、有給を使って休むように」

 そんな事務的な通達が、事態の深刻さを物語っていた。

 課長は気休めのように、「たぶんチーフまでは回ってこないよ」と言った。

 私はその楽観論を心から信じたかったが、胃の方から嫌な予感が湧いてきて仕方がなかった。

「心からそう願いますが、こういうことは滅多にありません。間違いなく現場は混乱して、予定通りにはいかないと思います。どうも、私の番まで回ってくる予感がします」

 自嘲気味に返した私の言葉は、悲しいほどに的中してしまった。


 十三時以降、ずっと雪が降っていた。

 徐々に風が強まり、刃のように人に切りつける。

 出発が近づくにつれ、先に現場入りした同僚たちから、悲鳴のような情報が次々と飛び込んできた。


「現場はとんでもなく寒い。考えられる限りの重ね着をしてこい。カイロも、予備の予備まで持て。温かい飲み物は魔法瓶で、死守するレベルの量を用意しろ」


 公民館等からの連絡は、さらに切実で具体的だった。

「底冷えが尋常じゃない。風がないのが唯一の救いだけど、足の先から感覚がなくなっていく。靴を脱がなきゃいけないから、足指の痛みが耐えがたい。分厚い靴下を、これでもかってくらい重ねて。暑ければ脱げばいい。でも、一度冷えきったら、おしまいだから」


 スマホの画面越しに伝わってくる、未知の寒さへの恐怖。

 私は震える手で、上も下も何枚も重ね着し、靴下も何枚も重ねて履いた。

 リュックには、白湯入りの水筒を詰め込んだ。


 ――そして、既定の集合時間になった。

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